32 ルカに焼きもち?
そして、まもなくルカがやって来た。女性ならさぞかし美しいだろうと思われるほどの美貌の持ち主で、細身で優美。可憐とさえ言いたくなる所作は、男性にしておくのがもったいないほどだった。
さらに、まるで魔法のように刺繍糸と針を操り、次々と息をのむほど細やかな刺繍を施していく。私は素晴らしい師を得たとばかりに、満面の笑顔でさまざまなステッチを教わった。すると、公爵は幾度となくサロンに姿を見せ、ルカの座る位置が私に近すぎるとか、手が触れぬように気をつけろとか、細々としたお説教めいたことを言っては、また執務室に戻っていった。
「今日の公爵様は、なんだか変ですわね。いつもはあれほど口うるさくはありませんのに……」
「愛されている証拠でしょうね。こう見えても私は男性ですから。刺繍の指導とはいえ、愛する奥様のそばに長く居られるのは、お気に召さなかったのでしょう」
ルカはくすくすと笑いながら、さらにこう付け加えた。
「私には愛する妻と、二歳半の長男と一歳になったばかりの次男がいることを、公爵閣下にぜひお伝えください。夫婦仲はとても良好ですし、私自身、妻を心から愛しております。ですから奥様に手出しなど、この命に懸けてもあり得ません。閣下はかなり焼きもちを焼いていらしたようですからね」
「まぁ、旦那様がそんなふうに思うはずがありませんわ。焼きもちだなんて、ありえませんもの」
「いえいえ、男の私だからこそ、よくわかるのですよ。ともあれ、私の言葉をしっかりとお伝えいただけませんか? 私は火であぶられるのはごめんですし、一刻も早く閣下のご不安を鎮めてさしあげてください」
にこやかにそう言われて、私は苦笑しながら執務室へと向かった。
「公爵様、少しお話があります。入ってもよろしいですか?」
「あぁ、入っていい。俺も君にちょうど話があった。どんなに刺繍の腕が良かろうと、デュボア伯爵夫人の弟であろうと、相手は男性だ。彼を師として、これからも刺繍を学びたい――などとは頼むから言わないでくれ。到底、許すことはできないからな。そのつもりで」
公爵は、明らかに機嫌が悪かった。なぜそこまで怒っているのか、正直よくわからない。
「あの……もしかして、公爵様はルカさんに嫉妬なさっているのですか?」
思いきって口にすると、公爵の肩がぴくりと揺れた。
「嫉妬? 俺が、か?」
「ええ。私があまりにもルカさんを素晴らしいとほめたり、近くで指の動きをじっと見つめておりましたから。でも、私の中にやましい気持ちなど一つもありませんのよ」
「そんなことはわかっているさ。しかし……あいつは綺麗な男だ。舞台俳優にでもなれそうなくらいだ。あのような中性的な男を好む女性も多いからな」
そう言って、公爵は執務室の椅子から立ち上がり、壁際に立っていた私のほうへ歩み寄った。
まるで壁に追い詰められたような距離感に、私は思わず身をこわばらせた。
「ち、近いです。ルカさんを男性として意識したことは一秒たりともありませんわ。それに、ルカさんから公爵様にぜひお伝えしてほしいと頼まれたことがあります」
私は息を整えて言葉を続けた。
「ルカさんには奥様がいらして、小さな息子さんがふたりいらっしゃるそうです。刺繍用品専門商会――ドノン商会の婿養子で、今は職人兼営業として商会の顔を務めていらっしゃいますの。商会長に見込まれて、さらにお嬢さまにも見初められてご結婚なさったそうですわ。ですから、私に手を出すようなことは、命に懸けてもあり得ないとおっしゃっていました」
公爵の唇が動いた。けれど、すぐには言葉にならなかった。
そして、ほんの一拍の沈黙のあと――
「彼は、結婚しているのか? ふーん、なるほど、なるほど。そんな立場なら、彼の言うことはもっともだな」
険しかった表情が、ぱっと晴れやかな笑顔に変わった。
いやに嬉しそうで、思わず私は不思議な気持ちになった。
「また彼や伯爵夫人を呼ぶといい。あぁ、来週にでも皆を招待しようか? 刺繍用品専門商会なのだろう? ルカの妻も呼んでかまわない。そうだ、ルカがそこまで素晴らしい腕前なら、キーリー公爵家で他のご夫人方も招いて刺繍教室でも開いたらどうだ?」
さっきまでの公爵とはまるで別人だった。
「公爵様、それは素晴らしいですわ! あれほどの刺繍の腕前ですもの、皆様きっと教わりたいとお思いになるでしょう。それに、優れた職人を優遇すれば、多くの人材も育ちます。それはきっと将来、キーリー公爵領の大きな財産となりますわ」
「そのとおりだ。……なんて賢い奥方だ、君は素晴らしい!」
公爵は満面の笑顔で、私の髪にそっと口づけた。
「あ、あのぉ……今のは……」
「俺は君が――」
言いかけた公爵の声をかき消すように、大声をあげながら侍女長が執務室に入ってきた。
「旦那様、奥様、大変でございます! アベラール様が池に落ちました。一緒に遊んでいたアリシア様をかばわれたようです!」
「大変!」
私は慌てて庭園へと駆けだした。




