14 アベラールのお引っ越し
朝、目を覚ました私は、隣で静かに眠る公爵にそっと視線を向けた。
私たちの関係はいわゆる“白い結婚”。けれど、それが不幸な結婚だとは思っていない。
公爵が優しい方だとわかったし、アベラールのことを嫌っていたわけでも、虐げていたわけでもない――それは先日の出来事でよく伝わってきた。
幼い頃、公爵自身もまた離れに隔離され、両親の愛情に触れることなく育ったという。今では、アベラールと同じように、彼もまた傷を抱えた存在なのだと感じていた。
愛されずに育った公爵だからこそ――今度は私が、家族としてたくさんの愛を注いであげなければ。そんなふうに思った。
今日の公爵は、珍しく私のほうへ顔を向けて眠っていた。
そのままゆっくりと目を開け、私の視線に気づく。
見つめていたことがばれてしまい、思わず息が詰まった。
「いつも君が先に起きているな。……おはよう」
寝起きとは思えないほど整った顔立ちに、つい見惚れてしまう。けれど、私はずっと胸の内で温めていた思いを、意を決して口にした。
「はい。おはようございます、公爵様。……いきなりで申し訳ありませんが、アベラール様を、私の部屋の隣に移していただけないでしょうか?」
一瞬、彼の表情が動いたのを見て、私は続ける。
「十歳まで離れにいなければならないなんて、あまりにもかわいそうです。夜中に怖い夢を見て泣いたとしても、離れでは駆けつけることもできません。ここまで、泣き声は届きませんもの……」
「君は面白い女だな。世間的には、継子なんて遠ざけるものだろうに」
「遠ざける? なんてもったいないこと!」
私は少しだけ声を弾ませて言った。
「ひとつも痛い思いをせずに、あんなに可愛い子の母親になれるんですよ?……私にとっては、それだけで十分すぎるほど幸せです」
「……そうか。……アベラールの部屋は、好きにしろ」
なぜか公爵がクスクスと笑った。
どうやら『もったいない』という私の言い方がおかしかったらしい。
「ありがとうございます! じゃあ、さっそく隣の部屋に移しますね。これでアベラール様も、安心して眠れますわ。……今日の公爵様も、とっても素敵ですわよ。いつものことですけれど」
私はにっこりと微笑んだ。私にとっては、ごく自然な『おはよう』のあいさつと同じ。家族なら、『お互いをほめ合う』のは普通のことだと思っていた。……けれど、公爵はその場でぴたりと動きを止めた。
やはり、私のこと……お嫌いなのかしら?
「あの……おはようのあいさつの一環ですわよ? 家族としての……。もしかして、お嫌でしたか?」
「いや、構わない。ただ……キーリー公爵家では、そういう習慣がなかっただけだ。その……君の好きなようにすればいい」
私は離れのアベラールの部屋にいそいそと駆けていく。侍女やメイドたちが目を丸くするけれど、私が手を振るとにこにこと振り返してくれた。
「アベラール様のお引っ越しよ」
使用人とすれ違うたびにそう声をかけながら進んでいるうちに、気がつけば私の後ろにはメイドたちがぞろぞろとついてきていた。フットマン達も、力仕事は任せろとばかりに、体格のいい者たちがずらり。
アベラールの部屋につくと、ひとりで身体を丸めて猫のように寝ていた。以前とは違って掃除の行き届いた綺麗な部屋だが、やっぱり離れにひとりぼっちは寂しすぎる。だって、まだ五歳なのよ?
そっと彼が目覚めないように頭を撫でながら寝顔を見守る。朝の光にキラキラ輝く金髪、長いまつ毛に愛らしい顔立ち、成長したらきっと公爵に負けず劣らずの美貌の貴公子になるわね。
そう思いながらウキウキと目覚めるのを待つ。最近はずっとこのようにアベラールのもとに駆けつけ、寝顔を見ながら目覚めるのを待つことが多い。やがて、パチリと目を開けて……青空を切り取ったような澄んだ瞳と目が合った。
「ジャネ……おはよう……きょうもジャネがいて……うれしい」
「まぁ、私もとっても嬉しいわ。今日も天使の寝顔が見られましたからね。でも、聞いて。今日からアベラール様はお引っ越しをするのよ。私の隣の部屋に移ります。公爵様が許可してくださったわ。これからはいつだって、私の部屋に来ていいのよ」
「ほん……とに? ぼく、ここにいなくていいの?」
「もちろんよ。はじめから離れにいる必要なんてなかったわ。私が来たからには、もう隔離なんてさせないわ」
瞳に涙がにじんでいる幼子をこの腕に抱きしめた。
これで私も安心して眠れるわ。だって、離れでひとりぼっちで寝る五歳児なんて、考えただけで悲しくなってしまうから。




