11 ずうずうしい前妻・幼少期の公爵
「奥様。前の奥様、バルバラ・レニエ様がお越しでございます。アベラール様のお母上です」
「いきなり、このような時間にですか? 先触れもなく無礼でしょう? お帰りいただきなさい」
ここはキーリー公爵家。なんの知らせもなく、ましてこのような非常識な時間帯に来るなど、どんなに仲の良い親戚であってもあり得ない。まして前妻で、キーリー家とはすっかり縁が切れた方、アベラールの実母といえど簡単に通すわけにはいかない。
けれど、そんな私の思いとは裏腹に、バルバラはまるで自分がまだキーリー公爵夫人であるかのような尊大な歩き方で、食堂にまで姿を現した。金髪碧眼でアベラールそっくりの繊細で美しい顔立ちなのに、底意地の悪い笑みを浮かべているから、邪悪な雰囲気で少しも綺麗に見えない。
「まぁ、男爵家出身のくせに、ずいぶんと生意気ですのね? 私は公子の実母ですのよ。キーリー家は私の家でもありますわ」
「も、申し訳ありません、ジャネット奥様。お止めしたのですが、無理やり入ってきてしまい……レディの身体に障るわけにもいきませんし……」
キーリー公爵家の警備兵たちが私に向かって詫びる。侍女長もおろおろしていて、どれだけこの前妻が図々しいかがわかった。
「レニエ伯爵家ではこのような振る舞いが常識なのですか? 私の実家は男爵家とはいえ、礼儀作法に反するような非常識な行いをしたことも、されたことも一度もございません。先触れもなくこのような時間に、無理やり押しかけるなんて……」
「うるさいわね。それより、私の息子はどこかしら? この時間に来たのは、一緒にディナーを食べてあげようと思ったからですのよ」
「……はい? そちらをお招きした覚えはありませんが?」
「あら、息子と食事をするのに、あなたという“他人”の許可が必要なの? 私は王妃殿下の妹ですわよ! グダグダ文句を言うと、ただじゃおかないんだからっ。──あっ、アベラール! 久しぶりね。あなたのママよ、ママ! 会いにきてあげましたわ。寂しかったでしょう?」
夕食の時間は、いつもほぼ決まっている。アベラールはそれを守って時間通りに食堂に姿を現した。だが今、彼はまるで時が止まったかのように固まっている。
「まぁ、そんなに嬉しかったの? やっぱり血の繋がりって、素晴らしいものですわねぇ。さあ、ママのところにいらっしゃい」
その言葉に、アベラールの顔がみるみるうちに青ざめていく。呼吸は浅く肩が小刻みに揺れ、今にもパニックを起こしそうな様子が、私の目にもはっきりと見て取れた。
──次の瞬間だった。
最初に会ったときと同じ、いいえ、それ以上の激しい魔力の暴走。
火の玉が食堂の壁を焼きながら飛び、バルバラの悲鳴が響き渡る。逃げ惑う彼女を尻目に、私はまっすぐアベラールに向かって手を広げた。
「落ち着いて、アベラール。怖くない、大丈夫よ。私がいるから。絶対にあなたに手は出させないし、酷いことも言わせない」
優しく、しかし強く言い聞かせながら、私は彼をしっかりと抱きしめた。
水魔法を駆使して、どうにか火の勢いを鎮めていく。
──やがて、落ち着きを取り戻し、私の身体にしがみついて震えるアベラール。両手の甲にはヒリヒリと焼けるような痛みを感じたが、そんなことよりアベラールが心配で、少しも気にならなかった。
「いったい、何の騒ぎだ? ……また君か。俺の息子に構うなと言っただろう」
ちょうど屋敷にお戻りになった公爵は、事の発端であるバルバラではなく、真っ先に私を叱りつけた。
バルバラは勝ち誇ったような笑みを浮かべて公爵に身を寄せるが、彼はまるで邪魔な虫でもいたかのように、片手でピシリと撥ねのけた。
「キーリー公爵家の跡取りは、代々、莫大な火魔法の魔力を受け継ぐ。皆、自分の魔力を制御できるようになるまで、十年はかかる。俺もそうだった。だからアベラールも、十歳になれば自然と落ち着く。放っておけばいいんだ」
私に向かって当然のようにおっしゃる公爵に、私は即座に反論した。
「放っておけるわけがありません! この子は、まだ五歳になったばかりなんですよ? あと五年も……ひとりで苦しませたままにするなんて……だいたい、“自分もそうだった”とおっしゃいますが……公爵様のお母様だって、きっと心配されたでしょう?」
「母は、俺が生まれたときに亡くなった。難産だったそうだ。だから俺は、生まれてから魔力が落ち着くまで、ずっと一人だった。父もそうだったらしい。食事や着替えは廊下に置かれ、学問は基本、書物で独学。家庭教師も、扉越しに声だけで講義をしていた」
キーリー公爵は冷たい人間というわけじゃなかった。ただ、それが“普通”だと教えられ、それが“正しさ”だと信じて育ってしまっただけ……。
でも、それって、なんて……なんてお気の毒なの……!
私はそっと、公爵をアベラールにするように、静かに抱きしめた。
「お、おい、なにをしている?」
突然のことに、公爵は硬直したように身じろぎもしなくて……




