99:そこで肯定したらBとかLの世界になるだろうが
柔道は本当に辛い。
剣道は義兄に張り合って、すぐ初段を取ったが。
早朝5時起きということもある。昨日の疲れが取れないまま、周は倉橋と共に道場へ向かい、富士原から【訓練】を受けた。
なんでもそうだが、上手くできない時の悔しさ、歯がゆい気持ちは次第に気持ちを落ちこませてしまう。まして相手は、まだ初段にも至らない自分よりもはるかに高いところにいる猛者だ。
背中が痛い。
いったい何度、投げられただろう。
畳の上に身体のあちこちをぶつける度、骨が軋むような気がした。
そんな早朝を終えた後はいつものランニングである。
「……大丈夫か?」
上村に心配されるようではお終いだ。
周は苦笑いをしてみせて、初めは皆に合わせて走っていた。しかし。段々とペースが落ちて行く。倉橋もそうだ。
その内、友人は倒れてしまった。
「護!!」
周は駆け寄ろうとしたが、身体が言うことを聞いてくれない。すると。保健当番の学生が2人がかりで彼を支え、医務室へと連れて行く。
きっと精神的な疲労の方が強いのだろう。
周は彼を窃盗犯に仕立て上げた人物に対し、言いようのない怒りを覚えた。
彼は絶対にそんなことはしていない。
そうしてすっかりペースを落とし、列の最後尾を必死で走っている時だった。
「これは、僕の独り言だ」
初期の頃はすぐに息が上がり、まともに最後まで走ることができずにいた上村が、今は話すことができるまでに成長している。
「考えられるケースは2通り。若狭巡査が自分に注意を向けたくて、自作自演した可能性。倉橋巡査が彼女に懸想していることは、女子学生全員が知っていた」
「そんな、ことして……」
何になるんだよ、と言いかけたが声が出なかった。
「女性の気持ちは僕には理解できない」
それはそうだ。
「あるいは……真の狙いは君だという可能性だ」
「俺……?」
「倉橋巡査に何かあれば君が必ず彼を庇うだろう。そうしてペナルティと言う名目で、特訓と称した虐待を計画していた」
虐待。
確かにそう表現するのが相応しい気もする。
前にいた武術専任の教官は厳しい人だったが節度があった。それに何より『礼』を重んじていた。だが。
今度の教官は単に弱い者をいたぶって喜んでいるようにしか思えない。
「あの富士原教官……あれはいろいろな意味で残念な人だ」
上村の言うことは理解できる。表現を抑えているが本当のところは【クズ】とでも称したいに違いない。
「気の毒だが君は、頭の悪い人間から嫌われる傾向があるようだ」
そう言って彼はちらりと視線を、前方を走る学生達に向けた。多分気のせいではない。その先にいるのは水越と栗原、そして谷村だ。
「じゃあ、上村は……俺のこと、好き?」
「冗談を言える余裕があるなら、心配いらないな」
周は笑おうとしたが、上手くいかなかった。
朝食は食べずにおいた。
食欲がない。
午前の授業は座学が1コマと、逮捕術である。
授業はどんどん進んで行くのに眠気のあまり集中できず、焦りばかりが募ってしまう。
そうこうしている内に終業のチャイムが鳴った。
倉橋は1時間目の授業を休んでいた。この後、どうするだろう?
次の授業に向けて周は更衣室へ向かった。
「……藤江君、大丈夫? 顔色悪いよ」
廊下を歩いている周にそう声をかけてきたのは、若狭と能登の北陸コンビだった。
先ほど上村から聞いた話が頭にあったのと、疲れのあまり、周はロクに返事もしないで彼女達に背を向けた。
すると。
「おい」
誰かに背後から肩をつかまれる。
振り返ると谷村が立っていた。彼女はいかつい顔をしかめ、
「それが仲間に対する態度か?」
「……お前に言われたくない」
「なに?」
「忘れた訳じゃないだろうな。お前が、お前らが亘理巡査にしたこと……」
谷村と北陸コンビの少し後ろを、亘理玲子が歩いていた。彼女は自分の名前が出たことに気付いて顔を上げる。
「藤江君!!」
何を思ったか彼女は急に、周の腕に抱きついてくる。
「ねぇ、さっきの授業でちゃんとノートを取れなかったところがあるの。あとで見せてもらえないかな?」
それはむしろ、こちらがお願いしたいぐらいだ。
そうして彼女はこそっと耳打ちしてきた。
「関わっちゃダメ」
どういう意味だ?
こちらに問いかける隙を与えず、玲子は手を放して走り去る。
周は不思議な気分でひたすら彼女の後ろ姿を見送った。
※※※
逮捕術の授業。
挨拶と準備運動のあと、再び整列する。
道着姿の雨宮教官は、一同をぐるりと見回して笑う。
「皆、喜んで。今日は特別に富士原教官が犯人役をしてくださるわよ!!」
防具をつけた富士原がニヤニヤと嫌な笑顔を浮かべ、学生達を見ている。
「各班、交代で1人ずつ攻撃を仕掛けて。それぞれ持ち時間は1人3分。皆で協力して、見事に教官をノックアウトしてごらんなさい」
頑張ってね~、と呑気に言って彼女は壁にもたれ腕を組む。
班分けは5人1組で構成されている。1人3分の持ち時間で、サシでの勝負だ。
逮捕術の授業では得物を手に闘うことができるから素手よりも勝てるような気はするが。
周の所属する班では、仕切りたがり班長が率先して口を開く。
「初めに弱い奴が出て、教官のスタミナを削ろう。最後の方に……栗原、お前って確か柔道3段だよな?」
「……教官に勝てる気はしないんだが……」
「何言ってんだよ。日頃、散々いびられてるんだから、ここがチャンスじゃないか!!」
躊躇している栗原を他所に、班長の男子学生は周を指差す。
「藤江、お前トップバッターな? 一番弱そうだから」
カチンときたが否定する材料がない。
警棒に見立てた短い竹刀を手に取る。
よろしくお願いします、と挨拶を交わした途端、周は頬に強い衝撃を感じた。
いきなり殴られた。ふらついた周の身体は平衡を取ることができず、畳の上にダウンしてしまっていた。武器は既に手から離れている。
立ち上がらなければ。
ふらつきながらもどうにか再び構える。
しかしその後も次々と、容赦なく攻撃が浴びせられた。
何度もまともに身体中、パンチや蹴りを浴びて眩暈を感じながら、周は3、4度とダウンしてしまう。
殺される!!
心底、恐怖感を覚えた。何とか身を守らないと。
震える手で周が竹刀に手を伸ばした時。
「殺す気ですか?!」
激しく笛の鳴る音に加え、雨宮教官の叫びが聞こえた。
頭上で何かやりとりする声が聞こえたが、内容はわからない。
目が霞む。息が苦しい。
道場の隅に膝立ちで這って行き、壁にもたれて周は袖口で額の汗を拭いた。
瞼が重い。
そうして目が覚めた時、医務室にいた。
※※※
「……目が覚めた? 寝不足もあったんでしょうね」
雨宮教官がこちらを見下ろしている。
「いいわよ、寝たままで。雪村君のお気に入りの子に何かあったら大変だもの」
お腹空いてる? そう問いかけられ、周は首を横に振る。
「今、何時ですか……?」
「ちょうどお昼休憩の時間ね」
「護……倉橋巡査は?」
隣のベッドは空だ。
「さっき、復帰したわよ。若いっていいわよね」
本当に大丈夫なのだろうか?
「ねぇ、藤江君」
女性教官は謎の笑みを浮かべて、こちらを見下ろしてくる。
「猫、好き?」
「……はい?」
「にゃんこは好きか、って聞いてるの」
「……大好きです」
「じゃあ、これあげるわ」
そう言って彼女は制服のポケットからチケットのようなものを取り出した。
「明日、ホントならお休みの日でしょ。外出禁止令を何とか解除してあげるから、猫好き仲間と行ってみたら?」
【癒しの猫カフェ ラング・ド・シャ ドリンク一杯無料サービス】
その店名には何となく覚えがあった。
「雨宮に聞いてきたって言えばサービスしてもらえるわよ? ここのオーナー、私の友達だから」
「ありがとうございます……」
周は素直に礼を言って受け取った。
「うちの娘もね、猫が大好きで……おっと。時間がなくなるわね」
それじゃあね、と雨宮教官は去って行く。
少し元気が出た。
ついさっきまで、世界中から見放されたような気分になっていたのに。
クーポン券に書かれている黒い猫のイラストを見ていたらなぜか急に、和泉のことを思い出した。
そうしたら急に空腹を覚えてきたのだった。
逮捕術の授業については、とある現役警官のブログってやつを参考にさせてもらいました。
その方は『マジで殺されるかと思って逃げ回った(笑)』と仰っていましたが……。




