86:よく噛んで食べなさい
さすがに教官から一本取るなんていうことは出来なかったけれど、それなりに形はつかめてきた気がする。
「……今日のところは、これぐらいにしておこうかしらね」
「はい。ありがとうございました!!」
周は北条に向かい、深く頭を下げた。
道場を使用した後は、掃除をしておかなければ。周は用具入れに走って行った。
すると。北条は周の手から箒を取り、畳の上を掃除し始める。
「いや、あの。1人でやっておきますから」
しかし彼は、
「2人でやった方が早いでしょ? それにね。他人に命令するばっかりで、自分は指1つ動かさない人間なんて、上に立つ資格はないのよ」
その妙な口調さえなければ、本当にいい人だと純粋に思う。
周は掃除用具入れからもう一本、箒を取って来た。
一通り掃除を終えると、
「私服に着替えて、駐車場で待っててちょうだい」
「え? どうしてですか」
「これからお昼御飯に行くのよ」
そう言えばもう午後1時半を回っている。
言われた通りに服を着替え、周は駐車場に向かった。
するとやはり私服に着替えた北条がやってきた。
「こうやってあんたを特別扱いすると、また何か言われるのかしらね?」
皮肉な笑顔を見せながら語る北条の視線は、正門の方を向いていた。
周も同じ方向を見た。
富士原と栗原、谷村の3人が一緒に乗り込んだ車がちょうど、門をくぐるところだ。あの2人は、あの教官と仲が良いのか……。
仲が良いというか、共謀しているというか。
いけない。
仮にも仲間を、教官を疑うなんて。
周は首を横に振る。
気のせいだろうか、微かに笑われた気がした。
それから北条の運転する車は学校から南下し、呉方面へと向かう。
基本的にお洒落な人だと思っていたが、選ぶ店もやはり、自分では決して足を運ばないような高級そうな店だった。
女性を連れて来ればさぞかし喜ばれることだろう、という外観のフレンチレストランに到着する。
「ここはアタシが持つから好きなものを注文しなさい」
高そうだなぁ、と思って少しドキドキしていた周は、ますます驚く。
そうして悩んだ末に北条と同じものを頼んだ。
「本当は亘理も一緒にここへ連れてこようと思ったんだけど、多分無理ね」
ワイングラスに入った水を一口飲んで、北条が呟く。
「……そうですね」
きっと今の彼女はストレスで胃をやられているに違いない。この頃、食欲がないと言っては食事を抜いているようだ。
「でも、あの子は偉いわ。普通ならとっくに逃げ出すところよ」
「はい。自分もそう思います」
「あの子ならどこの部署に行ってもやって行けるでしょうね……あら?」
スマホの震える音。ポケットからそれを取り出した北条は、電話ではなくメールか何かのようで、画面を確認すると、再びポケットにしまいこんだ。
「……あの子、どこを志望してるんだったかしら?」
「亘理巡査ですか? 確か、生活安全課って言ってたと思います」
「交通課じゃないの?」
運転技術の高さからして、周もそう思っていた。
「俺……自分もそう思って訊いたことがあるんですが、そうじゃないって」
「なんでまた生安なのかしらね? ひょっとして少年課でも希望してるのかしら」
少年課。こう言ってはなんだが、彼女にはあまり似合わなそうだ。
悪ガキどもに舐められて終わりではないだろうか。
ただ、少女達からしてみれば近しいお姉さん、といった相談相手になりそうな気もするが。
そうだ、思い出した。
「いや、なんか……女性が活躍できる部署があるって言ってました」
「ふーん……あ、もしかして。一度立ち消えになったあの計画が、再始動してるのかしら?」
「計画?」
「女性だけを集めた部署を立ち上げるっていう計画よ。家庭内暴力とか、痴漢とか……被害者が女性なら、できるだけ女性に相談したい案件でしょ。そう言うのを専門に扱う窓口を作るって」
「ああ、そう言うのがあるといいですね」
「女ばっかりのチームなんて、それこそドロドロしそうだけどね」
それは確かにそう思うけれど。ふと、気になった。
「……どうしてその計画、ダメになったんですか?」
「確か、管理者を任されることになっていた女警が急に辞退して、後任が見つからなかったとか言ってたわね」
「へぇ……」
そういうこともあるのか。
言ってみれば一部署を任されるリーダーになる訳だ。
名実ともに立派な『出世』だろうに。
すると北条はなぜか、ニヤリと笑う。
「あんたは迷いなく刑事志望なんでしょ?」
「……はい」
「ねぇ、ウチだって捜査1課には変わりないんだからウチに来ない? しっかりと可愛がってあげるわよ。彰ちゃんなんかよりもずっとね?」
周は曖昧に微笑んで、お茶を濁しておいた。
それにしても。
仕事はいいのだろうか?
北条はずいぶんとゆっくりしている。
気になったが、早く出ようと言うのも気が引ける。
周は食後に出されたコーヒーをかきまぜながら、教官の顔をうかがった。
こちらの視線に気づいた彼は、
「……たまにはゆっくり食べることを覚えなさい。現場に出るようになったら本当に、ただ食べ物をかきこむだけのことが多くなるから」
ああ、そうか。
最初からセットで出される定食ではなく、一品ずつサービスされるような店を選んだのは、そういうことを教えたかったのだろうか。
何を考えているのか時々わからないが、根本的には優しい人だ。
ただ。
気のせいだろうか?
時折、何かひどく表情が暗くなる瞬間があるように感じたのは。
「……何よ?」
いつの間にかじっと見つめていたらしい。
「いや、あの。昨日までどちらに行かれてたのかと思って」
ここのところ彼は不在にすることが多かった。
代わりに授業を受け持ったのが雨宮教官だったというのは、1度や2度の話ではない。
そう言えばさっき【刑事ごっこ】がどうこう言っていた。
すると北条は、
「ニュース、見てないの?」
実は見ていない。
「後で確認しておきなさい。尾道で起きた事件のことよ」
はい、と答えてそれ以上、質問するのはやめた方が良いと周は判断したので黙ることにした。
だが、気になるのはそれだけではない。
「まだ何かあるの?」
「なんか……気のせいかもしれませんけど、元気がないように見えて」
「アタシが?」
周は黙って頷く。
すると北条はなぜかニヤリと笑い、
「あら、アタシの心配してくれるの? ありがとう」
そりゃ、心配ぐらいする。
「彰ちゃんに自慢しちゃおうかしら~、妬くわよ、あの子。しばらく会ってないでしょ? だから余計にね~」
「やめてください……」
面倒だから。
そう言えば和泉は元気だろうか。
心配しなくてもどうせ生きているだろうから放っておこう。
なんとかは世に憚る、ってやつだ。
姉にさえ連絡を控えているのに、どうしてあんな変態に気を遣わなければいけないのだ。
それから学校に戻った周は、自分のスマホでさっそくニュースサイトを開いた。
尾道で小学3年生の児童が殺害され、海に遺棄されたという事件が報じられている。
まだたったの9歳だというのに。
周の胸は痛んだ。
それも、通りがかりの見知らぬ酔っ払いに殴られ、頭を強く打って亡くなっただなんて。
被害者の遺族はどれほど悲しんでいることだろう。
もしかして北条は被害者か、その家族と知り合いなのだろうか?
だとしたら先ほどの翳りの理由も納得できる。
ただ今は、何と声をかけていいのか周にもわからなかった。
それから考えてしまう。
これから先、希望通り刑事になれたとして。
こんな顔をする人達に何人、出会うことになるのだろう?
家族や友人、恋人。
かけがえのない人を奪われた遺族と、和泉たち現役の刑事はどう向き合っているのだろう。
……その前に。
試験勉強をしよう。
周は再び自習室へ向かった。




