64:波はあるものです、どうしたって。
長女の家から次女の自宅は線路を挟んで徒歩5分ほど。ただし踏切を渡るので、遮断機が下りているともう少し時間がかかる。
いつもなら既に就寝の時間であろう孫は、聡介の腕に抱かれて寝息を立てている。
「ねぇ、お父さん」
踏切のランプが点灯を始め、梨恵は足を止めた。
赤い光が彼女の頬を照らす。ちらりと見えた横顔はなぜか、憂いを帯びているような気がした。
「さくら、泣いてなかった?」
「……え?」
「……う……がきて……って」
警報器の音で、続く言葉が聞こえない。
下りの山陽本線が目の前を通り過ぎる。バーが上がると、梨恵は再び歩き出す。
「今、なんて言ったんだ?」
しかし彼女はそれには答えず、久しぶりに両手が空いたせいか、腕を広げてスキップしながら線路を渡る。
何をやってるんだか。
やることがいつまで経っても子供じみている。
踏切を渡った先には信号がある。今は赤だ。再び並んで立つ。
「今日ね、山西のお祖母さんが家に来たの」
「……え?」
こちらを振り向いた梨恵の表情は、どこか泣き出しそうな様相を見せていた。
「私だってニュースぐらい見るよ。今朝祇園橋で、遺体で発見された子供って……私達のお母さんの親戚筋でしょ? 私にとっては、どういう関係になるのかなぁ?」
関係なんてない。
思わずそう叫び出しそうになって、聡介はぐっと堪えた。
「何か妙なこと言ってたよ。お父さんがその子の事件に何か関係してるんじゃないか、みたいな。お母さんのことで逆恨みして、今になってとかなんとか……訳わかんないよね」
「わからなくていい、忘れろ」
汚いやり口だ。
次女は子供の頃、母親に連れられてしょっちゅう祖母に会っていたはずだ。それこそ猫のように可愛がられていたに違いない。
だからきっと、彼女は自分の味方をして、聡介のことを悪者に仕立てあげる手伝いをしてくれると考えたのだろう。
冗談じゃない。
つい先ほど決心した前向きな気持ちが、すぐに揺れそうになってしまった。
すると。
梨恵はじっとこちらを見つめ、
「だから私ね、言ってやったの。『うちのお父さんはそんな卑怯者じゃない。勘違いしないで!!』ってね」
ニカっと歯を見せて笑う。
驚いた。
すぐには声が出ないほどに。
「ついでにね、そんなバカなこと言うんなら、もう二度と顔を見せるなって引導を渡してやったわ。私のお父さんをバカにするなんて、絶対に許せないんだもん」
気がつけば目的地がすぐそこに近づいていた。
「そうしたらね、あの人何も言い返すことができなかったみたい。尻尾を振って逃げ帰って行ったわ。ざまぁ見ろ、よね」
いつもの自分なら「年長者に対する敬意が足りない」「言葉の使い方が間違っている」と小言を口にするところだが、今は胸がいっぱいで何も言葉が出て来ない。
子供の頃から父親の言うことなんて何一つきかなくて、事あるごとに反抗していたのに。
自分のことしか考えていなくて、ワガママで、すぐにキレる。
そんな娘だと思っていた。
それが今は双子の姉のことを心配し、父親のことも。
そんなふうに思ってくれていたなんて。
ありがと、と娘は孫を引き取って背を向ける。
「……ありがとう……」
やっとのことで出た声は、少し震えていた気がする。
次女は振り返らなかった。
※※※※※※※※※
シャーペンの芯がなくなってしまった。
上村は時計を確認した。残念ながら売店は既に閉まっている。こう言う時、気軽に芯をもらえないかと頼める相手がいないのは不便だ。
唯一思い至ったのが藤江周だが、確か彼は本日練交当番だ。今は部屋にいないだろう。
どうしたものか。
消灯時間までもう少し時間がある。上村は模擬交番に向かうことにした。
子供のころから【協調性がない】と言われ続けてきた。が、別に悪いことだとは思っていない。
無理をして周囲に合わせて自分を抑えるのは無駄なことだ。
友人と呼べる相手がいないことで、自分が不幸だと考えたことは一度もない。
他人を信用してはいけない。
それは上村があの時からずっと、自分に言い聞かせている信念でもあった。
模擬交番を訪ねると、藤江巡査は巡回中だとの返答。
上村はあきらめ、もう1人声をかけられそうな相手である倉橋護巡査の部屋に向かうことにした。
彼を一言で表現するなら【凡庸】しかない。
成績は上位の方だが、飛び抜けているという訳でもない。何事も無難にこなすタイプと言ったところか。
彼が常に藤江周の傍ににくっついているのは居心地がいいからだろう。
ここ最近、あのお調子者で舌先三寸の男に妙なことを吹きこまれ、一時的にはギクシャクしていたけれど。すぐ元に戻った。
今は普段通りの表情を見せている。
上村にも少しぐらいは倉橋の気持ちがわかる。
藤江周、あんな人間は初めて見た。
皆が自分のことだけで精一杯だというのに、いつも仲間のことを気にしている。
歪んだ権威を振りかざす相手にも屈しない。
彼はおそらく、この警察組織で生きて行くのには向いていない。
もっとも、カバーし、フォローしてくれる先輩達が既にいるのだろうが。
そんな彼の口から『正義』という単語が出ても違和感はない。
少なくとも自分のために、どうしても知りたいことがあるため、それだけのために警察組織に入って来た自分よりも。
上村が寮に戻る途中で教官室の前を通りかかった時、ふとまだ明かりがついていることに気づいた。
宿直当番の教官は通常なら専用の部屋に待機しているものだ。残業しているのだろうか。
その時だった。
からり、と扉が開いて人が出てきた。
「それでは、またご連絡いたします」
細身のスーツを着こなし、よく磨かれた革靴を履いた男性。
上村はその男に見覚えがあった。外見は少しも変わっていない。
そう、姉がいなくなった3年前から。
相手はこちらに気がついていない。
上村はとっさに柱の影に隠れ、誰と話しているのか確認した。
「……頼んだわよ……」
担当教官であった。
男はこちらに向かって歩いてくる。どうしよう。
姿を現し、挨拶でもするべきか。
それともいっそのこと……。
あれこれ考え迷っている内に男は姿を消してしまっていた。
あの男が父の死に深く関与していると聞いている。
父だけではない、姉もだ。
姉の皐月は今から3年前に亡くなった。
自ら命を絶ったのである。
遺書がのこっていた。
すべてに絶望し、生きる望みを失った……と。
その件についても、あの男が関係していると。
聖いつき。
あの男には訊かなければならないことが、数えきれないほどある。




