86、初瀬屋
鹿野里は、花の楽園でもある。
ちょっと珍しい野菜を実験的に栽培している地域なので、農業の観点で注目されがちなのだが、何気ない道端を彩る季節の花たちの美しさも、この町の魅力のひとつである。
百合を乗せた車は、里を真っ直ぐに二分するメインストリートを北上していく。春風に揺れるピンク色の花がとても綺麗で、百合は道端から目が離せない。
「ちなみに、あれが学校だよ」
「え?」
道路の右側には水田は無く、緩やかな山が広がっているのだが、その麓には郵便局や診療所のような建物がいくつか見えた。その中でひと際目立つ白い木造の建物が、百合が通う小学校らしい。
「けっこう大きい学校なんですか?」
「とんでもなーい。鹿野里には子供が8人しかいないんだよ」
「え!」
「百合ちゃんを入れて8人ね♪」
「えー!」
やはり、すごい田舎である。
道の左側には広大な田園地帯が広がっている。道に沿って小川が流れていることに気付いた百合は、紫陽花や桜の木の合間に見える爽やかなせせらぎを、夢中になって目で追った。
道が小川から少し逸れ始めたかと思うと、美菜が車の速度を落とした。
「んー、初瀬さん、いるかなぁ~?」
美菜がそう言いながら目をこらすので、百合は焦った。
「え! もう到着ですか?」
「うん。その建物だよ」
「えー!」
道の左手に、3階建てくらいの和風の施設が現れた。大きな縦書きの看板には『初瀬屋旅館』と書かれている。
(こ、心の準備ができてない・・・!)
百合は鹿野里の風景に夢中だったので、お世話になる初瀬さんや、月美ちゃんという少女への挨拶を考えていなかったのだ。百合はリュックをぎゅっと抱きしめたまま、高鳴る胸の鼓動を持て余していた。
「あ、初瀬さんだ!」
何度も駐車に失敗し、前進とバックを繰り返している美菜が、嬉しそうにそう言った。
百合が辺りを見回すと、旅館のエントランスから出てくる女性の姿が見えた。すらっと背が高く、モデルさんのように美しいスタイルで、綺麗な素足がちょっぴり見える薄紫色のワンピースに身を包んでいる女性だった。百合が想像する「女将さん」とは違う、洋風で垢抜けた出で立ちである。
駐車が済むと、百合は緊張しながらシートベルトを外し、車のドアを開けた。
初めて吸い込んだ鹿野里の空気は、陽だまりの匂いがした。
水色の風が百合の頬を撫で、小鳥たちの可憐なさえずりが耳をくすぐった。青空はソーダ水のように澄んで輝いており、山の緑の鮮やかさが百合の瞳の奥に染み渡った。
「初瀬さ~ん、百合ちゃん連れて来ました~」
美菜が紹介してくれたので、百合は慌ててお辞儀をした。
「よ、よろしくお願いしますっ・・・!」
初瀬さんはそっと微笑みながら百合に歩み寄った。
「初瀬銀花です。よろしく」
銀花という名前らしい。優しくて、とっても落ち着いた声である。
「白浜百合です。よろしくお願いしますっ・・・!」
二度ほど頭を下げて顔を上げた百合は、銀花の瞳をじっと見つめてしまった。
美菜と同い年くらいに見えるが、美菜よりずっとお淑やかで上品なお姉さんである。
「とにかく、中へ入って。美菜先生もどうぞ」
美菜はやはり、この町では先生と呼ばれているようだ。
「あ、百合ちゃんの荷物が私のアパートに届いてるので、それ取りに行ってきます!」
「お手伝いしましょうか?」
「一人で大丈夫です!」
美菜は百合に「すぐ戻るからね!」と言い残して、どこかへ駆けていってしまった。美菜のアパートは旅館のすぐ近くにあるので、車を出す必要もないらしい。
しかし、突然銀花と二人きりになってしまった百合は、かなり焦った。
(み、美菜さん! 置いていかないでー!)
百合の願いも虚しく、美菜の背中は桜の木々の葉漏れ日の向こうに消えていってしまったのである。
「百合、玄関はこっちよ。おいで」
「は、はい・・・!」
緊張しているのが丸わかりな百合の様子に、銀花はフフッと上品に笑いながら、玄関へ向かった。
初瀬屋のエントランスに一歩入ると、百合はその不思議な雰囲気に思わず足を止めた。
「わぁ・・・」
純和風な外観からは想像できなかった大正ロマンな雰囲気の内装は、小学生の百合にとってはとても新鮮だったのだ。
コーヒー色の柱や梁が、ミルク色の白壁を重厚に縁取り、繊細な曲線で形作られたアーチ型の窓枠が、水彩画のような田園風景を眩しく切り取っている。
スリッパが並べられた木製の床はツヤツヤに磨き上げられており、エントランスの奥にある大きな窓の明かりと、天井のランプたちの柚子色の輝きを点々と映して、足元に幻想的な光の世界を作っていた。
玄関自体はそれほど広くはないが、フロントとその奥の共有スペースが広々としており、百合はすぐにこの空間を気に入ってしまった。
「お客様はいらしていないから、自由に使って」
「は、はい。どうも・・・」
スリッパに履き替えた百合は、エントランスの隅のほうの大きな窓があるスペースに、吸い寄せられるように歩いていった。
「どこか適当に腰かけて。お茶を出すわ」
「あ、ありがとうございます」
「長旅で疲れたでしょう。くつろいでね」
百合は窓がよく見えるソファーに座った。窓はちょっぴり開いており、心地よい風が入ってくる。
慣れないソファーの布地の感触と、遠い山々から吹いてくる緑の香りを肌で感じた百合は、「ずいぶん遠くまで来たなぁ」と少しずつ実感してきた。
「どうぞ。飲んで」
「あっ、ありがとうございます」
銀花が冷たい麦茶のようなものを持ってきてくれた。が、彼女がなぜかクスクス笑っていることに百合は気づいた。
「・・・あの、どうかしましたか?」
「いいえ。ただ・・・」
銀花は微笑みながら窓ガラスにそっともたれ掛かった。銀花さんって本当にスタイル抜群だなぁと百合は思った。ちょっぴり胸も大きい。
「ついさっきまでね、ここに月美がいたのよ」
「え!」
百合はこの家に住む超重要人物の存在をすっかり忘れていた。
「つ、月美さんって、私と同い年の子ですよね?」
「そうよ。さっきまでここでソワソワしてたのに、百合が到着したのに気付いて、二階へ行っちゃったの」
「え・・・!」
やっぱり自分は嫌われてるのかも知れない、百合はそう思った。
(突然同じ家で暮らすなんて言われたら、困っちゃうよね・・・)
百合はため息をついて、お茶を一口頂いた。
お茶は、麦茶ではなくルイボスティーだった。
百合は母が作ってくれるルイボスティーが昔から大好きなので、すごい偶然である。
「お茶を飲んで一休みしたら、会いにいってあげて」
「は、はい・・・!」
「そこの階段から上に上がれるから」
「わかりました・・・!」
「緊張しなくて大丈夫」
銀花は百合の頭をぽんぽんと優しく撫でてから、エントランスの脇にあるキッチンのほうへ行ってしまった。美菜が言っていた通り、ミステリアスだがとても優しい女性である。
百合はわざとお茶をちびちび飲んで美菜が来るのをしばらく待っていた。
しかし、エントランスを包む穏やかな静寂の中で、百合の気持ちが少しずつ固まっていった。
(自分の力でご挨拶しにいったほうがいいよね・・・)
もう6年生なのだから、親戚のお姉さんに頼ってばかりではいけないのだ。
百合はルイボスティーを飲み干して立ち上がり、エントランスの中央付近の木製階段へと向かった。よく見ると、階段の近くのスペースには大きなテレビモニターや、グランドピアノがあった。ちょっとしたパーティーが出来そうな旅館である。
階段の下から二階を見上げると窓が見え、青空と桜の葉がキラキラ輝いていた。この階段の先に月美ちゃんという少女がいるらしい。
(ドキドキする・・・。どこかに鏡ないかな・・・)
少女に会う前に、髪や服を少し整えたいと思ったのだ。百合は一階の廊下の突き当りに洗面所があることに気付き、まずはそちらへ行くことにした。
さて、その頃、旅館の二階の廊下にいる月美は、一人で手すりや窓枠などを布巾で拭きながら、ため息をついていた。
(私、なんでこんなことしてるのかしら・・・)
今日からこの家に女の子が来ることは前々から聞かされており、心の準備はできていたはずなのに、いざその時がやってくるとドキドキしてしまって、思わずエントランスから逃げてしまったのだ。今は意味もなく同じ場所を何度も掃除しているわけである。
(東京から来る子ですのよね・・・私のこと、田舎者だって馬鹿にしてきたらどうしましょう・・・)
月美はプライドが高いお嬢様なので、都会出身の少女をちょっぴり警戒している。
(ま、まあ、この旅館の業務をなんでもこなせる万能な私に、勝てるわけないですけどね・・・)
クールな表情の月美は、慣れた様子で用具入れから小さな踏み台を持ってきて、高い場所も掃除し始めた。
(百合さんって・・・私、初めて会いますのよね・・・)
なんとなく聞き覚えがあるような、郷愁を感じさせるような、運命を予感させるような、不思議な名前だと月美は思っている。どんな子なのかサッパリ分からないが、月美は猛烈にドキドキしているのだ。
「こ、こんにちは・・・」
「ひぃ!!」
それはあまりにも突然の出来事だった。
月美が全く想定していない角度から聞き慣れない少女の声がしたのだ。
百合は、玄関に近いほうの階段ではなく、洗面所のそばにある階段を上ってきたのだ。すると正面に、前髪パッツンロングヘアーの美少女を見つけてしまったから、勇気を出して声を掛けたのである。
そしてこの瞬間、ちょっとした事件が起きたのだ。
突然の挨拶にびっくりした月美が、足を滑らせて踏み台から落ちてしまったのである。
「あ! だ、大丈夫ですか!?」
百合はすぐに月美に駆け寄った。
「へ、平気ですわ・・・」
月美は尻もちをついたわけではなく、壁に強く手をついてしまっただけだった。手のひらはちょっぴり赤くなっていたが、擦り傷にもなっていないようである。
しかし、心配した百合は、月美の手にそっと触れて、赤くなった部分を確認したのだ。
「怪我してませんか?」
「え、ええ・・・大丈夫ですわ」
二人の顔がグッと近づく。
百合の髪が、月美の手首の辺りをふわっとくすぐった。
「良かった、何ともなくて」
「心配しすぎですわ・・・」
そう言いながら、二人はほとんど同時に顔を上げたのである。
「あ・・・・・・」
そして二人は、お互いの瞳を見つめ合いながら、全く同じ感想を抱いたのだ。
(すごく・・・綺麗な人・・・)
あまりの衝撃に、二人は手を触れ合わせたまま、無言で固まってしまった。今まで経験したことがないような、とても神秘的な時間である。
百合はその不思議な感覚を案外柔らかく胸の中に受け入れたのだが、お嬢様である月美は非常に動揺して恥じらいを感じ、やがて我に返って飛び退いた。
「は、離れて下さい・・・馴れ馴れしいですわ」
「あっ、ごめんなさい」
頬を桜色に染めた月美は、百合にぷいっと背中を向けると、踏み台を持って、小走りで階段を下りていってしまった。
「あの人が・・・月美ちゃん」
午後の日差しが静かに降り注ぐ旅館の廊下で、百合はしばらくの間立ち尽くしながら、胸のときめきが全身へ巡って脈打つのを感じていた。




