76、アリス
キキとミミは、紅茶を淹れるのが上手い。
「ローザ様、今日はランタン祭りが開催されるの」
ローザの屋敷でメイドのような仕事をしているキキミミ姉妹は、談話室のソファーに寝転んでくつろぐローザの前に、湯気の立つティーカップを静かに置いた。
「興味ないわぁ、あんなド田舎のお祭り」
「翼様は行くみたいなの」
「あの子も物好きねぇ。私はいかないわよ。忙しいんだから」
ローザは昨夜のハロウィンパーティーで買った魔法の杖を天井に向けて振りながらそう言った。暇そうである。
「私はアテナさんと一緒にキャプテンとマーメイドに立候補する女なんだから、服が汚れるようなお祭りには行かないのよ。逆に誰が行くの?」
「アヤギメの料理部や、ビドゥの写真部が多く参加するみたいなの」
「ふーん。百合ちゃんたちは?」
「初等部の外出規定に抵触するから、そのお世話係の百合様も参加しないの」
「じゃあ、ルネさんも行かないのね?」
「行かないの」
「ふーん」
ローザは天井の壁紙のエレガントな模様をなぞるように細い杖を動かした。
昨夜海賊洞窟で偶然会い、仲良く口喧嘩したルネの顔をローザは思い出しているのだ。大人しそうな顔をして、自分にぐいぐい突っかかってくれるルネのことを、ローザは厄介に思うと同時に、面白いヤツだとも感じている。
「じゃあ、私も行かないわ」
「分かったの」
紅茶を淹れるための小さなキッチンに戻ったキキとミミは、顔を見合わせた。
「もしルネ様が参加してたら、ローザ様も行くつもりだったの?」
「たぶんそうなの」
「変なの」
「おかしいの」
キキミミに覗かれているとも知らず、ローザは天井を見上げながら一人でルネの事を考え、にやにや笑っていた。
「虹の滝はもうすぐだよ!」
冬の星座から吹き下ろしてくる北風を割って、翼の機馬は島の北側の馬車道を小走りで駆けていた。
青い月明かりが照らし出す馬車道は、街灯が要らないくらい明るく、点々と続く木陰だけが墨のような漆黒を見せている。
「寒くないかい?」
「もちろん、寒いわよ・・・」
「ごめんごめん! もう少しの辛抱さ!」
翼の爽やかな笑い声が、蹄の音の合間にこだました。
(ど、どうして私・・・翼さんなんかと一緒にこんなところまで来てるのかしら・・・)
アテナは翼の腰の辺りに腕を回しているのだが、あまり力を入れてぎゅっと抱き着かないように意識していた。早く帰りたい気持ちでいっぱいである。
ランタン祭りは小規模なイベントだが、虹の滝へと続く大きなモミの木の角を曲がると、少女たちの賑やかな声がアテナの耳をくすぐった。かなり人が集まっているようで、青白い月明かりの中に浮かび上がるランタンの輝きが、行き交う少女たちの影で遮られ、星のまたたきのように明滅していた。
「到着だよ!」
「あ・・・はい」
アテナは慌ててヘルメットを外し、魔女の帽子を被った。帽子が無いと、自分の正体がアテナであることが一瞬でバレてしまうのだ。
「下りられるかい?」
「それくらいできるわ・・・」
先に機馬を下りた翼が手を差し伸べてくれたが、アテナはそれを無視し、自力で馬を下りてみた。
「きゃっ!」
「おっと!」
着地でバランスを崩したアテナは、翼の腕に支えられた。
「大丈夫かい?」
アテナが見上げた翼の顔は、左半分がランタンに温かく照らされていて、深いティラミス色の瞳がきらきらと輝いていた。
(品のない人のくせに・・・そんな綺麗な目をしないでよ・・・)
翼から飛び退いたアテナは、心の中でそんな風に文句を言いながら、帽子を深く被り直した。
「翼様! 来てくださったんですね!」
「お! 実行委員の子じゃないか! もちろん来たよ。賑わってるね」
「はい! お陰様で! そちらの方は?」
アテナはビクッとしてしまった。翼にバレなくても、他の子がアテナの正体に気付いてしまう可能性があるのだ。
「この子はアリスさん。私が無理矢理誘ってしまった子だよ」
「そうですか! 楽しんでいって下さいね、アリスさん!」
「え、ええまあ・・・ありがとう」
中途半端に魔女の格好をしている怪しい生徒を笑顔で迎えてくれる実行委員の子に、アテナは頭が下がる思いである。こんな帽子、恥ずかしいので脱いでしまいたいが、今夜だけは我慢しなければならない。
「ご案内します!」
「ありがとう。アリスさん、行こう」
「はい・・・」
アテナは周囲の視線が集まるのが嫌だったので、やや早歩きで機馬の停車場をあとにした。
虹の滝はその名の通り、虹がよく掛かる滝である。
運が良ければ、月明かりに掛かる夜の虹も見られるので隠れたデートスポットとしても人気だ。
滝つぼを囲うように広がった円形の岩場には、木製の床とテラスが付けられており、普段はアヤギメの美術部員とビドゥの釣り部員が集まってクッキーを焼きながらチェスをする場所なのだが、今日はレストランとして使われている。
「わぁ・・・」
いつもクールなアテナが、思わず感嘆の声を上げた。
心地よい水しぶきが弾ける滝つぼは、教室3つ分くらいの広さがあり、そのあちこちにランタンのロウソクが燃えているのだが、ランタンのおよそ半数は宙に浮いて漂っていたのだ。
「アリスさん、レインコートとサンダルだよ」
「レイン・・・え?」
「Мサイズでいいよね」
どう考えてもここは空飛ぶランタンに感動すべき場面なのに、当たり前のように何かを準備する翼の様子にアテナは驚いた。周りの生徒たちも、ランタンの写真を撮ったりはしているが、料理やおしゃべりに夢中である。
(あれは・・・温められた空気が上昇気流になっていて、それで浮かんでるのよね・・・。気球と同じよ)
頭では理解できるのだが、アテナはとにかく、空飛ぶランタンを初めて見たので、その不思議な輝きから目を離せなかった。
「つ、翼さん、あれはどうしてあの高さを維持しているの?」
「え? 飛び過ぎないようにウツクシウムも使って調整してるからね。さあ、サンダル履いて」
「あ・・・はい・・・」
アテナは、この場の雰囲気にすっかり飲まれてしまっている。
「あの、どうして私、サンダルを・・・?」
「席はあそこなんだ。滝の水で靴が濡れるからね」
翼が指差した先は滝つぼの岩場にほど近いテーブル席で、その辺りには、細かい水しぶきを砂金のように輝かせるランタンがたくさん宙に浮かんでいた。
(・・・火事になった時に消火しやすいから滝つぼでこのお祭りやってるのね・・・)
論理的なアテナは、頭の中に次々と浮かんでくる疑問を一つずつ解決していこうと必死だが、サンダルを履くのすら数年ぶりというハイパー箱入り娘にとって、この場はワンダーランドだから、到底理解は追いつかないのである。
「寒くないかい?」
「え、ええ・・・まあ・・・」
不思議なことに、虹の滝の近くは温度がやや高く、海辺の北風も岩場にまでは入って来ていなかった。
「アリスさん、おいで」
「私、濡れたくないわ・・・」
「あ、濡らしたくないものはこのロッカーに入れると安心だよ」
「私が入れそうなロッカーはある?」
「え? アリスさん、面白いこと言うなぁ♪」
翼は爽やかに笑いながら、アテナの手を握った。
「たまにはいいものだよ。冒険するのも♪」
アテナは先程、機馬に乗ろうとする時に一瞬だけ翼の手に触れたのだが、今度はもっとしっかりと握られてしまった。
(わ、私の手に・・・触るなんて・・・馴れ馴れしい人ね・・・)
アテナは恥ずかしさでいっぱいになりながらも、物珍しそうに翼の指を見つめてしまった。人間の手の温かさを、アテナは初めて知ったかも知れない。
その視線を感じたのか、翼は急に手を放して照れ笑いした。
「ごめんごめん。私はすぐ人の手を握っちゃう悪いくせがあるんだ」
「・・・直したほうがいいわよ、それ」
「うん。気を付ける♪」
サンダル越しに感じる濡れた小石のジャラジャラした感触に、アテナの胸は高鳴った。ほんのわずかに溜まった滝の水が、アテナの足の指先をくすぐってくる。
タオルを敷いてから腰掛けた二人用テーブル席はキャンプ用品にありそうなステンレス製で、ランタンの光が反射していてとても幻想的だった。
自分の頭上1メートルくらいのところを漂うランタンをぼーっと見つめてしまったアテナは、正面に腰かけた翼に顔を見られてしまいそうで、慌てて下を向いた。
「晩ご飯は私に任せてくれ。ご馳走するから♪」
「え・・・でも・・・」
「苦手な食べ物はあるかい?」
「苦手な食べ物・・・」
アテナは幼い頃カリフラワーが苦手だったのだが、完璧なお嬢様になりたいというド根性で克服してしまったため、嫌いなものなど無かった。
「苦手な食べ物は・・・もうないわ・・・」
「え? もうない?」
翼は少しのあいだ、俯きがちなアテナの顔を見つめていたが、やがてそっと微笑んだ。
「キミは少し、変わっているね♪」
「か、変わってるって・・・あなたのほうがよっぽど変わってるわよ・・・」
「ありがとう♪」
「褒めてるわけじゃないわ・・・」
翼は爽やかに笑ったあと、ラミネート加工されたメニューを開き、ご飯を注文してくれた。
注文したのは、島野菜の天ぷら蕎麦、レモンパイ、そしてハチミツコーヒーである。和食と洋食の混ざった微妙な食べ合わせであるが、アヤギメ学区とビドゥ学区両方の料理部の得意料理を注文したベストな晩ご飯とも言える。
「コーヒーは食後に持ってきて貰うよ。カフェインが入っていないから、夜中に眠れなくなるおそれはないはずさ♪」
「い、いや・・・カフェインはいいけど、コーヒーにハチミツなんて、本当に美味しいの?」
「もちろんさ。楽しみにしててね♪」
「楽しみ・・・まあ、そうね・・・」
やがて、袴をたくしあげたアヤギメ中等部の生徒が、お蕎麦とパイを持ってきてくれた。
よく考えると、アテナは誰かと一緒にご飯を食べたことがほとんどないので、料理が目の前のテーブルに二人分並んだのを見て、不思議な緊張と恥ずかしさに包まれた。
(お蕎麦なんて・・・5年前に空港で食べたきりだわ・・・)
お嬢様の世界では、ラーメンやうどんなど、すすって食べる麺は避けられがちである。体育の授業中の表情にまでこだわっているアテナにとって、麺類はあまりにもリスクが高いのだ。
「い、頂きます・・・」
滝の水しぶきは非常に細かいミストのようで、知らず知らずのうちに食べ物が冷めてしまうかも知れないから、ここは覚悟を決めて食べるしかない。
先にお蕎麦を食べ始めた翼が「んー! 美味しい~!!」などと言って感動している隙に、アテナは箸を使って器用に蕎麦の麺をくるくるとまとめ、パスタのように上品に口へ運んだ。
(あら・・・美味しいわ・・・すごく・・・)
さらに、その美味しさとは別に、口の中でずーっと休んでいた部分がじんわりと刺激されたような不思議な心地よさをアテナは感じた。久々に味わった和食の風味は、料理の見た目とは真逆の極めてカラフルな感動をアテナにもたらしたわけである。
(え、レモンパイ・・手づかみなの?)
今が旬のレモンパイは、アテナが普段食べている食事に近いのだが、その形態は少々珍しいものだった。まるでハンバーガーのように、包み紙で閉じられたそのレモンパイは、ナイフやフォークで上品に食べるのを想定していなかった。
(洗い物を少なくする工夫かしら・・・。もうっ、口の周りにクリームがついたらどうするのよ・・・!)
アテナは物凄く恥ずかしがりながら、レモンパイを口に運んだ。
豪快に噛みついた時に翼と目が合ってしまったアテナは耳が熱くなってしまったが、レモンパイ自体の味が非常に美味しく、舌触りのいいクリームから口いっぱいに広がるレモンの香りに、なんだか幸せな気分になった。
「美味しいかい?」
「・・・それは、まあ・・・美味しいわ」
「良かった♪」
「でも・・・あまり私のことをじろじろ見ないで」
「どうして?」
「どうしてもよ・・・」
アテナは俯きながら、美味しいレモンパイに噛り付いた。
「翼様! アコーディオン、お願いできませんか!」
「え! アコーディオン持ってきてくれてるのかい!?」
「はい!」
コーヒーを飲んでいた翼とアテナの元に、生徒たちが集まってきた。ちなみに、ハチミツ入りコーヒーも非常に美味しかったので、アテナは感動している。
「・・・ちょっと、アコーディオンなんて、ここで弾いて大丈夫なの? 濡れて故障してしまうわ」
常識人のアテナは楽器の心配をした。
「それなら大丈夫。これ防水にしてあるんだ」
「ぼ、防水に・・・? 翼さんが加工したの?」
「うん。私、宙に浮かんで滑空できる機馬を作ろうとしてるんだけど、とにかく失敗して、海に落ちまくってるんだ♪」
「それはまあ・・・知ってるけれど・・・」
「失敗してたら、いつの間にか色んなことができるようになってた。人生、傷だらけになってみるもんだね♪」
この時の翼の笑顔は妙に印象的で、アテナはなぜか直視できず、俯いた。
翼が弾き始めたアコーディオンは古くて素朴な音色だったが、高級なグランドピアノの音に耳が慣れていたアテナにとっては、刺激的で不思議な魅力があった。翼の演奏に合わせて、レストランのあちこちからギターやハーモニカが加わっていき、いつの間にか大合奏になっていた。
空飛ぶランタンはゆっくりと宙を泳ぎながらアテナの頭上を横切り、温かい音楽が胸の中を心地よく満たし、ハチミツコーヒーの良い香りが鼻をくすぐった。
「アリスさん! 虹が出たよ♪」
「え?」
片手で演奏を続けながら、翼が滝のほうを指差した。
振り返って空を仰ぎ見たアテナの瞳に映ったのは、夜の虹である。それは、銀色の月明かりに乗って空から下りてきた、魔法のガラス船のようだった。ステンドグラスに似た透明感と鮮やかさを見せる虹の周りを、たくさんのランタンが揺らめいて浮かんでいる様子に、アテナはすっかり心を奪われたのだった。ここはまさに、不思議の国である。
帰寮する時のアテナは、先程と同様、翼の機馬の後ろに乗って送ってもらうことになった。
本当は服屋に寄って帽子を返さなければならないのだが、滝つぼの湿気でふにゃっと曲がってしまったので、買い取ることにしたのだ。代金は明日、店に渡しに行くつもりである。
「翼さん」
「なんだい?」
下ろしてもらう予定のストラーシャ学舎前ロータリーが見えてきたところで、アテナは翼に話しかけた。
「人の手を握っちゃう悪いくせがあるって言ってたけど、嘘でしょう?」
「え?」
「私がイヤそうにしてたから、出まかせの嘘を言ったのね」
「いや・・・んーどうかなぁ♪」
翼は笑って誤魔化した。翼は基本的に照れ屋なので、人の体に触れることはほとんどなく、さっきはほんの偶然であり、ただの成り行きだったのだ。
「でもいいのよ。私も一つ、嘘ついてしまったから」
「え、嘘?」
金色に燃える街灯に照らされた停車場で機馬を止めると、アテナはすぐにヘルメットを外して帽子を再び被った。そして先程よりは上手に、一人でぴょんと飛び降りた。
「ここからは歩いて帰れるわ。送ってくれてありがとう」
「あ、うん。それで、嘘っていうのは?」
「あら、気になる?」
「それは・・・もちろん」
向かい合った二人の間に、晩秋の虫たちの声が優しく響いた。
「じゃあ言うけど、私の名前は、実はアリスじゃないの」
「え?」
アテナはここでゆっくりと、帽子を脱いだのだった。
「え・・・え・・・ええええ!!!???」
「あらまあ、声が大きいわ」
翼の驚きは尋常ではなく、近くを偶然歩いていた青い小鳥がビクッと跳び上がってひっくり返ったくらいである。
「ア・・・アテ、アテナさんだったの!?」
「全然気づかないから、逆に不安だったわ。あなた天然なの?」
「いや・・・その・・・あ・・・」
翼はもう恥ずかしさで声が出ず、体の内側は熱い血液がすごい速度で駆け巡っているにも関わらず、体は石像のように固まってしまったのだ。
「まあでも、今日はどうもありがとう。つまらなかったと言えば、嘘になるわ」
アテナはそう言って翼にお辞儀をした。
「おやすみなさい」
「あっ・・・お、おや・・・おやすみ・・・」
翼はしばらくの間、これが夢なのか現実なのか分からず、アテナの背中をぼーっと見つめていたが、やがて膝から崩れ落ちた。
(わ、私、アテナさんの手を握ってしまったぁあああああ!!!!!)
あの時の温かくて柔らかい感触が、まだ翼の手のひらに残っていた。
部屋に戻ったアテナは、帽子をテーブルの上にぽんと置き、ベッドの上にうつ伏せになった。
(はぁ・・・私ったら、人前で笑ったりして・・・はしたないわ・・・)
アテナの心臓はまだドキドキしていた。
(行かないほうが良かったかしら・・・)
幸福感と後悔の念が、アテナの心の天秤を揺らしており、どちらに落ち着くかは一晩経ってからでないと分かりそうにない。アテナが目指す硬派で上品なマーメイドの姿とはかけ離れた時間を過ごしてしまった事は確かである。
ふと顔を上げると、魔女の帽子がテーブルの縁から大きくはみ出しているのが見えて、アテナは少し笑ってしまった。
(あら・・・こうして見ると、あのテーブル、ちょっと小さ過ぎね)
寝返りを打ったアテナは、薄暗い天井の模様の向こうに、さっき見た美しい虹の輝きと、翼の爽やかな笑顔を思い浮かべていた。




