74、猫のひげ
「できたっ!!」
シャーペンをぱたんとテーブルに置いた百合は、すぐにエプロンをつけてキッチンへ駆けこんだ。
「お待たせっ! 手伝うね!」
「おつかれー! もう終わったの?」
フライパンで野菜を炒めながら、ルネが振り返った。
「うん! 宿題って言っても、二問だけだからね」
「そっか。でも最近の数学は一問一問が重いよねぇ」
「そうだね。ノート1ページ使っちゃったもん」
百合は土日を自由に過ごすために、お昼ご飯の前に宿題を終わらせたのだ。今日はハロウィンパーティーなので、数学の宿題が頭の片隅にあるとイヤだったのだ。
「いい匂い~。手伝おうと思ったけど、ほとんどできちゃってるね」
「私が作るから大丈夫って言ったでしょ。私のクラスは宿題全然ないから♪」
今日のランチは三日月島で採れた栄養満点の謎の穀物のピラフである。ルネは料理が非常に上手くバリエーションも豊富で、初等部メンバーのお世話係を任されているだけの実力がある家庭科マスターなのだ。
「月美たち、抹茶のクッキー食べてるはずだから、ピラフは少なめに作ったわよ」
「そうだね。美味しそう~」
「そろそろ月美たち帰ってくると思うから迎えに行ったら?」
「分かった!」
百合はダイニングのテーブルを大急ぎで拭いてから、寮の玄関に走っていった。
(百合って、ホントに子供が好きだよねぇ・・・。月美と両想いだったりして♪)
お皿にピラフをよそいながら、ルネはくすくす笑った。
ルネの勘は非常に冴えており、百合が自覚していない心の核心部分まで突いている事がある。あとは、小学4年生にしては大人び過ぎている月美の存在に違和感を持てばもう完璧だ。
さて、昼食を済ませた月美たちは、さっそくビドゥ学区で開かれるハロウィンパーティーの準備を始めた。
「はぁ・・・行きたくないですわ」
「そんなこと言わないで♪ きっと楽しいよ」
硬派でハロウィン嫌いな月美と違い、百合はノリノリである。
ほとんどの生徒が寮で着替えを済ませて現地に向かうのだが、月美たちは衣装を演劇部から借りることになっているので制服のままお出掛けである。百合やルネも自前の服がないのでレンタルする予定だ。
ビドゥ学区行きの機馬車の本数は通常の5倍に増えており、乗り場となっているストラーシャ学舎前の広場は、早くも混雑していた。
「おお! オバケがいっぱいデース!!」
好奇心の塊であるキャロリンは、花壇の縁に飛び乗り、目を輝かせて辺りを見回した。そこにいた先輩たちは、思い思いのハロウィンコスチュームに身を包んでいたのだ。
カチューシャを付けただけの簡単な仮装をしている生徒もいるが、自作した魔女や小悪魔のドレスを着て全身コーディネートしている者も少なくなかった。手芸部や洋裁同好会が大活躍できるイベントなのだ。
「キャー! 百合さんたちも海賊洞窟行くの!?」
「どんな格好するんですかぁ!!」
「月美ちゃんも!?」
「桃香ちゃん今日も可愛い~!」
普通の格好をしている月美たちの周りに、ヴァンパイアや魔女や小悪魔が集まってきた。ダークなファンタジーの国に迷い込んだ気分である。
そして、この後乗ることになった機馬車の中が、月美にとっては最悪の空間となった。
「月美ちゃんほら~! お菓子あげるぅ~!」
「私のもあげるー!!」
「ねえ! 月美ちゃんはこういう帽子が似合うんじゃなーい?」
「か~わ~い~い~!!」
「お姉さんたちの中で、誰が一番可愛い?」
「月美ちゃんのほっぺふわふわ~!」
「食べちゃいた~い?」
とんでもない無法地帯である。
混雑している大型機馬車に乗り込んだため、月美は空いている席を探して座ることになったのだが、その時に百合たちと離れてしまったのだ。月美は、高等部のお姉さんたちに囲まれてもみくちゃにされるのは百歩譲って我慢するのだが、中等部の生徒から「可愛い~♪」などと言われると、「年下のくせにぃ・・・」と内心悔しがるのだった。
「ねえねえ! 月美ちゃんって、百合様と一緒にお風呂に入ってるの!?」
「月美ちゃんは女の子に興味ありますか?」
「ねえ月美ちゃん。キャロリンちゃんの好きな人のタイプ知らないかな?」
「手相見てあげるぅ~♪」
「シャンプー何使ってるのぉー?」
実に暑苦しい時間であった。
(月美ちゃんの近くに行きたいな・・・)
別の座席で銀花と一緒に腰かけていた百合は、月美のことが気掛かりで、何度も後ろを振り返った。
月美ちゃんを守ってあげたいという焦り、恥ずかしがっている月美ちゃんの顔を自分も見たいという羨ましさ、そして月美ちゃんと一緒に車窓を眺めながらのんびり旅をしたかったという残念な気分・・・これらが小さな渦を巻いて百合の胸の中に冷たく沈んでいった。
さらに乗客を増やしながら丘を越えた大型機馬車は、ついに三日月島の西の海岸に面したビドゥの5番街に到着した。
潮風の吹くレンガの歩道に足をつけた月美は、ほっと溜息をついた。
「うぐぅ・・・疲れましたわ」
「お、おつかれさま♪」
百合はすぐさま月美に駆け寄り、月美の労をねぎらった。本当は肩に触ったり、乱れた髪を整えてあげたりしたかったのだが、機馬車の混雑から解放されたばかりの月美にくっついたら嫌われてしまいそうだったのでやめておいた。
秋風は冷たかったが、月美たちの頬には心地よかった。水平線に向かって傾いた太陽は早くもほんのり柿色に焼けており、船着き場に並ぶ小舟が木の葉のように揺れている。
機馬車が走り去っていくと、まるでステージのカーテンが開くように、月美たちの目の前にハロウィンの街並みが広がった。
「オオー!」
煤色の家々や街灯に、無数のカボチャのランタンが飾られており、不気味なBGMを生演奏するオーケストラクラブの生徒たちの向こうには、張りぼてで作られた小さな古城まで見えた。ここだけテーマパークのようである。
制服姿の生徒はほとんどおらず、辺りは世界中のオバケや妖怪が支配していた。海賊洞窟はこの通りを歩いて1分ほどで、演劇部の貸衣装屋もこの辺りにあるはずだ。
「トリックオアトリ~ト~♪」
「え?」
月美が振り返ると、機馬車乗り場の青銅のベンチの脇に、三人の可愛い魔女が立っていた。ローザ会長と、付き人の双子ちゃんである。
「百合ちゃんたち御一行、ようこそビドゥへ~」
「ローザ先輩こんにちはデース!」
「ハ~イこんにちは、キャロリンちゃん♪」
ローザ会長はただでさえ怪しげなオーラを放っている女なので、魔女の格好をしていたら完全に悪者であり、フレンドリーに話しかけているキャロリンの図太さが際立った瞬間となった。
「それで、百合ちゃんたちは女子高生の仮装かしら?」
「これから着替えるに決まってるでしょローザ会長」
「あらルネさん。いたの? 存在感が薄くて気付かなかったわ♪」
「ローザのほうこそ、センスの無いへにょへにょなスカート履いちゃって。それキクラゲ?」
「キクラゲなんて履いてませーん!」
「じゃあ雑巾かしらー?」
喧嘩するほど仲が良いというやつである。
「演劇部で衣装借りるの?」
「は、はい。そのつもりですわ」
ローザとルネの小競り合いが長引きそうな気配を察したのか、双子のキキとミミが月美に声を掛けてくれた。
「案内してあげるの。ついてくるといいの」
「あら、どうも」
キキとミミは大きな魔女の帽子を揺らしながら歩き出した。楽しそうに喧嘩を続けるルネとローザ会長を停車場に残し、月美たちはハロウィンの街に繰り出した。
「カボチャのランタンと掛けましてぇ」
「掛けましてぇ?」
「スイスの写真と解くの」
「その心はぁ?」
「どちらも、光源(高原)なのぉ~」
「うまいの~!」
相変わらずキキとミミはなぞかけマニアである。
百合は銀花ちゃんが迷子にならないように手を繋いであげているのだが、気持ちはずっと月美の背中に向いていた。
(あんまり月美ちゃんとしゃべってないなぁ・・・)
こんなビッグイベント滅多にないので、できれば月美ちゃんと一緒にたくさんおしゃべりしたいのだ。
あの着ぐるみ可愛いねとか、ドラキュラ用ドリンクってやつ絶対トマトジュースだよねとか、皮がオレンジ色のカボチャって普段あんまり見かけないよねとか、月美ちゃんとしゃべりたい話題が無限に湧き上がってくるのに、喉の奥でせき止められている。皆で仲良く出掛けるのはとても幸せなことだが、二人きりの時間をなぜか無性に恋しく思ったのだ。
「あら、演劇部の貸衣装は海賊洞窟の中ですの?」
「そうなの」
双子の案内で、月美たちは洞窟に入ることになった。
洋風のお化け屋敷にアレンジされた海賊洞窟は無数のランタンに彩られており、木造の床から高い天井に至るまで、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような賑やかさである。
行き交う生徒たちのシルエットの向こうに見える海賊洞窟レストランは、洞窟内に建てられた木造の洋館であり、本日限定でミステリアスな紫色にライトアップされている。人工の小川に映る光はアコーディオンの音色に揺れており、暗闇の中で弾む非日常感が少女たちをワクワクさせた。
ハロウィンパーティーの過ごし方は生徒によってまちまちであるが、レストランのテラスでお菓子を食べたり、小舟に乗ってジュースを味わったり、知り合いを探して一緒に記念撮影したりする者が多いようだ。カメラを持っている生徒を月美は人一倍警戒しながら、キキとミミのあとについていった。
なんと、貸衣装はレストランの3階に用意されていた。
外観からは想像がつかなかったが、レストランの内部はかなり明るく、3階は服屋のようになっており、結構混雑していた。アンティークな味わいが素敵な木床をコトンコトンと踏みしめて、月美たちは演劇部が用意してくれた初等部用の衣装ラックを見にいった。
「おおお! 桃香にはこれがいいデース!!」
「や、やだよそんなのぉ・・・!!」
「銀花はこれが似合いそうデース!!」
「わかった」
「月美にはこれデース!!」
「いやです」
意外とたくさん種類があったので、キャロリンは大喜びだ。
月美は仮装などしたくないのだが、ここまで来ておいて制服のままでいると逆に目立ってしまい、「あ、もしかしてあの子、恥ずかしがってる?」などと察せられてしまうかも知れない。
(ぬぅ・・・)
月美は可能な限り当たり障りのない、ほとんど制服と変わらないようなフォーマルで地味な衣装を選ぶことにした。猫になりきる衣装は数多くあるのだが、その中でも非常にシックな、普段使いも出来そうなグレーのジャケットとスカートを月美は見つけた。翡翠のようなグリーンのリボンがあしらわれており、テーマはロシアンブルーという種類の猫ちゃんらしい。猫耳のカチューシャは高等部のものと共用であるせいかこの場所には無かったので、月美はカチューシャの存在を知らないフリをして、服だけ着替えることにした。
(じゃあ、さっさと着替えますか・・・)
キャロリンに「ノー! それは地味すぎデース!」みたいに文句を言われる前に月美は一人で更衣室へ向かった。
服屋の試着室のような簡単な造りの更衣室がフロアの隅にたくさん並んでいた。かなり混んでいたが、丁度いいタイミングで空いた一室があったので、月美はそこに逃げ込むように入り、赤いカーテンをシャッと閉めた。試着室はなぜか物凄くいい香りがする。
着替えてみると、サイズがやや大きく、袖が余っている気がしたが、レストランの外は薄暗いので写真に撮られない限りそれほど格好悪くはないだろう。
(ま、いいですかね。これで行きますか)
大きな鏡に映った自分を眺めながら、月美は頷いた。小学生の姿に慣れてしまっている自分がちょっと情けなかったが、上手い事お嬢様としてのプライドを守って健闘しているはずだ。今あるもので最善を尽くす大切さを、月美は近ごろ学んだ気がしている。
「月美ちゃん、いる?」
「うっ!」
鏡の前でボーッとしていた月美の背後、赤いカーテンの向こう側から、愛する百合の声が聞こえた。
「入っていいかな♪」
「だだだダメです!!」
「お邪魔しまーす♪」
「ひっ!」
なんと、百合は既に着替えを済まし、黒いワンピースに猫耳のカチューシャを被っていて、完全に黒猫になりきっていた。そのあまりの美しさと愛らしさに月美の心臓は飛び跳ね、腰が抜けてしまいそうだったが、目を逸らすことでギリギリ耐えた。網膜に焼き付いた残像が月美の胸を容赦なく焦がす。
百合はカーテンを閉めてから膝をつき、月美の顔を覗き込んだ。
「わぁ、可愛いいい!! すっごい似合ってるよ♪」
月美は恥ずかしくてぶっ倒れそうだった。なぜこんな狭い空間に二人きりになってしまったのか。
「月美ちゃんも猫の衣装選んでるの見たから、これ持ってきたよ♪」
「カ、カチューシャは付けないですわよ」
「カチューシャも大事だけど、これも必要かなと思って♪」
「ん・・・?」
百合が持ってきたのは、フェイスペイント用の黒ペンだった。
「猫のひげ描いてあげるね♪」
「え・・・」
百合はペンのキャップを取り、さらに身を乗り出して月美に顔を寄せた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「なぁに?」
「わた、私はそ、そういうのは要らないというか、べ、別に猫になりたいわけじゃないというか!」
「ひげ描くと可愛いよ♪ ほら」
「ひいいい!!」
百合は月美のあごの辺りにそっと手を添えながら、柔らかいほっぺに、ゆっくりゆっくりと横線を描いていったのだ。
この作業は、別に更衣室で行う必要のないものである。
キャロリンたちがいる場所で、わいわいしながら皆で描き合えばきっと楽しいはずだ。
しかし百合は、どうしても月美と二人きりの時間を作りたかったのである。二人で見つめ合う時間が恋しくて、今日はずっとずっと、もどかしい気持ちだったのだ。可愛い月美ちゃんの意識を独占しているという満足感と幸福感で、百合は顔がちょっぴり熱くなった。
「ハロウィンも、結構いいもんでしょ♪」
「・・・別に」
百合はこの時間が終わって欲しくなくて、非常にゆっくりひげを描いていった。左右の頬に3本ずつの線を描くだけなのに、3分くらい使った。
月美はその間、全身がしびれるような緊張と最高の幸せを味わった。優しい百合の指先や、ちょっとくすぐったいペンの感触が、月美のハートに直接触れているかのような、ゾクゾクする感覚に包まれたのだ。
(ど、どこを見ればいいんですのぉお・・・!?)
近距離の百合と目が合わないように天井やカーテンに目を泳がせる月美は、なぜか唇がじんじんと熱くなるのを感じた。このまま抱きしめられたとしても抵抗できないほど無力で、ちょっぴり従順な月美は、まさに可愛い子猫ちゃん状態である。
「はい。出来たよ♪」
百合がそう言った時、月美はもうドキドキのあまり少々呼吸が乱れていた。ようやく解放された月美は急いで背筋をピンと伸ばし、いつものクールな表情を取り戻すことにした。
しかし次の瞬間、月美の小さな手に、百合の温かい指が触れたかと思うと、フェイスペイントのペンを握らされたのだ。
「え・・・?」
顔を上げた月美に、猫耳の百合は微笑み掛けて言った。
「今度は月美ちゃんが、私のほっぺに描いてくれる?」
「い、いやいやいや・・・! 無理ですぅ!!!」
「お願い♪ 月美ちゃんに描いて貰いたいの」
「む、無理無理・・・! 無理です無理ですぅ!!」
「描いて貰いたいにゃあ♪」
「イヤですぅ!!!」
うっとりするような二人きりの時間は、この後もしばらく続いたのだった。
月美はこのあと、とにかく写真を撮られまいとしてカメラから逃げ回ったのだが、百合のほっぺに猫のひげを描く時に膨大なエネルギーを使ってしまったためか、途中からすっかりバテてしまい、最後はキャロリンやルネに薦められるまま初等部寮メンバー全員で記念写真を撮ることになってしまった。巨大なオバケかぼちゃのランタンの前にしぶしぶ立った月美の隣に、百合はすかさず入り込み、猫の姉妹となって仲良く写真に収まったのだった。
猫のひげを描いてもらって唯一良かった点は、百合の隣で写真に写る時に赤くなってしまった頬をごまかせた事である。




