40、新たな季節
眩しい波音が聞こえる。
あの後、どれくらいの時間気を失っていたのか分からないが、まどろみの中の月美は、海の匂いと日差しの温もりに包まれながら、少しずつ目を覚ましていった。
「んー・・・」
月美がゆっくりと目を開けると、そこには天井の代わりに大きなパラソルがあり、ユリカモメたちの声がその上をゆったり行き交っていた。寮でも保健室でもないらしく、耳を澄ますとエンジン音のような低い響きも感じられた。
(ここは・・・船の上ですの・・・?)
まだ寝ぼけている月美は、目をこすりながら上半身を起こし、辺りを見回してみた。
そこはまさに、目の覚めるような圧巻のブルーの世界だった。
「わぁ・・・」
どうやら月美は、フェリーの甲板にある大型のプールサイドチェアに寝かされていたらしい。そこから見える空と海をいっぱいに満たす青の輝きはとても鮮やかで、月美は炭酸水のシャワーでも浴びたような爽やかな気分になった。しかしその景色は超巨大な絵画のような非現実的な美しさだったから、まだ夢の中にいるような、不思議な感覚でもある。
(えーと・・・私、どうしてここにいるんでしたっけ・・・)
カモメたちの声に耳を預け、しばらく大海原をぼんやり眺めていた月美は、やがて我に返った。
「んー・・・」
月美は腕を組んで目を閉じ、記憶を辿っていくことにした。
月美はとにかく、クリスマスイブの文化祭に向けて仲間たちと共に奔走した。
ルネさんが劇に乱入するという大胆なサプライズを経て、ローザとルネはめでたく結ばれたのである。大事な風車を取り壊す話も無くなったから、ローザはもう百合をストラーシャ学区に入れる必要がなくなり、月美と百合はずっと一緒に暮らせることになったわけだ。実にハッピーな12月になったわけである。
(ん・・・? 百合さん・・・?)
その瞬間月美は、自分の心臓がドキリと飛び跳ね、背筋にゾクゾクとした熱が駆け上がり、顔が一気に真っ赤になるのを感じた。
(わわわ! わ、わた、わた私・・・!! 百合さんと・・・!)
キスをしたのだ。しかも大勢の前で。
(ひゃああああああ!!!!)
月美はプールサイドチェアの上でゴロゴロ転がって悶えた。月美は百合とのファーストキスがあまりにも幸せだっため、今まで気を失っていたのである。
(恥ずかしいですわああああああああ!!!!)
最高の幸せと最大級の恥ずかしさを一緒に味わうことになった月美は、活きの良いハマチのようにビチビチと跳ねまくった。月美の唇は、あの時の幸せな感触をはっきりと覚えているのだ。
(百合さんと・・・! 百合さんと両想いだったなんてぇええ!!)
恥ずかしくって恥ずかしくって、そして最高に幸せなこの気持ちは、月美が過去に味わったことがないものだった。百合さんの前から逃げ出したいような気持ちと、今すぐ抱きしめられたいという気持ちが、コーヒーのミルクのようにくるくると混ざり合っているのだ。目が回りそうである。
二人はもう全校生徒公認の恋人同士になったわけだが、百合に改めて会う時どんな顔をしていいか分からないし、大勢の生徒に自分の気持ちを知られてしまったこともとても恥ずかしかった。クールなお嬢様だったはずの月美の青春が、まさかこんなラブリーなものになってしまうなんて、思いもよらなかったのである。
「はぁ・・・どんな顔でお会いしたらいいんですのぉ・・・?」
幸せな悩みである。百合のことを考えるだけで、月美の心と体はフライパンの上のバターのようにとろけて火照ってしまうのだ。
ため息をつきながら何気なく寝返りを打った月美は、甲板に据えられた白いテーブルの陰に、見おぼえるのある生き物を見つけた。
「あら・・・」
青い小鳥のピヨちゃんである。
「ま、またあなたですの。ごきげんよう」
悶えてるところを見られたかも知れないので月美はちょっと恥ずかしかった。
ピヨはいつも通りマヌケそうな顔をしており、つぶらな瞳で月美をじっと見ているが、なんだか今日は元気がないように見える。
「あら、どうかしましたの? お腹でも空いていますの? それとも、お水が欲しいんですの?」
体を起こしてそう尋ねた月美は、ここで妙な既視感を覚えた。以前にも同じようなことがあった気がしたのだ。
(あぁ、思い出しましたわ。入学式の当日、こんな感じでピヨに水をあげたんでしたわね)
あの日の月美は一人でティータイムをしていたため手元に水があったわけだが、今は何も持っていない。自販機が甲板にあればいいが、無ければ船内へ行かなければならない。面倒である。
「ん?」
ふとプールサイドチェアの横に目をやった月美は、自分が愛用しているキャリーケースを見つけた。これは学園に初めて訪れた日にも持っていた大きなケースである。
(んー・・・私本当にどうしたのかしら。何でここにいるんでしたっけ・・・)
この場所に至る経緯を全く思い出せないのである。
しばらく首を傾げているうちに、ピヨが寝起きのペンギンのようなのっそりした動きでペタペタと近寄ってきたので、とりあえず月美はキャリーケースを開けてみることにした。
「・・・やっぱり。私の荷物ですわ」
中には月美がよく使っているティーセットや着替えなどが入っていた。
紅茶を作るためのミネラルウォーターのボトルを取り出した月美は、中身を紙コップに注いで、ピヨにプレゼントした。
「ほら。ありがたく飲みなさい」
「ピヨ~」
「ピヨ~じゃないですわ・・・。あなたまた大きくなりましたの?」
ピヨは紙コップに飛び込んで気持ち良さそうに水浴びを始めた。翼を濡らす水しぶきがきらきらと光って綺麗である。
「ねぇ、ピヨ。文化祭の演劇の後、私はどこに運ばれましたの? ストラーシャの保健室?」
「ピ~ヨピヨ」
鳥語は分からない。
「今フェリーに乗せられているっていうことは・・・なかなか目が覚めないから都会の病院に搬送される途中かしら。いや、気を失った患者を甲板の椅子に寝かせてるのは不自然ですわ・・・」
まるでバカンスに向かうような感じなのである。
「んー・・・百合さんはどこかしら。たぶん私のそばにいるはずなんですけど」
「ピヨ~」
「あなたは呑気ですわねぇ・・・」
紙コップのフチにあごを置いて居眠りを始めたピヨはもう無視して、月美は百合を探すことにした。あんな大胆な告白をされて以来、初めて顔を合わすのでドキドキが止まらないが、せめて表情だけでもクールさを保ちたいものである。
キャリーケースと一緒に置かれていた薄紫色の可愛いサンダルを履くと、月美の素足を海風が駆け抜けた。白いワンピースを着させられていた月美は、自分が風になったような爽やかな気分になった。
「いい天気ですわぁ・・・」
輪切りのレモンのように眩しい太陽が、瑞々しい空の青に浸って、気持ちよさそうに浮かんでいる。ザラザラした滑り止めが付いた床は日差しを反射して雪のように白く、銀色の手すりにもたくさんの小さな太陽が輝いていた。風はひんやりしているが、春のような心地いい陽気である。
「それにしても、大きい船ですわね・・・」
一年近く前に月美が初めて学園に来た時に乗っていたフェリーに似ているが、今日の船のほうがかなり大型ですわねと月美は思った。まるで自分が小さくなったように錯覚するほど、手すりやテーブルが大きく見えたのである。
「ん?」
船内のホールへと続く扉を探して甲板を歩いていた月美は、カフェテラスのようにテーブルが並んだ一帯に、怪しげな気配を感じた。
「わっ・・・!」
月美は小さく飛び上がってしまった。
テーブルの下の狭いスペースに小学一年生くらいの女の子がおり、体育座りをしてじっとこちらを見ていたのだ。
(な、なんですの・・・?)
月美はクールな顔を崩さぬよう努めたが、少女のほうはそれなりに驚いているようで、彼女は体をさらに小さく丸めて陰に溶け込むように奥へ行ってしまった。
とりあえず月美はお嬢様っぽい上品な会釈だけしてその場を去ることにした。少女のことは少し気掛かりだったが、今は一刻も早く百合を見つけたいので、進むしかないのである。それに月美はハイパークールなお嬢様だから、小学生と仲良く遊んだりもしないのだ。
船内に入ると、そこはピンクローズのような甘い香りに包まれた大階段ホールだった。金色のシャンデリアと赤い絨毯がとても華やかで、学園の生徒と思われる少女たちの笑い声が遠くで弾んでいた。
(百合さんいるかしら・・・)
サンダルをペタペタいわせながら大階段を下り始めると、少女たちの会話が月美の耳に入ってきた。
「見て見て! 窓から虹が見えるわ!」
「え! 雨なんか降ってないのに?」
「このフェリーが上げた水しぶきで虹が出来たのよ!!」
友達同士で集まり、楽しそうにはしゃぐ少女たちの談笑は、月美にはちょっぴり眩しく感じられた。
月美は今、ほっといても勝手についてくるピヨと一緒に歩いているし、百合さんさえ見つければとりあえず安心という気分なので、それほど心細くはない。しかしもし、この船に完全に一人ぼっちで乗っている子がいるとすれば、きっと寂しい思いをしているだろうなと月美は思った。
(んー・・・)
月美は階段の踊り場で立ち止まり、クールな顔で何かを考えたあと、ワンピースの裾を百合の花のように可憐に翻して、再び甲板へ上がっていった。百合さんには早く会いたいが、それより先にやるべき事があるような気がしたのである。
甲板の隅っこ、テーブルの陰に身を隠している幼い少女は、誰もいなくなった甲板を見回してほっと胸を撫で下ろした。
少女は人が大勢いる場所が苦手なので、フェリーが目的地に到着するまで、このような狭くて暗い場所で小さく縮こまっているのだ。少し冷たい海風が頬を撫でていくこの場所も、少女にとっては落ち着ける空間なのである。
「こ、こほん・・・」
そこへ、わざとらしい咳払いをして少女の注意を引く生徒が登場した。白いワンピースの月美お嬢様である。
「わ、私も入っていいかしら?」
「え・・・?」
「まあ、その・・・外の風に当たっていたいけど、日差しがイヤですのよ。テーブルの下は丁度良さそうですわ」
だったらパラソルの下へ行けばいいのに、月美はわざわざ白いテーブルの陰に潜り込んで少女に寄り添った。
テーブルは結構大きかったので、その下は案外快適な場所だった。白いワンピースがちょっと汚れてしまうかも知れなかったが、月美は気にせずそこで体育座りをした。床はザラザラしているので、手で触るとちょっと痛い。
突然やってきたお嬢様風の女の子に、少女はドキドキしてしまった。
「まあその・・・あなたが寂しそうだから来てあげたとか、そういうことじゃありませんからね。私、子供に優しい女じゃありませんから」
クールなお嬢様である。
月美は何か話題を探そうと思ってテーブルの下を見回したが、最初に気になったのは少女の身長である。
「あなた意外と、背高いですわね。座った感じはほとんど一緒ですわ」
「え・・・銀花小さいよ」
少女の名前は銀花ちゃんらしい。可愛いお名前である。
「銀花さんとおっしゃるのね。私は月美ですわ」
「つきみ・・・」
「ええ。よろしくお願いしますわ」
銀花は返事の代わりにちょっぴり頬を染めた。
月美は元から親切な女だったが、優しい百合と一緒に一年近くも同室で生活しているため、彼女から影響を受けまくってしまい、以前よりもさらに愛情深い女になってしまっている。クールなお嬢様のイメージとちょっと違うので、月美はそれを表に出したがらないが、やっぱり寂しそうな子を放っておけなかったのだ。
とりあえず月美はこのフェリーについて銀花に尋ねてみることにした。
「銀花さん。この船はどこに向かってますの?」
「学校」
「あら、それって、三日月女学園ですの?」
「うん」
ということは、月美は島の外の病院に搬送され、容体が安定したから女学園島に戻されるところだったのかも知れない。目が覚める前に退院させて船に乗せるとは、なかなか大胆なことをしてくれるお医者様である。
「月美はさ、何年生なの?」
銀花は無口な子のようだったが、月美に質問をしてくれた。
「何年生というか、高校一年生ですわよ」
銀花は少々きょとんとした表情をした。
「銀花さんは何年生ですの?」
「二年生」
「二年生ですの。小学校ですわよね」
「うん」
三日月女学園はもちろん高校なので、銀花ちゃんがどのような用事でこのフェリーに乗っているのか月美には分からなかった。誰かの妹か、もしくは舞鶴先生の患者さんなのかも知れないが、わざわざ島まで来るのに付き添いの大人がいないのでは心細かっただろう。月美がお姉さんになってあげるしかない。
「ねえ銀花さん。噂によると今、虹が見えるみたいですわよ」
「え?」
「フェリーの水しぶきに虹が掛かってるみたいですわ。きっと小さいやつですけど。一緒に見に行きます?」
銀花はちょっぴり驚いたような顔をしたまま、少しのあいだ、無言で月美の目を見つめていた。
ほっぺを少し赤くしている彼女は、柔らかい髪を海風にゆったり揺らしながら、やがて小さく頷いたのである。
「じゃあ、行きましょう」
銀花と一緒にテーブルの下から這い出そうとした月美は、ここで不意に、甲板に誰かがやってきた気配を感じた。もしかしたら百合かも知れないので、月美の心臓は高鳴ったが、近づいてくるコトコトと軽めの靴音は、たぶんストラーシャ学区の靴のものである。百合はもちろん、ビドゥの靴を履いているはずなのだ。
「月美ちゃーん、銀花ちゃーん。どこだーい?」
「あら」
やはり百合ではなかったが、聞き覚えのある声だった。
これは演劇部の部長で、アテナ会長のルームメイト、翼先輩の声である。
「知り合いの先輩が来ましたわ。あなたのことも探してるみたいですし、一緒にご挨拶しましょう」
「うん」
月美はテーブルの下から飛び出した。
「ごきげんよう、翼先輩!」
そうご挨拶した月美は、ここで猛烈な違和感に襲われることになった。
(ん・・・!?)
そこにいたのはやはり翼先輩だったし、先輩は相変わらず爽やかでカッコイイのだが、妙に背が高いのである。まるで竹馬にでも乗っているか、もしくは月美がしゃがんでいるか、そんな感じなのだ。月美以外の全てが大きくなっているか、月美が小さくなっているような感覚である。
「おぉ~! そこにいたのか月美ちゃん」
「あ、その、え!? は、はい、翼先輩! ご心配おかけしましたわ!」
月美は混乱していたが、反射的に挨拶だけはできた。
「おぉ、もう私の名前覚えてくれたかぁ! ありがとう~」
「え?」
翼先輩は何を言っているのか。
「わ、私、さっき目を覚ましましたわよ!」
「そっかそっか。おはよう~! もうすぐ女学園島に着くから荷物をまとめてね」
長い気絶から目覚めたというのに、随分と薄いリアクションである。これは一体どういうことなのか。
翼先輩は、太陽を横切っていくユリカモメたちを仰ぎ見て、「私も翼が欲しいなぁ~。翼だけに♪」などと超どうでもいいことを呟いて月美たちにウインクしてきた。月美は今、大混乱の嵐の中で慌てふためいているというに、実にマイペースな先輩である。
「つ、翼先輩。なんでそんなに背が高いんですの!? 百合さんはどこですの!?」
「お!? 百合ちゃんの知り合いなのかい!? 昔ご近所さんだったとか!?」
「え・・・」
「すごい偶然だなぁ! 初等部の子たちが入る寮に百合ちゃんもいるよ。お姉様役の先輩としてね! フェリーには乗ってないけど、すぐに会えると思うよ!」
月美はこの時、確信した。
何か前代未聞の歴史的な重大トラブルが起こっており、自分も含めた色んな人の記憶に混乱が生じているに違いないのだ。しかも、月美の体が小学生みたいに小さくなるという物理的なミラクルもセットである。
(いやいやいや!!! こ、こんなの、こんなの絶対夢ですわ!!!)
月美は自分のほっぺをつねってみた。
そこそこ痛い上に、モチ肌がむにっとしていて気持ちいい。随分とリアルな夢である。
するとその時、大混乱の月美をよそに、甲板のスピーカーからパッヘルベルのカノンが流れ出した。
桜の降り注ぐ静かな川面のような優美なそのメロディは、錯綜する意識の急流に揉まれる月美との間に凄まじいコントラストを生み出した。
『まもなく、当船は女学園島ビドゥ港に到着いたします。初等部、中等部、高等部の各新入生と編入生はホールに集まって下さい。高等部の係員の生徒は、案内と忘れ物チェックを始めて下さい』
初等部とか中等部とか、わけの分からない事を言う放送である。
「お、もう到着の時間かぁ! ホールに案内するから、二人ともついておいで」
「んん!? いやいや! 私は新入生じゃないんですけど!」
「分かってる分かってる、キミたちは新入生というよりは編入生だもんね!」
「編入生でもないんですけどぉ!!」
相手は演劇部の部長さんなので、目覚めた月美をビックリさせるためのお芝居なのかも知れないが、月美の体が小さくなっている点はどう考えてもおかしい。これは異常事態である。
「あ・・・島ですわ!」
翼先輩の背中越しに近づいてきた大きな島影に吸い寄せられるように、月美は甲板のフェンスに駆け寄った。
「ん・・・!」
そこは確かに月美が一年近く暮らしていた女学園島だった。いつもの港やメインストリートも見えるし、月美の寮だって丘の中腹に建っているのが見える。
しかし、ビドゥ学区の街並みは全体的に以前よりもずっと賑やかで、見たことがないノートルダム大聖堂風の建物や、立派なレンガ造りの家々が明らかに増えており、街のあちこちからピンクゴールド色の巨大バルーンが浮かんだりしていた。当たり前のように咲く満開の桜たちも、12月で記憶が止まっている月美にとっては奇妙な光景であった。
(い、一体何が・・・ど、ど、どうなってますのぉおおおお!!!???)
月美の慌てぶりに反し、現実はとっても平和で、優しい桜色であり、真珠のように美しく輝いていた。はじける水しぶきと虹に向こうに広がっているのは、紛れもない、月美の新しい毎日である。
原因は完全に不明だが、月美の体は今、9才なのだ。
三日月女学園の初等部に編入することになり、入学式の前日に女学園島にやってきたという設定の、可愛い小学4年生になってしまったのである。




