117、ルネの気持ち
保健室には、緑茶の香りが漂っていた。
「はぁ~、ほんまに美味しいわぁ♪」
鹿野里にいる唯一の保健医、舞鶴先生は、いつも白衣を身に着けている美女である。
彼女は京都の有名洋菓子店から取り寄せた冷凍の抹茶パフェを食べたことにより、お腹がちょっと冷えたので、今は熱いお茶を飲んでいるのだ。ちなみにお茶碗は清水焼である。
「ん~」
しばらく窓の外を眺めていた舞鶴先生は、鍵が掛かった机の引き出しからおもむろに名簿を取り出し、ボールペンを走らせ始めた。彼女の視線の先には、学校の校庭で昼休みを過ごす生徒たちの姿がある。
「やっぱり、夏休みが終わってから、ちょっと雰囲気変わってきたなぁ♪」
舞鶴先生はいつも通りの穏やかな表情をしているが、瞳だけは、獲物を探す鷹のように鋭く光っていた。
「百合ちゃんたち、いーひんなぁ。どこや~?」
舞鶴先生はペン立てから手のひらサイズの望遠鏡を取り出し、教室の窓を覗き込んだ。
「隠れても無駄やでぇ」
彼女の手元の名簿には、人間関係を示す矢印が無数に書かれており、ケーブルが全然整えられていない古い配電盤のような乱雑な見た目になっていた。
彼女が何を熱心に観察しているのか、それを知る者はいない。実に怪しいお姉さんである。
眩しい窓辺と対を成すように、教室の中はしっとりとした陰に包まれていた。
昼休みの教室には、晴天なのに敢えてインドアな過ごし方を選択した生徒たちの不思議な一体感と落ち着きがある。
月美と百合は、黒板の板書を丁寧に消したりしながら、仲良く過ごしていた。時折百合がわざと月美にぐいーっと接近していったが、月美はそれを無言でかわした。一見すると月美はとてもクールだが、彼女のほっぺが赤くなっているのを百合は見逃していない。
(月美ちゃんって、前からこんなにほっぺ赤くなる人だったっけ。なんかすごく・・・可愛い♪)
ほぼ恋人同士という関係になり、相手の気持ちが分かるようになってから、こういうのが見えるようになる場合がある。両想いかどうか分からず不安な時は、相手の表情も冷静に分析できず、誤解や錯覚に見舞われがちだ。
チョークの粉が前髪に掛かっているのに気付かず、クールな顔を作っている月美の様子を見て、百合はくすくす笑った。
すると教室に、車椅子のルネが入ってきた。運動会に関する話し合いに使う学活用のプリントを職員室から持ってきてくれたようだ。彼女は体が弱いが、移動を伴うお使いを進んで引き受ける子である。
「ね、ねえ、月美、百合」
そんなルネが、何やら改まった様子で月美たちに声を掛けてきた。
「ど、どうしましたの?」
月美は百合のそばからぴょんと飛び退いた。百合との関係を察せられたのではないかと思い、ちょっと焦ったのだ。
「あ、あのさぁ、実は・・・その・・・」
「ん?」
ルネは周囲を見回し、恥ずかしそうに百合たちの耳に唇を寄せた。
「実は・・・ちょっと相談したいことがあって。付いて来てくれる?」
ルネに連れられて二人がやってきたのは、校舎の裏だった。
山の斜面の竹林が学校の敷地にぐいぐい入ってきているこの場所は、いつも爽やかな木陰に包まれており、生徒たちの秘密基地のようになっている。土管トンネル付きの小さな築山には綺麗子とキャロリンが作った旗が立てられ、その向こうには木製のブランコがあった。
月美と百合は、ルネが指差す場所まで車椅子を押したあと、乾いた竹の葉のじゅうたんの中に横たわった丸太に腰かけた。百合が月美の体にぴったりと寄り添うように座ったので、月美は体をかなり斜めにして平静を保った。非常に不自然なポーズである。
「そ、それで、相談って何ですの?」
「あのね・・・んー、誰にも言わないで欲しいんだけど」
「うん、わかった」
ルネは小学5年生だが、かなりしっかりした性格なので、6年生の月美たちにとっては同級生みたいなものだ。百合と月美は身を乗り出してルネの内緒話に耳を傾けた。
「あのさ・・・」
「うん」
「月美たちには、好きな人っている・・・?」
月美と百合の心臓がドキッと飛び跳ねた。
「いいいいいないないいないです!!」
「いないいない! いないいないばぁーだよ!!」
この時はさすがに百合も動揺した。
ちなみに、赤ちゃんに「いないいないばぁ」をする際は、ばぁの時にこちらが最高の笑顔を見せてあげるのがコツである。
ルネは二人の様子に首を傾げたが、気を取り直して言葉を続けた。
「あのね、実は私・・・あのね・・・ま、まだ好きかどうか分からないんだけど・・・気になってる人がいてさ・・・」
「え・・・!?」
ここで、月美と百合は顔を見合わせた。なんとなく、その人物に心当たりにあったからだ。
「それってもしかして・・・」
「・・・ローザ様ですの?」
ルネは自分の髪を撫でながら横を向き、照れながら「うん」と答えたのである。
放課後、月美と百合は、ルネや綺麗子と一緒に、4人で下校することになった。
今日はローザさんの図工教室がある日なので、そのまま一緒に行ってしまおうというわけである。
いつも元気な綺麗子が一人で鏡川の石橋を渡っていったタイミングで、ルネは百合たちに耳打ちをした。
「じゃあ、百合、月美、さっきのこと、お願いね・・・」
「う、うん。まあ、できるだけ頑張ってみるね!」
ローザの喫茶店への近道として使っている田んぼの中のあぜ道には、車椅子のタイヤの跡がすっかり定着しており、傍らには薄紅色の撫子の花が揺れていた。今日は空が青く澄み切っている。
さて、ローザはその頃、まもなくやってくる小学生4人のために図工の授業の準備をしていた。
「今日もルネちゃんたちが来るわ~♪ 楽しみ~♪」
ちなみに今日は、アロマワックスバーを作る授業だ。
湯煎で溶かした固形ワックスに好きなアロマオイルをまぜて、型に流し込んだあと、小さなドライフラワーをペタペタと貼り付けて作る小型のインテリアである。ローザの教室の授業はこんな感じの小洒落た題材が多い。
「準備はこんな感じでいいかしら」
ローザはテーブルの上に並べた材料や用具の配置を丁寧に整えながら、そう呟いた。
教室を初めて数か月になるが、教室の先生になるために必要な資質を彼女は少しずつ掴んできた。もの作りの知識や経験はもちろん必要だが、子供をわくわくさせる授業づくりの能力のほうが大事だと分かってきたのだ。
とにかく、本人が頑張っているところや工夫した点を見逃さずにしっかり褒め、一緒に楽しむことが基本である。子供たちが話してくれた事を授業後にメモし、一人一人の好みや考え方を把握して、授業づくりに活かすのも大事だ。退屈な時間を作らないように全員に気を配ったり、子供扱いせずに敢えてお手伝いをお願いしたりと、細かい工夫をローザはたくさん実践している。
というところまではいいのだが、ローザは小さな女の子が大好きなヤバいお姉さんなので、これらのコツを悪用している。
(さ~て、今日はルネちゃんにどんなイタズラしようかしら♪)
ルネが照れるようなセリフをわざと言ったり、おっぱいを押し当てたりして、反応を楽しむのだ。たぶん犯罪なので良い大人はマネしてはいけない。
しかし、この時ローザはまだ気づいていなかった。
ローザの心の中にある、住み慣れたはずの恋の花園に、全く新しい季節が訪れつつあることに。
「はい、じゃあ私がお手本で、やってみるからよく見ててね♪」
「はーい!」
綺麗子は、小学生の見本みたいな最高の「はーい!」が言える子である。
ローザはアルミ皿の中で溶けたワックスを手際よくシリコンモールドに流し込んでいった。
するとここで、ローザの実演を見ていた百合が、非常に唐突に、意外な質問をしてきたのである。
「・・・ローザさんって、好きな人いるんですか?」
こういう質問は大抵、質問する側が緊張しているため、脈絡を無視した不自然なタイミングで投げかけられることが多い。ローザもそのことをよく分かっていた。
(きゃあ! 恋の質問が来たわー!!!)
内心ローザは舞い上がったが、それを顔に出さず、すぐに頭をフル回転させて自然な回答を探した。
「ん~、みーんなのことが大好きよ♪」
「・・・あ、そういう意味ではなくて、その、恋愛的な意味っていうか・・・」
「ん~、そうねぇ、特にいないかな♪ 恋人もいないわよ♪」
「あ、はい。ありがとうございます。わかりましたぁ~」
百合の質問はこんな感じであっさり終わった。ぽっかり空いた沈黙の時間に、ピアノジャズの軽快なリズムが流れ込む。
ここでローザは、今まで感じたことがない違和感に苛まれる。
(あら? 百合ちゃんがこの質問をしてくるのは意外ね・・・)
鹿野里でもひと際美しい百合ちゃんから惚れられているのなら、それはローザにとって大きな幸せであるが、ローザはかなり前から車椅子のルネちゃんを標的としており、精神的、肉体的なラブラブ攻撃を繰り返しているのだ。なのに、その効果が表れていない気がしてきたのだ。
(ルネちゃんは、今の会話聞いて、どんなこと思ったのかしら・・・?)
ローザはドライフラワーをピンセットでつまんで、かなり精密な作業をしながらも、横目でルネの表情を確認した。
ルネは、風に吹かれる野の花のような平静な顔で、ローザのピンセットの先を見つめている。
(あら・・・? なんとも思っていないのかしら)
ローザに恋人がいるか、好きな人はいるか、そういう話に興味津々であるはずなのに、目も合わないのだ。ローザは珍しく動揺してきた。
(ルネちゃん、私にあんまり惚れてないのかしら・・・。いや、おっぱいくっつけた時あんなに赤面してたじゃない。絶対私のこと好きよ)
ローザは全戦全勝と言っても過言ではない超魅力的な女性である。ウブな小学生一人のハートをゲットし損ねるなんて、あり得ないはずだ。
「どうかしましたの、ローザ様」
「あ、あら! ごめんなさい♪」
ローザはいつの間にか手を止めていたことに気付き、慌ててドライフラワーを型の中に置いていった。
いつものローザであれば、ルネが百合にお願いして先程の質問をしてきたという事実に簡単に気付けるはずなのだが、なぜかこの時は、それが分からなかったのである。
「百合たちぃ! さっきはありがと!」
図工教室の帰り道、綺麗子と別れた直後、ルネは笑顔で振り返った。
「ローザさん、好きな人は特にいないみたいでしたわね」
「うん」
「これってルネちゃんにもチャンスありってことだね!」
「あ! いや、だから、チャンスとかそういうのじゃなくて、ただ、私は、ローザさんがどんな人かもっと知りたいと思ったのー!」
ルネは照れながら笑った。夕日の中で風に揺れるルネの髪は、秋の麦畑に似た金色である。
「ねえ! もしも、月美たちに好きな人ができたら、今度は私が協力してあげるからね!」
「え! いやいやいや!! そ、そんなのいませんわよ!!」
「うん! まだいないいない!!」
月美と百合は、自分たちの関係をますます言いにくくなってしまった。こうなったらもう徹底的にヒミツにしていくしかない。
少女たちが去った喫茶店で、ローザは静かに後片付けをしていた。
開け放したドアと出窓から入ってくる心地いい秋風が、電気ポットの湯気を静かに揺らしている。ローザはピーチティーを淹れて一息つきながら、テーブルを見回した。
(もう少しタオルを近くに置くようにしたほうが良かったかしら・・・)
ローザは、車椅子のルネのために、物を置く場所を色々工夫しており、毎回このように改善点を探している。初めは「仕事だから」と思ってやっていたこういう工夫を、ローザはいつしか自然にやるようになっていた。
神社の山から聞こえてくる秋の虫たち歌声をBGMにして、ローザはテーブルを水拭きしていった。頭に浮かんでくるのは、ルネのことばかりである。
(ルネちゃん、私のことどう思ってるのかしら・・・)
ルネの気持ちが気になって、仕方がないのだ。
テーブルを拭き終えたローザは、しばらくのあいだ窓の外に輝く一番星をぼんやり見つめていたが、紅茶が冷め始める頃、ようやく我に返った。
「・・・ま、いいわ♪ 気にしない気にしない」
ローザは何かを振り払うようにそう言って、いつの間にか暗くなっていたキッチンカウンターの明かりを点けた。




