呪の泉 2
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ライマールやトルドヴィンたちと別れ、エイラは自室へと案内される。
歩き慣れた廊下を歩けば、要所要所で茫然とした兵士達が、おぼつかない敬礼をして出迎えてくる。
その人数や配備に変更はないものの、見知った兵士達の顔色が以前よりも一際暗いことに、エイラはまた心を痛めた。
部屋の前に到着すると、そわそわと扉の前で待機していたソルテとロアが、嬉しそうにエイラの手を握り歓迎した。
「エイラ様、よくご無事で!! 私もロアもとても心配してました。エイラ様がお戻りになられて本当に良かったです。さぁ、どうぞ中へ」
ソルテがロアを促すと、ロアは何も言わずにエイラの部屋の扉を開く。
部屋の扉を開けた瞬間、むせかえるほどのサンダルウッドの香の香りが、廊下にまで漂って来た。
(……大丈夫です。ライマール様が処方してくださったお薬が守ってくれるはずです)
先程のライマールの励ましを思い出しながら、後退りかけた足を前へと進ませる。
家具や調度品は幼い頃より慣れ親しんだものであるはずなのに、帝国から取り寄せたオークでできたチェストも、天蓋付きの淡い空色のシーツに包まれたマホガニーのベッドも、心なしか以前よりもくすんだ色に変色してしまっているような気がした。
とにかく今はライマール達に疑いがかからないように、自分にできることをするしかない。
エイラはキョロキョロと物珍しそうに部屋を見渡すと、ソルテとロアに振り返り話し掛ける。
「あの、この部屋はいつもこんなに香を炊いているんですか? なんだか落ち着かなくて……」
今までも不快に思っていたのだから、それらしい節は見せておいた方がいいだろうと、エイラは彼らにそわそわと落ち着かない態度を示して問いかける。
するとソルテが可哀想なものを見るかのような目で、エイラの手を取り視線を落とした。
「母からご記憶をなくされたとは聞かされましたが、本当に何も覚えていらっしゃらないんですね……この香は、エイラ様が好んでご愛用していたものですわ。ですからこの香を炊いていればきっとすぐに全てを思い出されますわ」
「そう、ですか……」
反論したい気持ちを抑えながら、エイラは目を伏せつつそれに頷く。
自制しなければ全てが台無しになってしまう。
ライマールと出会う前まではそれが自分にとって当たり前だったのだから造作もないことの筈だと、エイラは自分に言い聞かせる。
「そうだわ! ご夕食の前に浴室へ行かれては如何ですか? 外はとても寒かったでしょうし、心身の疲れもきっと癒えますわ」
「お風呂……そうですね。お言葉に甘えさせて頂こうかしら」
ソルテに湯浴みを任せるのは気が引けたが、体が冷え切っていたのは事実だったし、流石に浴室でなにか起こるとも思えなかった。
なにより、この部屋にあまり居たくないという気持ちが優っていた。
エイラが逡巡しがちに言えば、ソルテはニッコリと笑みを浮かべて、「ではこちらへ」と、エイラを部屋から連れ出し、浴室へと案内する。
するとソルテの後ろを歩くエイラの更に後ろから、なにも言わずにヒタヒタと監視でもするかのようにロアまでもがエイラの後から着いてきた。
何故ロアまで着いてくるのだろうか?
まさか疑われているのではないだろうか?
エイラは内心ひやりとしていたが、特に何事もなく浴室へ到着する。
流石に脱衣室の中までロアが着いてくることはなかったが、身の回りの世話をと、ソルテは引き続きエイラに付き従った。
「エイラ様はとても肌が白くて羨ましいです……」
うっとりとしていいながら、ソルテはエイラに浴室用の衣を肩にかけ、布とブラシを片手にエイラと一緒に浴室の中へと入ってこようとする。
流石に落ち着かないと、エイラはおずおずと振り返り、自分でできるので一人にして欲しいと申し出てみた。
するとソルテは意外とあっさりとそれを受け入れ、エイラに布とブラシを手渡す。そして彼女は脱衣室にある椅子へとちょこんと腰掛けた。
拍子抜けしつつもエイラは浴場の入り口にある、バラの彫刻が施された白い支柱のアーチをくぐり抜ける。
広い浴場の壁にはカラフルなタイルがふんだんに使われ、ミルクのように真っ白な床には、クロンヴァールの大きな紋章が鮮やかな青いタイルで表現されている。
浴槽の奥には竜の国自慢の野花が花壇に植えられており、壁に取り付けられている銀色の金属で出来た竜の装飾からは、かけ流しの乳白色の温泉がちょろちょろと浴槽へと流れて出していた。
浴室着を壁に掛けると、早々に身を清め、エイラは早速湯船へと足を沈める。
足先からチリチリと痺れるような熱さを感じながら肩まで湯に浸かり、そっと目を伏せ、深い溜息を吐き出す。
体の芯まで染み渡る心地よさに、漸くひと心地着き、久々の温泉を堪能する。
遥か下層の地下から組み上げられる温泉は、エイラだけでなく国中の人々が利用する竜の国の生命線の要のひとつだ。
四方を竜の山脈に囲まれているこの国が常春の楽園でいられるのは、この温泉が地表を温めているからだった。
旅の疲れを幾らか癒すと、エイラは湯船から身を起こす。
壁に掛けた浴室着をまた身に纏うと、幾分か火照った頬を押さえながら、冷たいタイルの上を濡れたままの足でヒタヒタと歩き、脱衣所の方へと戻っていく。
しかし数歩進んだところで、突然足元がぐにゃりと歪むような奇妙な感覚がエイラに襲いかかる。
入浴して湯船から上がるまでにそれほど時間はかかっていなかったと思う。体調も特に悪くない。
しかしのぼせたにしてはあまりにも奇妙な感覚に、エイラは思わずその場で立ち止まった。
辺りをよくみれば足元だけでなく、周りの壁もゆらゆらと大きく歪んでいる。
なにかが起こっているのは確かなのに、その風景の異常さに目が追いついていけず、エイラはとうとうその異常な景色に酔い、膝からガクリと崩れ落ちた。
座り込んで、倦怠感と吐き気を抑えながら足下へと視線を移すと、床の上に奇妙な赤い文字が孤を描いて浮かび上がっていることに気がつく。
「これ……は……!」
そこでこれが予め仕掛けられた罠と気がついて、エイラは吐き気を押さえながら床を這うように、その場からとにかく離れようと四つん這いで脱衣所へと向かう。
必死になって腕を伸ばすと、見覚えのある歪な黒い魔法文字が、エイラの全身を這うように、ザワリザワリと蠢いているのが目に入り、エイラはゾッと背筋を凍らせ、瞠目した。
「なっ……い、やぁっ!!」
おびただしい量の漆黒の棘一つ一つが、まるで小さな虫の様に足元から腕の方へと這い上がってくる。
その異様な光景に、エイラは蒼白になってなんとかそれを振り払おうと、必死にもがいて床のタイルにしがみ付いた。
なにかを探るように纏わりつく棘の形をした魔法文字は徐々にその数を増幅し、一つの大きな生き物のようにエイラをヌルリと飲み込んでいく。
『サンダルウッド……白檀………違うな…それじゃない。香はあくまで催眠作用しかないはずだ。それとも寝ている間になにかされたのか?』
恐怖に身を震わせながら棘を振り払っていると、不意に以前言われたライマールの言葉が脳裏に思び、エイラはハッと息を飲む。
(香……じゃない……? そう、だ……私……)
何故こんな大事なことを忘れていたんだろうか。
ーー体内に"呪"が入り込んだのは、香のせいなんかではない!!
「ライ……ル……さ、……に……」
エイラのか細い声が、かけ流しの温泉の音に掻き消される。
透き通るような白い肌は、ズルズルと奈落へ落ちるかのように真っ黒な塊に覆われ、やがてエイラの姿はその塊と共に床へと吸い込まれて行った。
音もなく、タイルから浮かび上がっていた赤い文字が消えると、何事もなかったかの様な静寂が浴場内に戻ってくる。
その直後、なにかを察知したかのように入り口付近のアーチから、ソルテとロアがぼんやりと顔を覗かせた。
「まぁ大変、エイラ様は何処へ行かれたのかしら? ねぇロア」
慌てる様子もなく、ソルテは不思議そうに首を傾げる。
その隣でロアは姉のスカートの裾を握りしめ、床のクロンヴァールの紋章へと視線を落とすと、青いタイルに微かに残る漆黒の棘を見つめ、やがて不気味に口角をあげてほくそ笑んだ。




