ブルースターの小さな奇跡 3
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その後、ライマールは少しだけ仮眠を取るといい、エイラの膝を借りて眠りに着く。
陽がくれてかなり経った頃、いつの間にかエイラも眠っていたようで、二人して目を覚ました頃には、迷宮の中はすっかり闇に包まれていた。
ライマールが魔法で明かりをともし、自身の体調を確認すると、エイラを横抱きに抱えて、早速城へと戻る。
転移魔法を使うのかとエイラは少し身構えたが、ライマールはまた姿を番人へと変化させ、呪文を唱えることなく一歩前へと歩み出た。
すると景色が揺れるように変化し、辺り一面真っ白な世界へと辿り着く。
ライマールの足元には低い水面が広がり、足首辺りまで水に浸かっていた。
その異様な光景に驚いて、エイラは思わずライマールの首にしがみついた。
『大丈夫だ。すぐ城に移る』
ライマールは穏やかに目を細めて、エイラに声を掛ける。
その澄んだ声は、無機質な世界に神々しく響き渡り、エイラの落ち着かない心を不思議と癒した。
ライマールがまた一歩前へと進めば、言葉通り、辺りの景色がまた変化する。
まるで水鏡に囲まれているかのような、そんな錯覚すら覚える不思議な光景に、エイラは瞬きも忘れキョロキョロと見入っていた。
気がつけば、見慣れた自室のベランダからに佇んでいた。
ただ、その風景がゆらゆらと微かに揺れ続けているせいで、目の前の光景がまるで夢の中のように感じられる。
エイラが戸惑う中、ライマールは慣れた様子でその揺れる景色の中をツカツカと歩いていく。
迷いなくエイラの部屋の中へと入ると、エイラをベッドに座らせ「少し待っていろ」とだけ言って、その場からどこかへと消えてしまった。
すると揺らめいていた景色は、途端にハッキリとしたものに形を変える。
一体何が起こったのか状況を理解できなないまま、エイラはおそるおそる立ち上がり、とりあえずとばかりに部屋のランプに火を灯す。
灯火と蝋の匂いが、それまで染み付いていた部屋の匂いを少しづつ消していくのを感じ、小さく胸を撫でおろす。
「美味いかは判らないが、これを食べておけ」
ほどなくして、突然背後から声をかけられエイラが驚いて振り返ると、いつの間にか戻ってきたライマールが、サンドウィッチを乗せた皿と茶器を抱えて直ぐ後ろに立っていた。
「あ、ありがとうございます」
まだ少しだけ居心地が悪そうに見を硬くしているエイラに気付いたのか、ライマールは空中庭園に続くベランダのテーブルにサンドウィッチを置くと、おもむろにお茶の準備に取り掛かった。
「あの、私が……」
「いい。茶は俺が用意しておくから着替えて来い。そのままでは風邪を引くぞ」
淡々と指摘され、そういえば浴室着のままだったと、エイラは慌ててキャビネットの前へと駆け寄る。
適当な衣装を手に取ると、ほんのり染まった頬を隠すように俯いて、エイラは小走り気味に隣の部屋へと移動した。
その後ろから、くつくつと堪えるような低い笑い声が聞こえた気がして、エイラは更に耳まで熱く染め上げていた。
エイラが着替え終えて戻ってくると、ライマールは席を立ち上がって恭しくエスコートする。
少しらしくないライマールの振る舞いに、エイラは思わずクスリと笑う。
するとライマールも嬉しそうにエイラに笑みを浮かべていた。
誘われるままにベランダへ出れば、丸く青白い月が雲の隙間から、眼下に広がる常春の庭園に植えられた野花を幻想的に照らしだす。
ライマールがどこからか持ってきたのか、テーブルの中央にはブルースターをあしらった可愛らしい陶花が飾られていた。
その周りには食べやすい様に半分に切られた大きなライ麦パンのサンドウィッチと、幾つかの果物が無造作に置かれ、更にその隣では竜の国の野花の装飾をあしらったティーポットが湯気を立て、なかからダージリンのよい香りがふんわりと漂う。
引かれた椅子に腰掛けると、ライマールが甲斐甲斐しくお茶を入れ、サンドウィッチを振舞ってくる。
一口食べると沢山の野菜とハムの間から、レモンと蜂蜜の甘酸っぱいドレッシングの味が口の中に広がった。
少しだけ蜂蜜の量が多い気もしたが、なかなか美味しいドレッシングだとエイラは舌鼓を打つ。
「もしかして、ライマール様が作ったんですか?」
「ああ。今この城でまともに働ける者はいなさそうだったから勝手に漁らせて貰った。もしかして口に合わなかったか?」
「いえ、とても美味しいです。お料理なさるんですね」
「たいしたものは作れないが、研究が忙しくてメルがいない時はこれが一番早くて楽だ」
サンドウィッチを口に運びながら、ライマールは照れ臭そうに頬を染める。
そんなライマールを見ながら、通りで甘いわけだとエイラは密かに苦笑した。
しかし王子自ら料理をするなんて、必要に迫られてといったところなんだろうか?
思い返せば初めてあった時から台所に立っているような気配はあった気がする。
ライマールの研究室へ行った時もライマール自ら率先してお茶を用意していたし、もしかしたら、何かを作ること自体が好きなのかも知れない。
ライマールについてもっと色々なことが知りたいと、エイラは素直にそう思った。
「ライマール様は何でもおできになるんですね。できないこととかあまりなさそうです」
「……片付けるのは、苦手だ」
目を細めてエイラが言えば、ライマールは少し複雑な顔をしてそっぽを向いてしまう。
決まり悪そうに顔を顰めるのを見て、エイラは少し目を見開いてから、クスクスと屈託のない笑い声を立てた。
「そうでした。私と同じでしたね」
無邪気に笑うエイラを見て、ライマールはハッと息を呑む。
やがて眩しそうに紫色の瞳を細くすると、瞳の奥から熱いものが押し寄せてきた。
月明かりに照らされる庭園の花と同じように幻想的で、それでいて活き活きとしたエイラの笑顔は、ずっとライマールが求めていた一番好きなエイラの姿だった。
もしかしたらこの先の未来で見ることはないかも知れないと覚悟を決めていただけに、なんとも言い難い感情が込み上げてくる。
できることなら、今この時を止めてしまいたいと願ってしまうほどに、愛おしくかけがえのない瞬間だった。
ライマールは堪えきれずに立ち上がると、エイラの頬へと手を伸ばす。
エイラはまたライマールの行動に驚いたように目を見開いたが、ライマールのその顔が、笑顔なのに今にも泣き出しそうなほど歪んでいることに困惑し、眼差しを揺らす。
その切なげな表情のわけを問う前に、ライマールがゆっくりと近づいてきた。
テーブルについたライマールの手が、量の減ったティーカップに触れ、カチャリと小さな音を立てる。
エイラは意図を理解して、少し迷いながらも目を伏せると、ぎこちなくもそれを受け入れる。
初めての時とは違う、優しく穏やかな口付けに、エイラは自分の中で着々と育っていく暖かな感情を自覚する。
意識すれば、胸の奥にあるブルースターの花の暖かみが以前よりも増したような………そんな気がした。
長いようで短い触れ合いの後、月明かりに照らされる二つの影が静かに離れていく。
エイラは気恥ずかしさを感じながら、ゆっくりと目を開け静かにに俯く。
瞼を染めながらちらりと上を見上げれば、エイラの気持ちを感じ取っていたのか、紫玉の瞳を輝かせ、とろけるような甘い笑みを浮かべたライマールが、どこか名残惜しそうにエイラを見つめ返していた。




