004「珈琲館と店主」
「ダメダメ。恋愛は御法度なんだから。ちょっと優しくされたくらいで調子に乗っちゃダメだわ」
アール・ヌーボー調のガラスと鉄骨のアーチの下、商店のあいだにある大理石の道の上にコツコツと足音を立てながら歩きながら、エマは初心を忘れまいとして、ブツクサ小さく自分に言い聞かせている。両サイドでは、ふくよかで逞しい腕をした婦人が、シャンソンを口ずさみながら焼きたてのバゲットをカゴに入れたり、オスの孔雀のように派手に着飾ったスリムな青年が、マネキンの洋服にブラシをかけたりしている。
さらにパサージュを歩くこと、それから十数分ほど。駅から離れたことで、すれ違う人の数が減ってきたところで、エマは、一軒の小さな洋館の前で立ち止まる。それは、まるでおとぎ話に出て来そうなメルヘンチックな外観で、その二階建てのレンガの家の一階には、通りに面した小さな庭と、オレンジとココアブラウンの縞模様のオーニングによって陽射しを和らげられているテラス席がある。そして、カウベルの付いたドアから通りへと続く飛び石の道の途中には、コーヒーミルのシルエットが描かれた立て看板がある。誰が見ても、そこがカフェであることが一目瞭然である。
「シマシマの日よけがあるお庭に、蔦が這ってるレンガのお家。うん! パパが言ってた珈琲館は、ここに違いないわ」
エマは、そう言って合点すると、野ウサギのようにピョンピョンと飛び石を渡り、カウベルを鳴らしながらドアを開けて店内に入る。
カフェの中は木の風合いを活かした内装の落ち着いたカフェで、カウンターの向こうには、若白髪の目立つパーマっ気のある黒髪をした男が、真剣な表情をして立っている。手元を見れば、フランネルのフィルターの底に入れたコーヒー粉に、のの字を書くようにしてコーヒーポットの熱湯を注いでいる。
抽出液がフィルターをセットしたサーバーに滴り落ちるのを確かめて視線を上げた男は、その様子をカウンター越しに興味深くジーッと見つめるエマの姿に初めて気付き、目を丸くしながら話しかける。
「おや、お嬢さん。気が付かなくて、申し訳なかったね。ご注文は?」
「あっ、いや。私は、お客さんじゃないの。確認なんだけど、あなたは、アランさん?」
「いかにも、僕はアランという名前だよ。はて? そんな透き通るような金髪と抜けるような青い瞳を持った美人さんなら、一目見ただけでも覚えていそうなものだけど、あいにく、記憶にないね。君の名前は?」
「私は、エマよ。あれ? パパから、何も聞いてないの?」
小首を傾げながらエマが訪ねると、名前を訊いたアランは、ハタと何かを思い出したかのように中空を見上げて動きを止めてから、一拍おいて話し出す。
「あぁ、そうか。魔女修業として、住み込みで働かせてやって欲しいという話だね?」
「そうよ。あっ。私が魔女だってことは、ここでは、私とアランさんだけの内緒にしてね。教団の人たちに見つかると厄介だから」
「もちろん。あの傲慢な連中に嗅ぎつかれるような真似はしないよ。これでも、遠縁の親戚として、君のパパに信頼されて預かったわけだからね」
「よかった。それじゃあ、まず荷物を置きたいんだけど」
エマが床に置いていたトランクを持ち直すと、眉をひそめてバツの悪そうな顔をしながら、言い辛そうにエマに向かって切り出す。
「そのことなんだけどね。実は、君が来るのは、この次の週末だと勘違いしてて、まだ部屋の掃除が終わってないんだ。それで、一緒に片付けてくれると助かるんだが、どうかな?」
「あっ、そうなんだ。いいわよ。パパッと済ませちゃいましょう!」
「助かるよ。悪いね、長旅で疲れてるだろうに」
「ううん、へっちゃらよ。私、元気だけが取り柄だから。部屋は、二階なのかしら?」
「あぁ、そうだよ。この奥の突き当りに階段があるから、先に上がっててくれるかい?」
「は~い。行ってきま~す」
快活に返事をすると、エマは足取りも軽やかに店の奥へと駆けて行く。
こうして、エマの新天地での生活は、部屋の掃除からスタートを切ったのである。




