祝祭に血の贖罪を 三
にいさまが、黒いダスターコートにベージュのカシミアストールを首から垂らし、わたくしは細いヒールのピンクゴールド、ワンストラップパンプスを履いて、呼んだタクシーに乗り込みました。深いボルドーのスパンコールとビーズに品良く覆われたクラッチバッグを、わたくしはしっかりと膝の上に乗せました。にいさまも車を運転なさいますが、今日はお酒を召し上がることになるであろう配慮から、タクシーを呼ばれたのです。
にいさまがタクシーを呼ばれた理由には、普段から運転がお好きでないこともあります。
〝空を飛んだほうが速いと思うと、どうにもかったるくてね〟
よくそのように、巫山戯て仰せです。
この、窮屈な鉄の塊が、わたくしはあまり好きではございません。
それでもまだ、煙草特有の臭いが車内に沁みついていないだけ、ましです。
とうさまは煙草をお吸いにならない方でしたし、にいさまにも喫煙の習慣はありません。
幼い頃、車酔いしがちだったわたくしは、特に脂臭さを感じると、覿面に蒼ざめ、口元を手で押さえておりました。
そんな時は、にいさまが必ず、背をさすってくださったのです。
車窓から見る夜の情景は、光や歩く人がどんどん後ろに流れます。
映写機に照らされたスクリーンのよう。
「バレンタインに外でお食事ですか?」
にこやかに、運転手さんが訊かれたのに対し、にいさまは微笑して頷かれました。
「はい」
「良いですなあ。うちなんかもう、洒落めかしたかみさんと外食なんか、昔話ですよ。まあ、私の稼業が稼業ですしねえ。休みは疲れ切って寝てばっかでして」
運転手さんは笑い皺が刻まれたお顔でははは、とお笑いになります。
「…お食事でなくても、良いと思いますわ」
「んん?」
わたくしが喋ったのが意外だったかのようなお顔で、運転手さんの目がバックミラーからわたくしに向きます。
「小さなことでも。普段はなさらない簡単なことでもいいんです。して差し上げたら、奥様は屹度、喜ばれると思います」
ははあ、うむ、と言って、運転手さんは目をしばたたかせました。
にいさまの横顔は穏やかに沈黙されています。
世間にも、人の心の機微にも疎いわたくしです。
こうしたことも、勉強なのでございましょう。
タクシーは、素朴とモードを巧みな配合で混ぜ合わせた外観の、レストラン前で停まりました。
にいさまの手に手を重ね、こつり、とパンプスで路上を鳴らし上空を見ますと、漆黒には遠く濁った黒い天蓋から、こちらもまたこつり、と音のしそうな小さな粉雪が一粒、落ちて参りました。
白い息を吐きながら、レストランの入り口前に植わる桜の樹の横を通り過ぎます。
ほっそりした何処か女性的な桜の樹は寒そうで、花の気配はまだ遠いと見えました。
中に入ってコートをそれぞれ預けると、洗練された身ごなしのウェイターさんに、個室へと案内されました。
個室の扉は音の立たない引き戸で、中はヨーロッパの子供部屋を、ぐっとストイックにしたような内装になっております。隅にはサンセベリアの鉢植え。
にいさまが引いてくださった椅子に座り、わたくしはほっと息を洩らしました。
まるで普通の恋人同士みたい―――――――――。
水の入ったグラスが運ばれてきました。
銀色のカトラリーはもう設置され、コース料理が来るのであろうと予想されます。
部屋の窓は小さく、外の景色が多く見られる訳ではないのですが、切り取り方の妙か、それが狭苦しくならず、却って室内を垢抜けさせているようでした。
「春の色だね。綺麗だ」
にいさまが目を細めてそう仰った時、わたくしには何のことだか解りませんでした。
「ワンピースだよ」
「青紫ですわ」
「春めいた青紫だ。同一呼称の色も、一通りじゃない。温かい息吹を感じる、鈴子さんに似合う服だ」
わたくしは気恥ずかしくなりました。
そう仰るにいさまこそ、仕立ての良い若草色のスーツを着こなし、わたくしのクラッチバッグと似たボルドーのネクタイを締め、毅然と、颯爽として見えます。
「桜があったね」
「はい。入口のところに。何だか寒そうでしたわ」
「そういう時期なのさ。春になれば主役顔になる。勘違いしてる人も多いようだが、桜は国花ではないのだけどね」
「まあ。そうなのですか?」
「うん。桜や菊が、そう見なされがちではあるが。うちにあるシクラメンはイスラエルの国花だ。蘭はパプアニューギニアの国花。それから、日本の国鳥は雉」
「桃太郎さんに出てくる?」
くす、とにいさまがお笑いになります。
「そう。桃太郎さんに出てくるね」
「にいさまは、何でもご存じなのですね…」
「仕事が仕事だしね。探偵業なんてやってると、知っていて損という事柄は無いのさ。だが、知って気持ちの良いことばかりじゃない。貴女には知らせたくないような世界の裏側を、僕は山と言うくらい抱えてるよ。不必要なことまで語る気も無い」
「………」
わたくしはグラスの水を舐める程度に飲み、またテーブルに置きました。
口紅がグラスについていないか、確認します。
「花見れば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける」
にいさまが、不意に滑らかに紡がれた和歌は、麗しくも雅な一首でした。
寒い二月に、しめやかな花びらがふんわり舞い込むような。
「どなたのお歌ですか?」
「西行法師だよ。桜の花を見ると、これと言う理由も無いのに、心が苦しい。その苦しいのは、花を待ち花を惜しんで、心を悩ませるから――――――――。そんな意味だ。彼は非常に桜を愛した人だったからね。さっきの入り口の桜を見ても、一首詠んだんじゃないかな?」
にいさまはまた少し、笑います。
――――――――花を愛すればこそ心が苦しい。
わたくしはにいさまが、この和歌を通してわたくしに想いを訴えておられるのだと気づきました。
愛を打ち明けられるのはこれが初めてではないのに。
胸がどきどきします。
わたくしは、少しばかりせかせかした動きでグラスを持ち上げ、また水を飲みました。
「ウァレンティヌスさんも聖職にあられた方で、西行法師も僧職にあられた方ですのに、また印象が異なるお二人ですね」
にいさまも、水を鷹揚に口に含んでからお答えになります。
「宗教者と言っても様々だからね。同じ職業名を冠するからと言って、それに従事する人も十人十色だろう?一説には、西行は順調にエリートとして出世し、将来を嘱望されていたが、叶わぬ恋を悲観して出家したとも言われている」
「叶わぬ恋…」
「あちらにもこちらにも、叶わぬ恋や想いがある。それを考えれば僕たちは、もしかすると恵まれているほうだと言えるのかもしれないね」
それは、にいさまにわたくしたちの世界を守り得るお力があったからです。
類まれな実行力と意志力で、わたくしたち二人の想いと、わたくしを守ってきてくださったからです。
水の入ったグラスに、イヤリングの柘榴石の赤が鮮烈に映ります。
こんな風に、にいさま。
わたくしの心もこんな風に、こんな色で貴方を恋い慕っております。
わたくしがそれを口に出さない内に、引き戸がノックされ、前菜のサラダが運ばれて参りました。




