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第五話 働く人

 世界がシンプルだって言ったよね?


「ああ、うん。言ったね」


 君はまだ人間を知らない。そうも言っていたよね?


「うん、言ったね」


 それなら、まだ君が知らなくちゃいけないことはたくさんある。そういうことにならないかい?


「多分、そうだと思う。あっと次のセリフは言わなくていいよ。分かってる」


 そうかい?


「時間。ないんだろう?」


 そうさ。もう次の『君』が生まれかかっている。


「……でもまだなんだろう? 貴方が僕にそれを教えるってことは、まだ時間は残っている。あるいは──」


 そう。察しがいいね。わざと遅らせてるのさ。君が納得しなければ、君の旅は無駄になる。それはこちらとしても損失なんだ。


「ふうん。意外に面倒なんだね、僕らの世界も」


 そうさ。シンプルじゃないんだ。ちょっとだけ複雑なんだよ、本当は。


「そっか」


 話はそこまでだった。


 ──さて次は、どんな感情が手に入るんだろう?


 宙に浮かぶ少年は、夜空を舞う。

 その好奇心を満たすために。


 *


「もうこんな時間か」

 雑居ビル七階の狭苦しいフロア。

 設計が古いため上げ底になっておらず、LANケーブルが直接床を這っている。

 時刻を示す時計はあるが、それはもはや無意味だった。

 結合試験まであと二日。

 それまでの間、時計が何時を差そうが、決まった時間の延長でしかない。

 男性は、そうは言っても、と時計を見る。

 午前二時を回っていた。

 だが男性の中では、まだ前日の午後二十六時なのだ。

「ここさえ乗り切れば」

 男性は無精髭を手でなぞり、エンターキーを押した。

 液晶モニターにずらずらっと意味不明な文字列が流れる。

 と──。

「あちゃー。またここでエラーかよー」

 モニターに映し出された文字列。『Fatal Error』。

「くっそー、これで二時間の準備がパァだ」

 男性は髪をかきむしりながら、背もたれに身を預けた。

 そこで目があった。

「……誰だ、お前?」

 そこには、中学生くらいの少年が突っ立っていた。

 ──幽霊、とかじゃないよな。

 男性はあたりを見回した。

 今日このフロアに残っているのは男性一人だ。

 二日後の試験に向けての最終調整、というのは表向きで、実はデバッグの真っ最中だ。

 そこに忽然と現れたその少年は、興味津々といった面持ちで、モニタをじっと見つめていた。

「あのな。ここは部外者以外立ち入り禁止だ。というかお前どうやってここ入った?」

高梨祐一(たかなし ゆういち)

「あん?」

「僕の名前」

 少年は高梨祐一と名乗り、モニタから目を離さない。

 ──なんだこいつは?

「おじさんは、今、困ってる?」

「は?」

「ああ、おじさんじゃないか。名前を聞いてもいいかな?」

「名前、って俺か?」

「他に誰が?」

 男性は再び周囲を見渡した。

 自分と少年以外誰もいなかった。

「え、ああ。俺は工藤だ。工藤誠一(くどう せいいち)

「うん。じゃ工藤さん。今困っている?」

 ──なんだこのガキは?

 工藤は、さっきまでウンウン唸りながらバグと戦っていたことなど忘れ、祐一に見入っていた。

「この文字を消せば、解決するのかな?」

 一瞬何を言っているのかわからなかった。

「え、ええと。まぁ簡単に言えばそうだ。この文字列が出てしまうとプログラムが正常に動かない。俺はその文字列を一個ずつ消す作業をしている」

「じゃ、それが『困ったこと』なんだね?」

「ま、まぁそうなるな」

 だが疑問が残る。

「なんでお前、俺が困っていると思ったんだ?」

 そう。

 祐一は、工藤が『困ってる』など一言も言っていないのに、そう決めつけた。それには理由が必要だ。

「お前じゃなくて祐一だってば」

 なぜか名前にこだわる祐一だった。


 *


「いいか? ここは関係者は入れない仕組みになってる。この」

 工藤は祐一に体を向け、首から下げているIDカードを祐一に突きつけた。

「IDカードがなければ、出入り口が開かない。トイレに行くにもいちいちカードを通さないといけないんだ」

「へぇ」

「へぇってお前なぁ……」

 工藤は説明が面倒になった。

 困ったことを説明するには、まだまだ超えなければならないハードルがいくつもある。

「大体、今何時だと思ってんだ? 午前二時だぞ? 今時の中学生がどうかは知らんが、明日学校だってあるだろう?」

「うーん、まぁそうかな」

「そうなんだよ。だからとっと帰れ。今日のことは黙っといてやるから」

 工藤は祐一を追い出す決断をした。

 だが祐一は食い下がった。

「工藤さん。家には子供もいて、奥さんもいる。でもこの時間だし、とっくに寝てるよね?」

「……っ」

 ──こいつ、何を言ってやがる?

「それでも工藤さんは、ここで『働いて』いる。その『バグ』とやらを取るために一生懸命働いている。でも、それで犠牲になっていることの方が多い。そう思ったことはない?」

 工藤は絶句した。

 『犠牲になっていること』

 『一生懸命働いている』

 この二つのキーワードは、工藤の中では相反するのものだ。

 仕事が忙しければ、家族と接する時間が削られる。

 家族と一緒にいたければ、仕事量を減らさないといけない。

 そして今。

 優先すべきは仕事だ。

 二日後に迫った試験の準備が、今の工藤の最優先事項だった。

 だが、目の前の少年はそれを見抜いているかのように、二択を迫ってくる。

 答えなど、分かりきっていた。

「俺の今の仕事は二日後の試験を成功させるために必要なことなんだ。それを『犠牲』とかで責めてほしくないな」

 口調が硬くなっているのを自覚できる。

 だが工藤は、社会人だ。この会社の社員だ。それ相応の義務があるのだ。それを目の前の少年は『家族を犠牲にしている』と暗に責めている。

 看過できなかった。

「お前のお父さんだって、いつも帰りが早いわけじゃないだろう? 時には残業や飲み会で遅くなったりするだろう? 俺がこの時間ここにいるのは、それと大差ない。それを悪いと言うのならそれはそれでいい。だがな、お前の考えを俺に押し付けるな」

 祐一は、工藤のその言葉を黙って聞いていた。

 時折頷きながら。

 時々「うんうん」と言いながら。

「な? そういうことだ。だから帰れ」

 そう言ってあることに思い当たった。

 ──ああ、終電ないよな、この時間。

 公共交通機関はすでに営業を終了している。

 地方都市とはそういうものだ。

「お前、帰る足はあるのか?」

 単純に心配しての言葉だった。

 だが祐一は、その『言葉通り』に受け止めたようだ。

「足? これのこと?」

 そう言って指差したのは自分の足だった。

 ──ふざけているのか?

 工藤は本気で祐一の頭を心配した。

「そうだね。コレがなくちゃどこにも行けないよね」

 そう言って足踏みを始める祐一。

 工藤は、頭の奥に鈍い痛みを感じた。

「とにかく帰れ。俺には仕事が残ってるんだ」

 工藤は、話はこれまでだ、と言わんばかりに、椅子ごと体をモニタに向けた。

 と──。

 異変を感じたのは、その直後だった。

 ──メッセージが消えてる?

 先ほどまでモニタを埋め尽くしていたエラーメッセージが一切表示されていない。工藤は何も操作していない。祐一との会話でそれどころではなかった。

 では一体何が起きたのか。

「工藤さんが『困って』いたことを消した」

 ──は?

「これで工藤さんの仕事は終わり。で、もう遅いかもしれないけど、家に帰れる」

 ──いやいや!

「そんなバカなことがあるか!」

 工藤は、ものすごい勢いでキーボードを叩き、二日後の試験までに動作確認すべきモジュールを実行させた。結果は分かりきっていた。先ほどまでモニタにながれる大量のエラーメッセージ。何もいじっていないのだから、また同じことになるはずだ。

 ところが。

 ──エラーが出ない、だと?

 モニタにはプログラムが正常動作したメッセージが表示されていた。

 ──バカな!

 工藤は祐一を見た。

「ね? 終わってるでしょ?」

 ──終わってなんかいねぇ!

 取るはずのバグが突然消えた。

 これではドキュメントを残せない。

 いやいや。

 そもそも、どうやってデバッグしたんだ?

 工藤は混乱した。

 ──これは仕事どころじゃない。

 明日の朝の会議、そのための資料、二日後に向けた準備と試験仕様書。

 それらを作成出来ない。その説明すら出来ない。

 ──俺は新人じゃねぇんだぞ?

 まさに悪夢だった。

「お前、何やった!」

 工藤は祐一に掴みかかった。

 自分が何のために苦労して、一つずつバグを取っていったか。

 そしてその記録を詳細に残して積み上げてきたか。

 それらが一瞬で消し飛んだ。

「僕が?」

 祐一は、工藤の手を振りほどいた。

 ──なんだこの力?

 工藤は四〇前だが、身長は一七〇センチだ。そこら辺の中学生に力負けすることはない。

 だが目の前では、か細い腕が自分の腕を掴み、抵抗すらできない。

「工藤さんはさ」

 祐一は静かに口を開いた。

「家と会社、どっちの人間?」

 ──どこぞの夫婦喧嘩かよ!

 『私と仕事のどっちが好きなの!』

 工藤は直感的にそう思ったが、祐一が言う言葉は、ニュアンスが多少違っていた。

 『どっちの人間か』

 これまで考えたことのない疑問だ。

 朝起きて食事し、出勤する。ここまではまだ『家の人間』だろう。

 そしてタイムカードを押した瞬間から『会社の人間』になる。

 それは仕事が終わるまで続く。日をまたぐことだってある。

 なんとか家にたどり着き、家族と顔も合わせることなく風呂に入って寝る。

 これは『家の人間』と呼べるだろうか?

 日々の仕事に疲れ果て、貴重な休日さえ、寝て過ごすようになった。

 そうなると必然として、家族との会話が減っていく。

「行ってきます」

「ただいま」

 この二つの言葉だけで生活が成立するようになったのはいつからだろうか?

 工藤はプログラムのおかしな動作など、どうでもいいように思えてきた。

 今まで疑問を持たず、必死に設計書を作り、コーディングし、テストする。その毎日が工藤を支えてきた。

 だが本当に支えてきたのだろうか?

 これは自分でなければできない。

 そう思い込んでいるだけではないのか?

 ──俺は家族を犠牲にしてきたのか?

 一度持ってしまった疑問はもう止まらない。

 今この瞬間が大切な時間であることは分かっている。

 だが、何もここまでしなくても、明日でも明後日でも良かったのではないか?

 家族が寝静まり、顔を見ることもなく家に帰る。

 そして朝も時間を惜しむように家を出る。

 分からなくなった。

 会社という組織に属している自分。

 家族という単位で社会に属している自分。

 どっちが本当の自分なのか。

 どっちが自分の居場所なのか。

「工藤さんはさ」

 祐一がまた静かに口を開いた。

「もうどっちなのか分からなくなってる。違う?」

 ──いや、違う!

「家にいる時の自分。会社にいる時の自分。どっちが本物なのか、工藤さんには判断ができない。違うかな?」

 ──違う!

「僕はそれを知りたいんだ。人間が働くということは、自らの時間を会社なり組織に削って捧げる。そして対価として給料をもらう。その給料で家族を養う。一見それは正しい流れに見える。でも」

 祐一はここで言葉を切った。

 そして工藤を真正面から見据えた。

「僕には家族がどうこうは分からないけど、大事なものだってことは分かる。そして仕事と比較できるものでもないことも分かる。人間の思いや感情は家族や友人といる時に培われる。でも今の工藤さんにはそれない。それなら工藤さんは『人間』なのかな?」

 胸を抉り取られる感覚が工藤を襲った。

 『人間』なのか。

 感情を持たない人間は人間になれないのか。

 それなら自分はなんだ。

 この会社は中途採用で入社した。

 元々IT系の仕事に憧れを持ち、前の仕事では営業をこなしつつ、資格の勉強をした。

 自分に向いている。

 そう思って必死に勉強した。

 その甲斐あって、大手メーカ系の子会社に中途採用されたのだ。

 念願叶ったわけだが、そこで愕然とした。

 日々進歩する技術は工藤を待ってはくれない。

 次々とそれらを覚え、消化し、応用し、それを繰り返した。

 そのうち結婚の話が出てきて、家庭を持った。

 子供は二人。男の子と女の子だ。

 だが、そのあたりから仕事の責任が増えた。

 そして徐々に、家族から遠ざかっていった。

 ──それは俺が悪いのだろうか?

 工藤は目の前の少年の無垢な瞳を見つつ、自問自答した。

 ──みんなやってることじゃないのか? 誰だって忙しいし、忙しいという事は家族のためなんじゃないのか?

 だが目の前の少年の瞳は、それに疑問を投げかける。

 共に過ごす時間。共有する感情。

 自分はそれを疎かにしてきたのか?

 ──そんなことはない!

 工藤は席を立った。

「お前に何が分かる!」

 それはやり場のない怒りだった。

「俺だって、何もせずにここにいるわけじゃない。家庭だってちゃんと守ってきた。忙しいからなんてのは言い訳だと信じてここまで来たんだ!」

「でも──」

 祐一は、立ち上がった工藤を見上げた。 

「でも、本当に心の底から、今の言葉を繰り返せる?」

 工藤は「もちろんだ」という言葉を紡ぎ出すことができなかった。

「僕は、人間が持つ責任感と愛情の分水嶺、その境界、それが知りたいんだ。だから工藤さんと話をしている。でも答えは出ないのかも知れないし、そうでもないかも知れない。ねぇ工藤さん。仕事は楽しい?」

「……いや」

 工藤は絞り出すようにその言葉を口にした。

「じゃ、家に帰ると楽しい?」

「……いや」

 工藤は同じ言葉を使った。

 だが、この二つには決定的な違いがあった。

 仕事とは、自らの時間を差し出し会社の利益に貢献することだ。そこに楽しい、楽しくないと言った個人的な感情を挟む余地はない。

 翻って、家庭とは自分の責任における社会との接点であり、極めて個人的な範囲に存在する。

 だが工藤は、そのどちらも「楽しくない」と答えた。

 意味は同じでも、その真理は異なる。

「そっか。今の工藤さんにとって、どちらも『苦痛』でしかないんだね」

 ──苦痛だと?

 工藤は、その言葉を聞いて、どこか安心した自分に驚きを隠せなかった。

 苦痛。

 それは仕事でも家庭でも同じ意味で使える。つまりストレスだ。

 本来、この仕事は工藤が望んで転職した。

 それならば、苦痛を感じる理由がない。

 そして家庭。

 愛し合って構築された小社会は、工藤の人生そのものだ。

 そこに苦痛があるのはおかしい。

 ──なぜだ。

 工藤は、もう仕事どころではない。

 アイデンティティが崩壊する。

 今まで積み上げてきたものが消え失せる。

 足元に何もなくなる。

 居場所がなくなる。

 その結果はなんだ?

 工藤は唐突に理解した。

 ──恐怖だ。

 仕事を失う恐怖。家庭を失う恐怖。

 それらはどちらも同じ意味だ。

「今、工藤さんが感じているもの、当ててみようか?」

 祐一が、おどけた風に手を背中で組んだ。

「俺が感じている、もの……」

「そう。それは『恐怖』。違う?」

 工藤はもう発狂しそうになった。

 なんだこのガキは!

 なんで俺の心の中にズカズカと入って来れるんだ!

 しかも、俺をどんどん追い詰めて!

 何が楽しいんだ!

 いや。

 ──何が面白いんだ!

「僕は面白がっている訳じゃないよ。ただ話を聞きたいだけさ。こんな時間まで一生懸命仕事をしている、責任感の強い工藤さんのね」

 もう工藤には、祐一の言葉は耳に入らない。

 言葉全てが皮肉に聞こえる。罵倒に聞こえる。

 自分を責めているように聞こえる。

「でもね、話をして分かったことがある」

「……なんだ、それは?」

 工藤の声は低く、感情を押し殺した声色だった。

 祐一は軽く微笑んだ。

「……なにがおかしい?」

「別に面白い訳じゃないよ。ただね、工藤さんが仕事と家、その両方を大事にしているのが分かったからさ」

 ──両方、だと……。

 工藤は目を閉じた。

 愛しい家族が浮かび上がった。そこには奥さんと二人の子供の姿があった。

 そして目を開けた。

 二日後に迫る試験に間に合わせなければならない仕事が山積みになっていた。

 それは目を閉じるか開けるか。

 オンかオフか。

 その瞬間、工藤は悟った。

 ──なんだ、簡単なことじゃないか。

 急の肩の力が抜けた気がした。

 そして力尽きたように、椅子に腰を下ろした。

「そうか。簡単なことだったのか」

 今までの自分。これからの自分。

 それはきっと違う歩み方をするだろう。

「工藤さん、聞かせてよ。工藤さんは『どっちの人間』なのか」

 答えは最初から決まっていたんだ。

 工藤は憑き物が落ちたように微笑み、はっきりとこう答えた。

「両方、だよ」

「両方?」

「そうだ。俺はこの会社の人間であり、家では二人の子供がいるお父さんだ」

 工藤は取り戻した。自分と自分が持つ責任と感情を。

「だからさっき消したエラー、元に戻せ」

「え?」

「いいか? 別に俺はわざわざ苦労を増やすつもりはない。お前が消したエラーは俺がやらないと後々大変なんだ。物事には手順ってのがあるんだ。それにこれは俺の『仕事』だ。家もそうだ。あれは俺の『家庭』だ。お前のモンじゃない」

 工藤の言葉に、祐一は不満そうだ。

「お前の歳じゃ分からないだろうがな。この世界、どっちかってことはないんだ。人間は基本的に欲張りだ。あれも欲しければ、これも欲しいってなっちまう」

 祐一は黙って工藤の言葉に耳を傾ける。

「だから俺は仕事をする。そしてその対価として給料をもらう。それで家庭を養う。どっちかじゃないんだ。俺の場合はな。もちろん、家庭を持たないという選択肢もある。だがそれは、そいつの価値観の問題だ。そいつは家庭以外に大事なものを持っているはずだ。仕事をしてそれも守る。そうして初めて自分の居場所を確認できるんだ。どうだ? 面倒だろう?」

「そうだね、かなり面倒そうだ」

 祐一は苦笑を返した。

「それより本当に元に戻していいの? もう朝になるよ?」

「いいんだよ。さっきも言ったが、これは俺の仕事だ。給料もらってるからには俺がやらないと意味がない。それともお前、ここで働くか?」

 いやそれはご免だけどと言いつつ、祐一はまだ粘った。

「せっかく手伝ってあげたのに……」

「お前な」

 工藤は、席を立ち、祐一を見下ろした。先生と生徒のようだった。

「それを何て言うか知ってるか?」

「うーん。知らない」

 工藤はにやっと笑い、こう答えた。

「余計なお世話ってんだよ」


 *


 ビルを眼下に見下ろしつつ、祐一は夜の空を舞っていた。


「今日は面白かった」


 今日はご機嫌だね。


「そうかな?」


 いつもと様子が違う。


「自覚はないんだけど……」


 収穫が大きいのはいいことだよ。


「そうだね。確かに収穫はあったよ」


 へぇ。どんな?


「人間はね、欲張りなんだよ」


 うん? それはどういうこと?


「人間の社会は、仕事をしないと食べていけない。家族がいたら養わなきゃいけない」


 そうだろうね。


「でも人間は一人なんだ。仕事をする人間も、家庭を養う人間も一人の人間なんだ」


 人間は一人。


「そう。そしてその両方があって初めて自分の居場所を確認できるんだ。どうだい、面白いだろう?」


 へぇ。居場所、か。


「そう。人間は色んな感情を持ってるけど、自分の足場というか、まぁ居場所があって初めて、その感情を得るんだ。嬉しいことも悲しいことも、寂しいことも、悔しいことも、居場所があってこそなんだ」


 今回はずいぶん大きな収穫だ。人間の本質に近いかも知れないね。


「うん。なんか手応えみたいなのを感じたよ」


 そうか。じゃ、旅はそろそろ終わりに近づいたってことかな?


「──まだ足りないと言いたいけど、時間は有限だ。もう限界なんだね?」


 それに応えるものはなく、ただ宙に祐一が漂う。

 そして。

 夜明けと共に、その姿も消えた。

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