〜交わす言葉〜
紫龍は診察台の上に横になり、点滴を受けていた。顔色はいつもにも増して青白く、体調の悪さを物語っていた。
草壁は剣持の病院へと、紫龍を抱えるようにして連れて来て、剣持に紫龍を委ねるとすぐに消えてしまい、姿が見えなかった。
「いつまで無理を続けるつもりです。今だって傷一つで命に危険が及ぶんですよ。わかっているんですか?」
剣持の静かな淡々とした言葉の中に怒りを感じながら、紫龍は目を閉じたまま口元を歪め、微かに微笑む。それはまるでこれからの自分の人生をあざ笑っているかのように見えた。
「悪いな、いつも迷惑をかけて。悪いがもう少しだけ俺に付き合ってくれ、たぶんもうすぐ終わると思う」
紫龍は目を開ける事無くそ言う。力の無い声は、自らの運命を悟っているかのようだった。
「本当なら二、三日、入院してもらいたいんですが……無理なようですね」
「……今のうちの会っておきたい人間もいるし、やらなきゃ行けねえ事もある」
剣持の言葉に、紫龍は静かに目を開き、そう言うと、優しい雰囲気を漂わせながら微笑んだ
その笑顔を見て、剣持は溜息をつき何も言わず俯く。
「薬を出しますから、きちんと飲んでくださいね」
半ば諦めたように剣持はそう言うと、もうなくなり掛けていた点滴を紫龍の腕から外し、診察室から出て行った。
紫龍はまだ熱の残る体を起こすと立ち上がる。太ももにも肩にも痛みが走る。痛みを感じる事で生きている事を実感し、紫龍は冷ややかに微笑んでいた。
ゆっくりと歩き始め、病室を出ると薬を受け取り、紫龍は病院を後にした。
どうしてなのか? 普通にする事が一番難しい。
青威は横に座っている朱音の体温を微かに感じながら、夕飯を食べていた。
昼間の一件から二人の間には目に見えない溝ができ、会話する事すらも意識してしまっていた。
青威は戸惑っていた。
こんな気持ちになったのは初めてであった。
口付けだけで、こんなにも動揺し、相手を意識してしまう自分を、どうしていいのかわからなかった。
それは気まずく、苦しく、自分の意思とは真逆の方向へと行動を走らせる。
朱音と笑顔で話したいと思っていても、顔は引きつり、取って付けた様な笑顔しかできず、言葉もうまく出す事ができなかった。
その都度、心臓は高鳴り、自分の中の朱音への気持ちを、息苦しい程感じ溜息にしかできなかった。
朱音もまた気まずさを感じていた。
青威が越してきて間もない頃、抱きつかれて動揺し、もの凄い勢いで怒った事があった。そんな自分自身が自ら青威に口づけをしてしまった事、それを思い出しただけで、顔が火照っていくのを感じた。
まともに青威の顔を見る事ができない。
同じ時間を一緒に共有する事に苦痛に似た感覚を感じずにはいられなかった。
「お前達、どうかしたのか?」
眼の前の時雨にそう聞かれ、二人は気まずい空気の中、目を伏せご飯を口に運ぶ。
青威はいつもワシワシと大口を開けてご飯を掻き込むのに、今日は溜息ばかりでご飯が全く進んでいなかった。
朱音はいつもにも増して小食で、殆ど箸をつけていない。
今まで普通にしていた言葉や行動が、一瞬にしてまったく違う雰囲気を漂わせ、二人はお互いに思っているにも関わらず、うまく歯車が合わずギクシャクしていた。
時雨はそんな二人の様子を見ながら、静かに目を伏せ、全てを見透かしたように微笑んでいた。
会話の一つも無く、夕食の時間が過ぎていく。
青威はこんな雰囲気を作り出してしまっている自分に、疑問を投げかけ、なかなか見つからない答えを探していた。
朱音は自分自身が驚くほどの行動をしてしまった事に、ほんの少し後悔していた。
紫龍の姿がない事に淋しさを感じたのか、珍しくワタゲが母屋に姿を現し、青威の足に体をすり寄せると、二人の間に入る様に丸くなり、朱音の見つめて可愛らしい声で鳴いた。
緑色の瞳が優しく輝いていた。
未来はシャワーを浴び、ベッドの上で胡坐を掻きながらビールを飲んでいた。
「う〜ん、旨い」
朱音はビールを一気に飲み干すと、ゴミ箱目掛けて投げ、スコンとゴミ箱に缶が落ちる姿を見て一人で満足をし、まだ乾ききらない長い黒髪を無造作にベッドの上に広げると仰向けに寝そべり天井を見上げた。
あの一番奥のスィートルームには誰がいたのか。あのドアの向こう側で何があったのか。
未来はそんな事を考えながら、大きく溜息を一つついた。
携帯電話の着信音が響き、机の上で光っている。未来は起き上がりすぐに携帯を手にすると、これ以上は無いと言うくらいに嬉しそうに微笑み携帯を開いた。
「もしもし……うん、部屋にいる……うん、うん、じゃあ待ってる」
未来は電話を切ると洗面所の鏡に向かい歩き、濡れている髪の毛をタオルで拭き、ゴムで後ろに纏めると鏡に向って凛と瞳を輝かせた。
唇に口紅を引くようなしおらしい女とは違うが、未来は滑らかな艶っぽい雰囲気を持っている。何の躊躇もなく、心も顔も素を出し、表向きの表情で自分を守らなくても、自分を保っていけるだけの強さを持ってる事が、未来を輝かせる魅力となっていたのかもしれない。
未来はタンクトップに短パンという軽い服装で、ドアの前をウロウロを歩き回っている。
その時だった、ドアをノックする音が聞えた。一瞬にして未来の表情が輝き、ノブに手をかけるとドアを開いた。
廊下の向こう側の壁にもたれかかる様に紫龍が腕組をして立っていた。
「紫龍」
未来の声に、紫龍は煙草を一本咥えると、ライターを未来に投げつけた。未来はそれを少し驚いたように受け取り紫龍の顔を不思議そうに見つめている。
「煙草に火をつけてくれるか?」
紫龍はいつもの如く無表情でそう静かに言い、はにかんだ笑みを浮かべた。
未来はクスリと笑い、ドアを大きく開いて紫龍を部屋の中へと招き入れる。紫龍は部屋に入ると未来の眼の前に立ち止まり、口に咥えた煙草を未来の方に突き出した。
未来はライターを煙草に近づけ火を点ける。ユラユラと一本の煙が立ち上った。
紫龍はゆっくと部屋の中に入って行くと窓際に立ち、すっかり暗くなった外に浮かぶ街の灯を見ながらゆっくりと口を開いた。
「お前、誕生日はいつだ?」
突然の紫龍の問いに、未来は目を見開き驚いていた。
答えが返ってこない事を不思議に思った紫龍は、未来の方を振り返る。そこには揺れる瞳で紫龍をまっすぐに見つめる未来の姿があった。
気が付けば、タンクトップに短パンという肌を露出した姿をしている。
紫龍は思わず目を伏せるように視線をずらした。
「誕生日は?」
もう一度聞く。
「八月一日だけど」
「そうか、その日は絶対に空けておけ、何が何でもだ、わかったか?」
紫龍の言葉に何か深い意味を感じ、未来は怪訝な表情を浮かべ紫龍に近付いて行く。
「いったい、どういう事?」
未来の問いかけに、紫龍は顔を上げた。
「お前の誕生日まで俺はお前とは会わないし、連絡も取らない。そして会うのもその日を最後にする」
紫龍の言葉に未来は足を止め、黒い前髪を掻き揚げるように頭を抱えて溜息を付いた。
「……それは揺るがない決心なの?」
「そうだ、俺が決めた事だ。お前とはそれを最後にする」
「それって、今回の月島組の事が関係してる? もしかして誰かに私と離れるように言われたの?」
未来は鋭い視線で紫龍の瞳を見つめ、どんな意思も見過ごさないように精神を集中しているように見えた。
「お前は明日からまた元通りの生活に戻る。俺の結論に誰かの意思が絡んでいようがいまいが、俺の考えは変わらない」
「誰かに脅されたのね。誰よ!? 私は誰かの指図で自分の気持ちを曲げられるのが嫌いなの。紫龍が私と会わなくても、私が会いに行く!」
未来は激しい口調で、紫龍にそう言い、走るように紫龍に抱きついた。ほんの少し血と薬品の匂いが未来の鼻につく。
紫龍の持っていた煙草の煙が大きく揺れていた。
「未来、俺は死ぬんだよ。その時、お前には好きな仕事していてもらいたいって思う。いずれいなくなる俺に執着せず、手元に残る仕事を頑張る。俺はそんな未来の姿を見ていたい」
紫龍の冷ややかだが、優しい響きを持つ言葉が未来の耳をかすめて通り過ぎて行く。
その言葉の意味を未来の痛いほどわかっていた。
未来にとって仕事は、紫龍の存在と天秤にかける事の出来ない程大切なものである。だが、一つを諦め一つを手に入れる。そんな器用さを未来は持ち合わせてはいない。
「紫龍は私と会わなくても平気……なの?」
未来はそう質問しながら、無意味だとも思っていた。返ってくる答えに予想が付いていたからだ。
「……俺は今まで誰かに傍にいてほしいと思った事はない」
紫龍の話し出した言葉に、一瞬意味がわからず未来は紫龍から少し離れると、紫龍の顔を覗き込む。
「自分から行動し、言葉をかけ、そして傍にいてほしいと思う女は、未来、お前が最初で最後だと思う……これじゃあ答えになってねえな」
紫龍の言葉に未来は目を見開き驚いていた。またいつものように冷たく淡々とした言葉が返ってくると思っていた。だが、それに反して予想外の言葉が返ってきたのだから。
「……今まで人を拒絶して人を傍に置く事に臆病になっていた紫龍が、そう言ってくれた……納得は出来ないし、したくない、だけど、だけど、紫龍の気持ちを尊重する。わかったよ。紫龍の言う通りにする」
紫龍の言葉の裏側に隠された真意を悟ったのか、未来はそう言って、弱々しく微笑んだ。
紫龍は何も言わず、持っていた煙草を机の上の灰皿に押し付け消すと、未来に触れる事すらなく、未来の横を通り過ぎ、ドアへと向かって行く。
未来は通り過ぎて行く紫龍の方を向くと、手を力の限り握り締め後姿を見つめた。紫龍の後姿は淋しげで重い悲しみを背負っているように見えた。
「紫龍、何をしようとしているの」
未来はその背中に何かを感じ、言葉を投げかける。すると紫龍は一瞬足を止めた。
「八月一日、空けとけよ」
紫龍はただそう言い、振り向きもせずに部屋を出て行ってしまう。
ドアの閉まる音が悲しげに部屋に響き渡った。
未来の耳にドアの閉まる音が突き刺さり、心の中には胸騒ぎのような嫌な風が吹き込んでくるのを感じていた。
「八月一日まで後少し……」
未来の唇から微かな言葉が漏れ出すと、一筋の涙が頬を濡らす。
気持ちと気持ちの歯車が噛みあっても、お互いの環境や立場が邪魔をする。
確かに存在するのは、お互いに交わした言葉だけ。
紫龍が言った言葉は、未来の心に深く刻まれたのだった。




