閑話-6
一方、レオナードの罪は威力業務妨害罪および意匠盗用の罪で比較的軽いものであった。そのため彼は純然たる囚人としてではなく、賠償金を返済するまでのあいだ労役奉仕者としての位置づけで務めることになった。
所属は神殿局。そこに集う者の内訳は、罪人が三割、貧民が五割、そして志願者が二割であった。ちなみに彼が所属するチームの班長は、高所作業を好む変わり者の神官マークだった。
レオナードたちの担当は、巨大な女神像の清掃である。これらの女神像は王都をはじめ、各領地の街や神殿にも数多く建てられており、一年を通じてどこかの像を磨いていなければ、清潔さを保てないほどの数にのぼる。
そして、女神の像にはいくつもの種類がある――叡智の女神、豊穣の女神、美の女神、慈愛の女神……悟りの女神など。それぞれが異なる姿と象徴を持ち、王都をはじめ、各地の街や神殿に建てられていた。
神殿局の清掃班は、それらの像を巡り歩き、ひとつずつ磨き清めていく。まるで“女神を巡る旅”のような仕事なのだ。
渡される清掃道具は、魔導洗浄ブラシ一本だけ。柄の内部に魔力管が通っており、魔石を消費して水流を生み出す仕組みになっている。ブラシの根元の小さな穴からは、適量の水が流れ出て、埃や苔を自然に洗い流してくれる。見た目こそ簡素だが、なかなかの優れものなのだ。
その説明を受けたとき、レオナードは思った。
(なんて簡単な仕事なんだ!)
だが、実際に女神像の前に立った瞬間、その考えは吹き飛んだ。神殿の屋根よりも高くそびえ立つ女神像。その掌には、人が数人並んで立てるほどの広さがある。見上げるだけで、膝が震えた。
朝、神殿局の指令を受け、清掃班は女神像の内部へと入る。中は螺旋階段になっていて、胸部や腕のあたりには小さな窓が設けられていた。
そこから外へ身を乗り出し、清掃を行う仕組みになっている。女神像の頭部には頑丈なフックがあり、そこに命綱を結びつける。命綱の先は滑車式で、レオナード達はそれに体を預け、女神像の外壁に沿ってゆっくりと降りていく。
片手で魔導洗浄ブラシを握り、もう片方で体を支えながらの作業だ。やること自体は単純――ただブラシで石肌を擦り洗うだけ。しかし問題は、その高さだ。下を少しでも見れば目がくらみ、足が震える。風が吹けば体ごと揺れ、命綱が軋む音が耳に響く。
最初の二、三日は、恐怖で全身が固まり、女神像を洗い清めるどころか、息さえまともにできなかった。失禁するほどの恐ろしさに、何度も挫けそうになる。
「まあ、最初はそんなものでしょう。そのうち慣れますからね」
にこにこと声をかけてきたのは、班長のマーク神官だった。
五日目あたりになると、ようやくブラシを少しだけ動かせるようになった。それでも、下を見ないように気をつける。風に揺れるたびに、命綱が軋む音がして心臓が跳ねた。すっかり高所に慣れる、というのは想像以上に時間がかかるものらしい。
暑い日には、汗が止まらなかった。額から流れ落ちる汗は目に入り、ブラシを握る手のひらが滑る。喉はすぐに渇くが、水を飲みすぎるとトイレに行きたくなってしまう。そのたびに地上まで降りなければならないから、自然と水分も控えるようになった。
じりじりと焼けつくような日差しの下、石肌を磨く作業は思っていたよりもずっときつい。顔を上げれば、太陽がまぶしすぎて目を開けていられない。
(この仕事は楽どころか、かなりの苦行だぞ。 やはり罰として従事させられるだけのことはある)
寒い日には、息を吐くたびに白い霧が広がった。吹きすさぶ風が顔を刺すように冷たく、頬の皮膚がきゅっと引き締まる。指先の感覚はすぐに鈍り、ブラシを握る手が思うように動かない。それでも作業を止めるわけにはいかない。ブラシから出た水が石肌を伝い、やがて薄い氷の膜となって光を反射する。その冷たいきらめきが、まるで女神様が涙を流しているようにも見えた。
「風が強い時は、逆らわずに身を預けるんです」
マーク神官が、いつもの調子で笑いながら言った。
「風は神の息吹ですから。抵抗すると怪我をしますよ」
レオナードは言葉も返せず、ただ唇をかたく結んだ。風の中で命綱が軋み、体がふわりと浮く。
ほんの少しでもバランスを崩せば命綱があるとはいえ、真っ逆さまに地面に叩きつけられそうで、喉から心臓が飛び出そうな恐怖が走る。
(僕はこんな作業を、一体いつまで続けなければならないんだろう? なぜこんなことになってしまったんだろう?…… どうすればよかったんだろう?)
夜になると、彼はいつもその問いを胸の中で繰り返した。
だが 明確な答えは出ない。
翌朝になればまた女神像を磨き、夜になれば疲れ果てて眠る。
それを繰り返すうちに、季節はいくつも巡った。
下を見ても、もう足がすくむことはなくなった。
風向きを読むコツも覚え、命綱の結び目を確かめる手つきにも迷いがない。
季節は穏やかになり、暑くも寒くもない、ちょうどいい頃合いになっていた。
その頃には、少しずつ自分を見つめ直す余裕も出てくる。
思い返せば、すべての始まりは自分の愚かさと、人を見る目のなさだった。
そこに弱さとずるさが混ざって、気づけばこんな場所にいる。かつての自分を思い出しては自己嫌悪に陥った。しかし、今更悔やんでも過去は変わらない。ただ、ひたすら女神像を磨いているうちに、胸の奥で何かが静まっていくのを感じた。
爽やかな風が頬を撫で、女神像の石肌を照らす陽光が柔らかい。下には神殿の庭園が広がり、広い参道を行き交う人々が小さく見える。季節の花が風に揺れ、鐘楼の音が遠くで鳴った。
高所にいるというのに、恐ろしさよりもむしろ心地よい解放感があった。空気は澄みきり、どこまでも見渡せる。この高さから見下ろす世界は、まるで女神の視座のように静かで、穏やかだった。
「どうです? 慣れてくるとなかなかいいもんでしょう?」
マーク神官が、命綱を調整しながら笑う。
「こうして汚れや苔を落としていくと、自分の罪まで少しずつ浄化されていくように感じませんか? この世で一番高い場所から街を見下ろし、最高の景色の中で女神様をきれいにして差し上げる。素晴らしい仕事でしょう?」
今までのレオナードは無言で、頷くことすらできなかった。
だがその日は、ふと口が動いた。
「……確かに、そう……悪くない仕事かもしれませんね」
一陣の風が吹き抜け、悟りの女神の瞳にはめ込まれたサファイアが、陽光を受けて静かにきらめいた。




