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馬車の揺れがやがて弱まり、速度が落ちていく。もうすぐ侯爵邸に着くのだとわかると、胸の奥がギュッと縮まった。侯爵様が重ねていた手が、そっと私の手の上から離れていく。そのぬくもりを失った瞬間、心の支えをひとつ外されたようで、思わず指先がこわばった。
馬車が静かに停止した。鼓動の音だけが、自分の中でやけに大きく響いていた。
「……降りようか」
侯爵様は先に馬車を降りると、振り返り、いつものように私へ手を差し伸べた。何度も繰り返してきた仕草なのだけれど、今夜だけはその意味がまるで違って見える。
(この手を取って、すぐに離れるのか。それとも……握ったまま、共に歩むのか)
答えはまだ見つからない。ただ差し出されたその手を見つめるばかりで、私は立ち上がることすらできずにいた。
「……自分の思うままに行動していい。私への気遣いは、いらないよ」
そう告げた声は、いつもの落ち着いた自信に満ちた響きではなく――不安を隠しきれない少年のように震えていた。 思わず顔を上げると、深い海のようなサファイアの瞳が、切なげでどこか悲しげな色を帯びて揺れている。
(侯爵様には、こんな顔は似合わない。だって、彼はいつも自信に満ちていて、朗らかで、優しくて、頼りになって……)
そこで初めて、はっきりと自覚した。
(あぁ……私、侯爵様が好きなんだ。いつだって、彼には笑っていてほしい。悲しい顔も、不安な顔もさせたくない)
私はゆっくりと侯爵様の手に自分の手を重ね、馬車から降ろしていただく。一度だけ手を離し、そして今度は自分から彼の腕にそっと手を添えて、微笑んだ。
「侯爵様、私をお部屋までエスコートしてください。……これから先も、ずっとこの腕をお借りしますね」
その瞬間、侯爵様はぴたりと動きを止めた。まるで、自分が見ているものを信じられない、とでもいうように。その沈黙はほんの数秒だったのに、なぜかとても長く感じられた。
ややあって――
「……あぁ……マリア……私を、選んでくれてありがとう。……結婚式はいつにしようか? あ、その前に婚約しなければ……早速明日、婚約指輪を――!」
たちまち朗らかな笑い声を響かせ、私を一日でも早く妻に迎えようとする侯爵様に、自然と胸の奥が温かく満たされていく。彼の深い愛を感じると同時に、頬を伝う嬉し涙はもう止められなかった。
(あぁ……この方と一緒なら、どんな未来もきっと怖くないわ)
私は侯爵様の腕に寄り添い、溢れてくる幸福を噛みしめながら、お屋敷へと歩を進めた。
――今夜、私はひとりではなくなった。
これからは、隣にいるサンテリオ侯爵様とともに、同じ未来を見つめていく。
たとえこの先に困難な出来事があったとしても、きっと私たちは、笑顔で乗り越えていけるだろう!
完
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最後までお読みくださり、本当にありがとうございました!
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本編はこれにて完結となりますが、閑話としていくつかお届けする予定です。ソフィアやその両親の“ざまぁ”をチラリと描いていく予定ですので、もし興味があれば引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




