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私はもう他人です!  作者: 青空一夏


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 窓から差し込むオレンジ色の光が、アトリエの空気をやわらかく染めていく。夕焼けに染まった空は、今日という一日が終わりに近づいていることを静かに告げていた。

 私はいまだサンテリオ侯爵家に身を寄せており、行き帰りは侯爵様とご一緒させていただいている。そろそろ、いつものように侯爵様が扉を軽く叩き、「続きは明日にしなさい」と声をかけてくださる頃だろう。そう思って、デザイン画を描く際に愛用しているペンを置き、わずかな期待とともに待っていたのに、いくら経っても足音は聞こえてこなかった。


 胸の奥が、わずかにざわめく。仕事が終われば必ず迎えに来てくださる方なのに、今日はなぜ来ないのかしら? そんな疑問を抱えたまま、私は痺れを切らしてアトリエを出た。5階にある執務室の扉をノックすると、「入れ」と低く抑えた声が返ってきた。中へ入ると、侯爵様は執務机に向かってはいるものの、思考の深みに沈んでいるように見える。

「侯爵様。……いつもの帰宅時間を過ぎていますが?」

「ああ、もうそんな時刻か……では、一緒に帰ろうか」

 返ってきた声は普段よりわずかに硬く、そっけない気がした。侯爵様は帰り支度を整えながら、ふと私のほうへ視線を向ける。

「……そういえば、アリューゼ卿と新しくできたレストランに行ったそうだな。楽しめたか?」

「え? あ……はい。とても楽しかったです。アリューゼ卿は誠実で、とても優しい方でした。お役に立てることが光栄で……嬉しく思っています。あの方に似合う素敵な燕尾服が仕上がるよう、頑張ります」

 感想を口にした後で、私はそっと侯爵様の表情を確かめるように見上げた。すると、いつもの穏やかな表情とは異なる、深く沈んだ影が宿っていることに気づき、思わず息を呑んだ。

「そうか……マリアが幸せなら、それで良しとしよう。……ただ、私にも最後の悪あがきくらいはさせてほしい」

「……悪あがき、ですか? 一体どういう意味でしょう?」

  問い返しても、侯爵様は苦笑いを浮かべるだけで、それ以上は語らなかった。


 その沈黙が少しだけ重たく感じられたまま、私たちは並んで廊下を歩き、屋敷へ戻る馬車へと乗り込んだ。しばらくサンテリオ侯爵邸へ向けて馬車が揺れ続けたのち、ふいに侯爵様が口を開く。

「……単刀直入に言う。私はマリアを、ひとりの女性として愛している。かなり前から自覚していた想いだ。ただ、立場上、君に無理強いはしたくなかった。私は君の上司であり、このサンテリオ侯爵領の領主でもある。だからこそ、愛の言葉を直接告げるのは避け、それとなく気づいてくれることを願っていたのだが……このままでは、いつまで経っても平行線だ」


(……嘘よ、これは夢に違いない。こんなにも麗しく、地位も財もあり、望めばいくらでも女性が寄ってくる方が……よりにもよって、私を愛してくださるはずがない)

 思考が追いつかず、私は呆然としたまま言葉を失ってしまった。

「……マリア。聞こえていたかい? もう一度言ったほうがいいかな?」

 静かに促された声が、現実へと心を引き戻す。

「あ……はい。もちろん聞こえていました。……えぇっと……あの、今……私を愛しているとおっしゃったんですよね? ですが、私は平民ですし、学園すら出ておりません。侯爵様には、家柄も教養も備えた貴族のご令嬢の方がふさわしいのでは……」

 私の不安を受け止めるように、侯爵様はそっと私の手に自身の手を重ねられた。

「私は他の女性を選ぶことなどできない。望むのはマリア、君だけだ。身分差などは心配しなくていい。方法などいくらでもあるし、君が築いた信用と功績を前にして、異を唱える者などいないはずだ」

(……もし、私が貴族の生まれであったなら……迷うことなく、この方の妻になりたいと、すぐにでも答えられるのに)

「……馬車を降りるとき、私はいつものように君に手を差し出すだろう。今までの君は馬車を降りたらすぐに私から離れていた。しかし、私の気持ちを受け入れて、この先一緒に人生を歩もうと思ってくれるのならば、今日はそのまま屋敷に入るまで手を重ねていてほしい」


  闇へと溶けていく車窓の景色を眺めながら、私は胸の奥で静かに考えていた。

(たとえ縁が切れたとはいっても、私には罪を犯し労役場に送られた身内がいるという事実――これはなかったことにはできない。そんな私が本当にこの方の隣に立っていいのかしら?)

「……は、はい。 承知しました……ところで 1つお聞きしたいことがあります。 私の家族は罪人となって労役場送りになっています。 もし私を妻に迎えるとなれば、そのことで侯爵様が侮られたり、蔑まれることはないのでしょうか?」

 私は視線を落とし、胸の奥の不安をそっと言葉に変える。

「もちろん 世の中にはさまざまな人間がいるから、絶対にないとは言い切れない。 だが、そもそもそんなことを気にするようなら、私は君にこうして 愛の告白はしないさ。君の過去ごと、私は自分の誇りとして受け入れる覚悟を持ってここにいるんだよ。……それでもまだ不安かい?」


 嬉しさと、答えを出すことへのためらいが、静かに胸の中でせめぎ合っていた。今はまだ、どちらにも寄れなくて……私の手に重ねられた侯爵様の手をぼんやりと見つめていた。

 


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