26 サンテリオ侯爵視点
※サンテリオ侯爵視点
マリアを屋敷へ連れ帰ったのは、ほとんど条件反射のようなものだった。あのとき、彼女の体から力が抜けていくのを腕の中で感じた瞬間、理性よりも先に身体が動いていた。気を失う寸前の彼女を抱き上げ、馬車へと運び込み、何度も名を呼びながら脈を確かめた。
膝の上に抱き上げた彼女の体温が伝わってくる。かすかに震える指先が私の首に回され、そのまま身を寄せてきた。
「絶対にマリアを離さないよ」
マリアが微かにうなずいた気がした。やっと私の思いが届いたと、喜びに胸を震わせた。
サンテリオ侯爵邸に運び込むと、侍医をすぐに呼ぶ。
「少し熱があるようですね。数日は安静にしておいた方がいいでしょう。特に深刻な病気ということではなさそうです。 おそらく日頃の疲れが溜まったというところでしょうか」
そう告げられたとき、ほっと安堵の、ため息を漏らした。
私は自室の隣で本来なら当主夫人である部屋を、マリアのために整えさせ、そっとベッドに横たえる。彼女の額に濡れた布を当てながら、しばらくその穏やかな寝顔を眺めていた。
彼女が目を覚ましたのは、翌朝の柔らかな光がカーテンの隙間から差し込む頃だった。
「……ここは?」
ベッドの上でゆっくりと身体を起こした彼女が、椅子に腰かけている私を見つけ、小さく息をのむ。頬にはまだ熱の名残があり、ほんのりと赤みが差していた。
「おはよう、目を覚ましたかい? ここは私の屋敷だよ。倒れた君を放っておけなかったんだ。私は隣の部屋で休んだが、マリアが心配で少し前からこうして見守っていた」
そう言ってから、廊下で控えているメイドに声をかける。
「温かいスープを持ってきてくれ」
やがて、温かなスープが銀のトレイにのせられて運ばれてきた。
「少しでいい、口にしてくれ。栄養をとらねば、また倒れてしまうぞ」
マリアはおずおずとスプーンを受け取ろうとしたが、私は首を横に振り、自らスプーンを手に取って彼女の唇の前へ差し出した。
「わ、私、自分で食べられます。これ以上、ご迷惑は――」
「何を言っているんだい? 昨夜、気持ちを確かめ合っただろう?」
その言葉に、マリアは心底不思議そうな顔で、小さく首を傾げた。
(まさか……熱のせいで、自分から私に抱きついてきたことも、私の告白も覚えていないのか?)
「とにかく、口を“あーん”して。さあ、飲んでごらん」
マリアは素直に口を開き、スプーンを受け入れる。ひと口、ふた口と飲み下したあと、ふわりと笑みを浮かべて小さくつぶやいた。
「……おいしい」
(……可愛いなぁ。ずっとこうして見ていたいよ……)
「今日と明日くらいは、仕事を休んでここでゆっくりするといい。いくら人気デザイナーでも、このところ休みなしで働いていたじゃないか」
彼女は小さく首を振った。
「ご迷惑をおかけしてばかりです……私のせいで……両親があんな騒ぎを起こして、サンテリオ服飾工房にまでご迷惑を……」
その瞳に宿る罪悪感の影が、どうしようもなく切なかった。
(迷惑? 愛おしい君になら、どんな迷惑だってかけられていいんだよ……私にとってはご褒美さ)
私の立場で真正面から告白すれば、マリアだって断りづらいだろう。なにしろ私はこの土地の領主であり、彼女の雇い主でもあるのだから。自分の権威を笠に着て、女性の心を縛るような真似はしたくなかった。
だからこそ、はっきりと言葉にはせず、雰囲気で伝わればと願っていた。もしその想いを感じ取った彼女が、同じ気持ちを抱いてくれているなら――きっと自分から私のもとへ来てくれるはずだと。
だが、現実は思うようには運ばない。
想いを言葉にすれば、上司としての信頼さえ壊してしまいそうで。代わりに、私は彼女の髪を指先でそっと撫でた。
「気にするな。仕事の調整は私がする。マリアはなにも心配しなくていい」
マリアはかすかにうなずき、私は「もう少し休んでいなさい」とそっと肩を支えて横にさせた。
ブラウンの艶やかな髪が枕の上に広がり、ふと目が合う。彼女の瞳は穏やかな灰色――だが、光の角度によっては青にも緑にも見える、不思議な深みを帯びていた。
本人は気づいていないが、その顔立ちは実に整っている。派手さはないものの、しっとりとした上品な美しさがある。そして何より、彼女のひたむきさと芯の強さ――それが何よりも心を惹きつけた。彼女のこれまでの生い立ち、そして元婚約者とのことを知れば知るほど、守ってやりたいという気持ちが胸の奥からこみ上げてくる。
マリアの呼吸が落ち着くのを確認してから、私は静かに立ち上がった。
彼女の穏やかな日常を守るのは、今や私の務めだ!
まずはサンテリオ服飾工房で、あいつらを取り押さえた騎士たちを呼びつけ、彼らの現在の居場所を探るよう命じる。幸い、顔をはっきり覚えている騎士がいてくれて良かった。同時に、留置所に入れてあったレオナードという男を解放し、尾行させる手はずも整えさせる。
(マリアの努力を踏みにじり、名誉を汚した罪――サンテリオ服飾工房のエントランスホールで金をせびるような恥知らずな行為は重い。恐喝や窃盗まで加わるなら、もはや情けをかける余地はない。彼女が望まないなら、今は手を出さないが、次はない。やらかすようなら、その瞬間に私が裁きを下す!)
※ちょこっとソフィア視点
お姉ちゃんが化粧室に立った隙に、私は鞄の中を急いで確かめた。中には、高そうな財布と、ドレスのデッサン画が5枚。
財布を開けると、4金貨しか入っていない。
「たったこれだけ?」
思わず口の端がゆがむ。サンテリオ領のトップデザイナーなら、20金貨くらい入っててもいいじゃない!……意外としみったれだわ。
でも、財布よりも気になるのはこのデッサン画だ。上質な羊皮紙に、とても繊細な線でドレスが描かれていた。流れるようなシルエット、飾りすぎない上品な装飾――間違いなく、お姉ちゃんのデザインだ。
しかも、こんなに大事そうに持ち歩いているなんて、きっとまだ発表前の新作に違いない。私のこういう勘は、いつだって外れたことがない。
唇の端が自然と上がる。
(ふふ……思わぬ収穫ね……)
デッサン画と財布を鞄に戻すと、父さんと母さんに小声で言った。
「まだ料理はちょっと残ってるけど、今のうちに出ようよ。お姉ちゃんが戻ってきても、きっと1銅貨だってくれないわ。鞄の中に4金貨入ってたし、いいものも見つけちゃったから、もう十分。鞄ごといただいて、さっさと帰ろう」
「そ、そうなの?」「まあ……確かに……」
両親は顔を見合わせ、慌てて立ち上がった。私たちは、まるで追われるようにして、あのカフェレストランを後にした。
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1銅貨=百円
1銀貨=千円
1金貨=1万円




