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その声に、胸の奥に張り詰めていたものがふっと緩んだ。
「妹たちに鞄を取られてしまって……お財布もそこに入れていたので、お金が払えなくて……」
私はこれまでのことを話しながらも、情けなくて思わず涙がこぼれた。
警戒はしていたつもりだった。だから魔導録音機は化粧室まで持って行ったのに。まさか、鞄が盗まれるなんて。
けれど、よく考えれば、あの人たちはお金を欲しがっていた。私の財布が目に入った瞬間、理性よりも欲が勝ってしまったのかもしれない。それがどんなに愚かで恥ずかしいことでも、切羽詰まった人間には、きっと犯罪の線引きなんて見えなくなるのかも。
でも、今の私は、それにすぐ気づけなくなっていた。日々の仕事で十分な報酬を得て、豊かに余裕を持って暮らせるようになったからこそ――
人がそこまで追い詰められてしまう心理を、想像することができにくくなっていたのだ。
「お金のことなら気に病むな。私がここの会計を払うから。それより、財布にはどれくらい入っていた? 鞄の中には他に何があったんだ?」
「財布の中には4金貨ほど入っていました。他には、最近仕立てて納品したばかりのドレスのデザイン画が5枚ほどです。どれも新作として高い評価を受けたもので、次の依頼にも繋がる大切な資料だったのですが」
「すでに発表済みのデザインだったら、なにも気にすることはないさ。向こうがあのデザインを勝手に使えるものなら、使ってみるがいい。こちらはサンテリオ侯爵家の威信をかけて対応する。法律的にも、商標的にも、道義的にも、あいつらに勝ち目はないさ。私の持てる力のすべてを持って潰してやる……それにしてもあいつらは絶対に許せないな」
(ああ、またサンテリオ侯爵様に迷惑をかけてしまったわ。怒っていらっしゃる……困ったわ。私が油断したことも、きっと呆れていらっしゃるわね……)
「すみません。あの人たちをもっと警戒するべきでした。まだ食事の途中でしたし、まさかこのようなレストランで人目もあるのに、鞄まで奪われるとは思わなくて……でも、魔導録音機に恐喝された音声は残せました」
私はポーチからペン型魔導録音機を取り出した。再生ボタンを押すと、両親やマリアの声が鮮明に聞こえてきた。
「でかしたぞ、マリア! それは立派な証拠になる。恐喝と窃盗が揃えば、鞭打ちと強制労働の刑にできるぞ。今すぐ拘束してもいい……早速騎士たちに……」
「む、鞭打ち?……あ、あの、お待ちください。とりあえず様子を見ましょう。このまま私の人生からいなくなってくれるなら、金貨4枚ぐらいの被害は気にしません。本当にもう……関わりたくないんです……あの人たちと……」
私には前世の日本人としての記憶がある。だから、どれほど嫌いでも、誰かを鞭で打たせるようなことには抵抗がある。あの人たちを痛めつけて満足したいわけではない。ただもう放っておいてほしいだけなのだ。
「そうなんだね。では、ひとまず様子をみようか……それにしても、マリア。顔色があまりよくない。あんなことがあった直後だ、心が疲弊しているんだな」
公爵様は私が座っていたテーブルをちらりと見やった。
「もしかして、このシチューだけだったのかい? まだ全然残っているじゃないか。こんなもんじゃ食べた気がしないだろう? ――私もこれから夕食だから、一緒に屋敷に来るといい。まずは温かいものでも食べて、少し休みなさい。こんなことがあった後では、一人であのマンションに帰すわけにはいかないよ。カエリンが隣にいるとはいえ、鞄まで盗む連中だ。これからもっとひどいことを仕掛けてくるかもしれないだろう?」
「え? お屋敷にですか? そんな 迷惑はかけられません。それに着替えもないですし、今の私はこのポーチしか持ってないんですよ」
「だったら一緒に屋敷に戻って、信頼できる侍女にマリアの荷物をまとめさせて持ってこさせよう。とにかくそれほど真っ青な顔で、今にも倒れそうな君を一人にさせておけるはずがないだろう?」
そう言われてみると、ちょっと頭がぼうっとしてきて、足もとがふらつくのを感じた。ここしばらくは、新作の仕立てや納品が続いていて、緊張の抜けない日々だった。それに、いきなり家族や元婚約者が現れて、職場で騒ぎを起こしたり、恐喝まがいのことまでされて……鞄まで盗まれた。
気を張りつめたまま乗り切ってきたけれど、今になって一気に疲れが押し寄せてきた。緊張がゆるみ、全身の力がすっと抜けていく。
視界がぐらりと揺れた。
床が近づいてくる――そう思った瞬間、サンテリオ侯爵様の腕が私を受け止め、しっかりと胸に抱き寄せた。
あたたかくて、硬い胸板の感触。すぐ耳元で、低い声が私の名を呼ぶ。
「マリア、マリア……! ……大丈夫かい?」
体が持ち上げられて……気づけば私は、サンテリオ侯爵様の腕の中にいた。
(……お姫様抱っこ、嘘でしょう?)
けれど抗う気力もなく、再び頬が彼の胸に触れた。心臓の音が静かに響いて、それが私の鼓動と重なった気がした。
外の夜気が肌を撫でる。誰かがざわめく声がして、次の瞬間、視界の端に魔導馬車の灯りが揺れた。サンテリオ侯爵様は私を抱えたまま乗り込み、扉が閉じられる音が聞こえた。
私の身体がサンテリオ侯爵様の膝の上に乗せられているのが分かる。その手が私の頬をそっと撫でて、軽く揺すられる。
「しっかりしろ、マリア。……少し熱っぽいな……ショックなことが重なりすぎたか……私が守るから、安心しろ」
その声に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。恥ずかしさと嬉しさで頬が勝手に熱くなっていく……まぶたが重くて、車窓から見える景色が霞んだ。
(だめ……恥ずかしいのに、離れたくない……)
私は思わずサンテリオ侯爵様の首にしっかりと両腕を巻き付けていた。
(彼は私を従業員として守りたいと言ってくれてるだけなのに……)
サンテリオ侯爵様がぞくりとするような色っぽい声で「絶対にマリアを離さないよ」 とささやく声が聞こえた気がした。 そして、そのまま、私の意識の輪郭はゆるやかに溶けていった。
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※4金貨=4万円




