第二百九十七話 Side南雲 一年 白蓮
無数の本棚に囲まれた空間。難しい本から漫画からアダルト本までいろいろあるようだ。その蔵書は奥に無限に続くように見えた。そして畳が敷かれて丸く簡素な座卓には、俺のために用意してくれたのだろうか。
緑茶と和菓子のイチゴ大福、座布団が敷いてある。玄関で靴を脱ぐようになっていて、脱ぐと童女に手招きされて、俺は部屋の中に入った。
「急に接触されて驚いたぜ」
白蓮という存在がいた。大八洲国の神にして、真性六柱の一角。月城様よりもう2つ格上。最低でもレベル2000以上。ルルティエラなどという化け物から逃げ続けているということから考えるとレベル3000でもおかしくない存在。
俺たちはレベル1000以降、急激にレベルアップにブレーキがかかった。おそらくここからは何百年とかけてレベルアップしていくしかないというのが英傑の共通認識だ。だから目の前の童女は俺たちから見てもはるか先。
白蓮は噂では大八洲国に現れた時すでにルビー級だったとも言われる化け物。追いつくとしたらこれからまだ千年以上。考えただけでも気が遠くなる。
「うむ。すまんのじゃ。お主以外適任が見当たらなかったのじゃ」
それでも逃げ続けて生きてきたせいなのか、目の前の神様は翠聖様のような神様然とした存在ではなかった。ずいぶんと物腰が柔らかい。それなのに感じられるプレッシャーは、俺でも肌がヒリついた。
「適任ね。聞きたかったんだがよ。伊万里とあんたは接触したのか?」
月城様はその瞳で伊万里の心を読んだ。しかし隠されて見えなかったそうだ。ルビー級最上位であり大八洲国の最高位貴族月城迦具夜。地球と大八洲では世界としての格が違う。そして英傑といえどもまだ100歳すら超えていない。
だから俺たちは半神になっても、大八洲国の最高位貴族には敬意を示す。その相手に伊万里は心を見せない。その意味するところはありえない結論しかなかった。
「どうにも伊万里嬢ちゃんにうまく逃げられてしまったのじゃ。どうあっても教えたいことがあったのじゃが、逃げてしまうとは予想外じゃった」
「伊万里はあんたから自発的に逃げたのか? 誰かに操られて逃げたって可能性はないか?」
伊万里の異常なレベル。どう考えても外部から何らかの手を加えられているように見えた。
「勇者を操れるものなどおらん。ましてや真勇者になったのならなおのこと操れん。自分の意志でわしと接触するのを嫌がったのじゃろう」
「どうしてだ?」
勇者の称号を持つ唯一の神様。伊万里は自分が勇者であることを悩んでいたというのに、勇者として遥かに経験豊富な神様と話すことを嫌がる。それどころか他の仲間がドワーフ島に到着するのを邪魔した。榊小春は俺にそう報告していた。
『美鈴は絶対言わないだろうから私が言っておきます。間違いなくあれはなんか隠してる。あの子は蛟竜という化け物と戦って、そのまま行方不明になった。千代女様が必死になって探して、1日経って見つけてきたけど、私たちと合流できないほど苦労していたようには見えなかった。白蓮という神様がドワーフ島にいるのは1日だけ。その1日が経ったから合流してきたように私には見えた』
そう口にしていた。千代女は、
『友禅ちゃん、私が見つけた時あの子は傷一つなかった。1日中蛟竜と戦っていたというけど、特に疲れた様子すらなかった。正直私も小春ちゃんの考えが正しいような気がします。ただ、祐太さんのパーティーメンバーへの"拷問"は迦具夜さんに禁止されてできません。普通に聞いても知らぬ存ぜぬだし、あなたがどうにかしなさい』
『どうにかしろって……』
しゃべらず【心眼】でも心を読ませないような相手、俺でもどうにもならん。そもそも諜報活動が得意な千代女がわからないことが俺にわかるか。かといえ、祐太にもしものことがあった場合『伊万里のことをお願いします』と言われている。
ダチから頼まれていることだ。どうにかできないかと、それも悩みの種だった。ルビーエリアにいるというから顔を見にも行った。しかしニコニコ喋ってくるだけで特に異常だと思うことはなかったのだ。
『南雲さん。お久しぶりです。マンションを奢ってくれて以来ですね』
『伊万里。お前、祐太のことどうして話そうとしないんだ?』
『ちゃんとあのお金返さなきゃいけませんよね。今待ち合わせがないんですけど、今度地球に帰ったら必ず返しますね』
ただひとつ。祐太の話だけは聞こえていないようだった。
「直接見ることができなかったのじゃから、断言はできんのじゃが、おそらくは自分の考えを邪魔されたくないのじゃろう。そしてわしは伊万里嬢ちゃんのように、地上では自由に動けん。だから話しておこうと思ったのじゃ」
童女の姿で年寄りがしゃべっているとしか思えないしわがれた声を出す。
「俺でいいのかよ?」
「中途半端なものに話すとまた余計に面倒なことが起こる。六条の坊やがいればよかったのじゃが、未来に飛んだことはわかるのじゃが、どうにもどこにいるのか見えん。見えんのでは、こっちに呼び出すこともできんのじゃ」
「それも聞いて何気に驚いてたんだけどよ。時間ってのはそんなに簡単に行ったり来たりできるものなのか?」
「できるものにはできる。できんものにはできん」
「あんたはできるのか?」
個人が勝手に行ったり来たりしまくって、それで時間というものは大丈夫なのか?
「できるが苦手なのじゃ。そもそも時間というものは、過去も未来も同じ場所に全て存在しておるのじゃ」
「は?」
「ゲームで考えればわかるかのう。ゲームの中にはゲームの未来も過去も全て存在しておる。それをプレイヤーが選択する内容によって未来が変わる。世界の中でも同じこと。全てはすでに存在しておるが、人や動物が何を選択するかによって未来は変わるのじゃ」
「この世は複雑なだけでシュミレーションゲームってことか?」
「そうなるのう。未来移動とはつまるところ、今のこの地点から10年後という位置にゲームキャラを移し替えるようなもの」
「じゃあ未来はもうすでに決まってるのか?」
もしそうなら無駄に終わることは全て教えておいてほしいものである。
「それがそうでもない。ゲームに例えてばかりで悪いのじゃが、今を生きてるこの状況、それはあまねく生物の数えきれない選択の中に生まれる結果。今の結果はまだ出ておらんじゃろう? さっき出た答えは今ではないじゃろう? それは魂というランダム性に支配され、ゆえに未来は決まらず結果は変わる」
「未来は存在しているが存在していないようなものってことか」
「そうじゃ。だから今という時が大事になる。未来はまだ決まらず六条坊やは、9年後の未来に曖昧なまま存在しておるはずなのじゃ」
なるほど。だから誰かが過去に行くと全て消さなければいけなくなるということか。もしくはもう一つ世界を用意する。逆に未来であれば移動したものは確定するまでその存在を確立できない。思っていた以上にそれは複雑だと感じた。
「さすが何でも見通す存在と言われるだけあるな」
「何でも見通せたら良かったのじゃ。できんからこんなことになっておる。2ヶ月ほど前、あのナディアというものが悪神に堕ちた時もヒヤリとした」
「見てたのか?」
「何もできんが見てたのじゃ。お前さんが死ぬ可能性が結構高かったからのう。わしの【未来予知】では9割9分お前さんは死ぬ予定じゃった。しかし直前で"何かが変わった"。その結果として、お前さんが死なんでほっとしたのじゃ」
「どうだかな。ナディアにはなんか悪いことをした気がする。それに俺が死ねば戦争は終わってた」
「この世に生きて悪い人などおらぬのじゃ。周りから『死ね』と言われたからといえ、自分が死なねばならぬなどと思わぬことじゃ」
俺は思わぬ言葉に目をまたたく。探索者になってからも、なる前も、親からも誰からも『お前が死ねばいいのに』とよく言われてきた。
「ここに来たということは話を聞いてくれるか南雲の坊や」
なぜかその言葉がババアを思い出させた。
「はあ」
「ふむ。お婆ちゃんが死んだことは悲しいことじゃったの」
白蓮は【心眼】がなくても心を読めると聞いていた。どうやら俺でも読まれてしまうようだ。不思議と別に嫌な感じはしなかった。本当に悲しむように白蓮は俺を見てきた。
『南雲の坊っちゃん。今日もいっちょこのババアと探索に行くかね』
『おう。婆ちゃん行くぜ!』
この童女を見るとしわくちゃな顔をしていた頃のババアを思い出してしまう。数ヶ月前のこと、俺の時間はババアによって止められていた。そして時間が動き出した時。田中からババアが死んだと聞いた。
教えたのが田中じゃなかったら殺していたかもしれない。いや、田中ですら頭が吹っ飛ぶぐらい思いっきり殴り倒してしまった。
『田中に何をする!? お前殺すぞ!!』
鈴がブチギレて危うく内輪で本気で争いかけた。しかし殴った相手の田中が許してくれたから争わずに済んだ。
『鈴さん。僕が悪いんです。南雲君。いくらでも殴りなさい。君にはその権利がある』
でもそれ以上殴れなかった。それ以上に心が悲しさで支配されていた。ちょっと俺が寝坊して起きたらいないとかありかよ。心からそう思った。返しきれないぐらい恩ばっかり残しやがって。あの時を思い出すと今でも感情が高ぶる。
目頭が熱くなる。思わず気持ちが溢れそうになり頭を振った。そして心をできるだけ平常に戻してまともに返事をした。
「あのことはもう俺の中で整理した。それより、あんたが白蓮でいいんだな?」
「うむ。そうじゃ。でも、その前にみかんを剥いてあげるのじゃ」
どうにも子供扱いするのはやめてほしかった。ババアを思い出して泣けてくる。泣かせようとしてるんじゃないだろうな。
「泣きたければ泣けばよかろう。こう見えてわしは大体1000歳じゃ。というより恩人が死んで一度も泣かんという方が問題じゃ」
「泣く以上に暴れたから、何とも言えねえよ。なあ婆さん。うちのババアはやっぱりもう死んでるんだよな?」
なにしろこっちが心配するのがバカバカしくなるぐらいタフなババアだった。ダンジョンの中で死んだと思って生きてたことなど何度あることか。だからどうしても本当に死んだと思えなかった。
「残念じゃが死んだのう。人としては長生きじゃったが、神としては若輩だった。あそこまでの力を使う器はまだなかった。それでもあの力を使った。それほど、あの者は、お主に生きててほしいと願った。だから自分が死んだ。卯都木の嬢ちゃんはお主を本当に自分の子供のように思ってたようじゃ」
「そうか……。それなのに俺は無駄に死にかけたんだな」
「自分を思ってくれていた相手が死んで坊やは悲しくて仕方なかったのじゃろう。行いは良くないが、12英傑は誰も彼もが所詮はまだ人の領域を出れんのじゃ。たくさん死んだのは悲しいなれど、力を持つ神の最初にはよくあること。まだお主は踏みとどまってよう頑張っておる」
その言葉が奇妙なほど心に沁みた。
「婆さん。俺は自分でも信じられないぐらい人も殺した。だから、きっと、たくさんの人間から俺は死んでくれと思われてるだろうよ。それでも生きてていいと思うか?」
「良いも悪いもない。生きてるのだからしっかり生きてあがくことじゃ。そして死ぬなら自分に満足して死ぬことじゃ。卯都木文子は少なくともそう望んでおった」
「……」
「坊や。この世の行いに良いか悪いかなどというのは小さきことじゃ。この世ではこんなことが起こる前からあまりにもたくさんの人が死にそして生まれてきた。死ぬというのは自然の一つにすぎぬ。坊やはあの日戦い疲れて日本に帰ってきて、人を殺して褒められた。おそらく日本が勝てばこのまま褒められて終わりじゃろう。そして敵も人を殺しておる。どちらが正しいのかのう。どれほど議論しても結論は出るまいよ」
「そんなものか?」
「人はのう。自分の正しさに従い生き、勝手に満足して死ぬのじゃ。正義などというものは汚なきものに無理やり綺麗なものを塗りたくった言葉遊びじゃ。人がそれ以上であったことなどわしは見たことがない。坊やのババアはそういう意味で一番大事なお前さんを守れて満足して死んどるのじゃ」
「……満足して死んだのか。俺が一番大事だから」
「そうじゃ。お前さんが一番大事だったようじゃ」
「それなら、俺は生きなきゃいけねえか」
俺の両目から涙がこぼれてくる。
ああ、やっぱりババアは死んだんだな。
なぜかそう思った。
そうすると涙が止まらなくなった。
『坊っちゃん。生きることに正しいも正しくないもないよ。ただ一生懸命に生きて、自分に満足して死ぬのさ。このババアはそうやって生きてきたよ』
「最初にババアと出会った。あの時も俺はダンジョンの中で死にかけてた。俺はあの時それでいいと思っていたんだ。それなのにあのババア、勝手に助けやがって、おまけに勝手に死にやがる。本当にふざけたババアだ」
白蓮は俺の気持ちが治まるのを待ってくれた。
「——すまんな婆さん」
かけていたサングラスが曇って拭いた。気持ちが治まるとみかんを剥いてくれたので口にした。うまいみかんだなと思った。
「気にするでない。わしなどこの年になってもまだ人が死ぬのは悲しいと思うのじゃ。若いお主では無理のないことじゃ。さて、少しこちらの話も聞いてくれるかの?」
「ああ、頼む。俺も白蓮様の話が聞きたい」
この婆さんかなり格上だ。さすがに呼び方ぐらいは礼儀をつくそうと思った。
「婆さんと呼んでくれていいのじゃ。さっき呼ばれた時なかなかいいなと思ったのじゃ」
「そうか……じゃあ婆さん」
「うむ。ここに呼び寄せた件じゃがの。もう分かっておるかもしれんが六条祐太と東堂伊万里のことについて話しておきたいのじゃ。誰に伝えるべきか色々考えたのじゃが、お前さんが一番いいと思ったのじゃ」
婆さんがまたみかんを剥いてくる。これで3個目だった。まだ2個目を食べてない。俺が食べ続ける限りこの婆さんずっとみかんを剥いてる気がした。そういえばババアもそうだった。婆さんというのは全く困ったやつらである。





