第二百七十五話 ニザヴェッリル
「ここがニザヴェッリルに降りる道か」
「ええ、根と言うより陸が地面の中に入り込んでいく感じね」
狐魅に乗ったままニザヴェッリルへと降りる根が生えている場所まで来ていた。それは地面全体が45度ほどの急勾配で、地中へと入り込んでいく。そんな表現をするしかないような壮大な規模の入り口と呼べるものだった。
今の感覚器官だからわかるが、根と言ってもユグドラシルの根は太さが100㎞ほどあるのだ。それが45度の急斜面で地中へと入っていく光景は、大陸が傾いたような印象を受けた。そしてはるか前方には同じく根による壁がある。
海面よりも低い場所のようだが、同じくユグドラシルの根がカーテンのようになっていて海水の侵入をほぼ完全に塞いでいるようだ。それでいてユグドラシルの根によって海水が濾過され、瀑布となって地中に落ちていく。
地球にある三大瀑布、ナイアガラやイグアスの滝のように、真水が下の世界に落ちていってる。それはどこまでも深く深く続いているために、途中で雨のようになっている。
「観光目的で来てたらきっとすごいと思うんだろうな」
「そうね。やっぱり国によって自然の景色は違うものなのね。大八洲国には見られない景色だわ」
迦具夜もその壮大なスケールに目が輝いていた。俺はまだ迦具夜を抱きしめたままだ。こうしていると本当に自分の大事な彼女のようだった。美しい横顔。俺の視線に気づいて横を向いてくる。
「どうしたの? そろそろ弁財天と交代しましょうか?」
「いや、このままでいい。狐魅、頼む」
「了解です」
狐魅は主でもない俺の言うことでもよく聞いてくれた。とても賢い子である。たまに撫でると気持ちよさそうにしていた。狐魅はモフモフで気持ちよかった。こんなにモフモフで防御は大丈夫なのだろうかと思える。
ただ女の体と同じだ。女性の柔らかさは防御力と何の関係もない。今抱きしめている迦具夜の体でもどれだけ柔らかくても、戦いとなれば俺よりはるかに防御力がある。そのものがもつエネルギー量が全てを決定している。
「こういう感覚が幸せというのでしょうね」
「もっと幸せにしてやりたいと思ってる」
「ありがとう。これ以上幸せだともったいないぐらいね」
急勾配の斜面を降りていく。千代女様は余計なトラブルを避けるために、俺の肩を掴んだままでいてくれる。弁財天も同様に千代女様をつかんでいて、千代女様はパーティー全ての気配を自然の一部へと変化させた。
先ほどのように真性の神がそばにいるわけでもないから、多少は気配が漏れている。そしてそうしてくれないと俺は狐魅に乗っている感覚すらもしなくなって、自分の体の位置も把握できない。
だから少しだけ【超自然】の精度が落ちている。そのことが多少心配だった。
「翠聖様の森とはまた違った生き物が結構いるな」
周囲を見渡すと豊かな植生があった。そしてモンスターというか動物も多種多様だ。
「こういうのの中には祐太ちゃんよりずっと隠れるのが上手なのもいるんですよ」
「へえ、お姉ちゃんよりは?」
「それは滅多にいません。私ぐらい隠れるのが上手なのは、神を除けば国に1人いればいい方です。モンスターにはいないぐらいじゃないかな」
千代女様が自信を持って胸を張る。ならば安心だ。
「ヴォオオオオオオオオオオオオ」
大きくて堅そうな鱗を持つトカゲが、大気が震えるほどの声で鳴く。島が動いているように見えるトカゲだった。地面を踏みしめると揺れた。なんという名前だろうと思っていたら、迦具夜が「ギガキレラ」だと教えてくれる。
「あの猿みたいな大きいのはマウントウンター。顔のほとんどが口みたいな不細工なのはビッグマウス。あそこにいるのが本物のティラノサウルスよ」
「本物なのか?」
「ええ、ユグドラシルの貴族に恐竜好きの変わったのがいて、DNAから全部復活させたんだって。ほら祐太ちゃんあっちにアルゼンチノサウルスがいるわよ」
狒々に似ているがあまりにも筋肉質で大きいマウントウンター。顔のほとんどが口で目が小さいビッグマウス。頭でっかちでよくあれで歩けるなと思った。そして本物のティラノサウルス。
かなり離れた場所に恐竜時代最大の生物アルゼンチノサウルスが長い首を伸ばして木の葉っぱを食べていた。そういえば植生もジュラ紀みたいで、まさにジュラシックパークである。この国の貴族はなかなかいい趣味をしている。
科学を発展させてないのにやれることは大八洲国と大差ないようだ。そしてそのジェラシックパークにはもっとでかいモンスターがわんさか。アルゼンチノサウルスがむしろ小さくて、巨大なトカゲ、ギガキレラに捕食される姿も見えた。
地球で見かけるうさぎや犬や猫。それらも最低でも人間サイズで、昆虫型の巨大生物もいた。これらの動物は積極的には人間を狙ってこないらしいが、気まぐれには襲ってくる。ゆえにミズガルズの死亡原因の8%であるらしい。
「まあそりゃあんなのに普通の人間が襲われたら、たまったもんじゃないよな」
俺だと苦戦するほど素早く動く動物もいるという。迦具夜は先ほどの街でかなり情報を仕入れてるようだ。動物の相手をしていてはきりがない。そして戦ったところでほとんどレベルアップは見込めない。
さっさとこっそりユグドラシルの根を降りていく。できればカインと遭遇したくないから、気配が出ないようにスピードは抑え気味だ。それでも狐魅が1時間ほど走れば、簡単に100㎞ぐらいは根の下へと潜れた。
「祐太ちゃん、ほら上を見て」
「何かあるのか?」
本当にデートみたいだと思いつつ彼女の言葉に従って上を見た。それは不思議な光景で、空が蓋をしているようだ。巨大な根が入り組んで空を塞いでいる。それでも光がなくなるということがない。
「太陽がないのに光ってる」
「ユグドラシル自体が光っているのね」
「こんな人のいない場所でも照らしてるんだ」
「そうね。ルルティエラ様は暗いのが嫌いだそうよ。だから【どんな場所でも光が届くように】と神様に命令されてるみたい」
「光が届くようにか……」
機械神がほぼ全てのシステムを担うが、女神による口出しもある。では人のルルティエラは何をしているのだろう。
「ユグドラシルにも翠聖様みたいな神様がいるのか?」
翠聖樹よりもまだ巨大な木を見て、その疑問が湧いた。
「ええ、巨大樹と一体になった神はどの国にも必ずいるわよ」
これは弁財天が教えてくれた。
「祐太君、こういう木の神様はブロンズエリアの国に必要な存在なの。何しろ巨大樹は国内の大陸全てにエネルギーを循環させるために、国中に根を張るの。それによって国々はエネルギーを枯渇させずに満たされた状態で生き続けることができる。なくなれば国のエネルギーの巡りが急に悪くなる。だから巨大樹は地球にもあるでしょ?」
「地球にはそんなの——」
そう言いかけて言葉を止めた。思い当たるものがあったのだ。
「【万年樹の木森】だって……最初聞いた時、その万年樹はどこにあるんだって思ったけど、日本のどこかにあるって噂だけは聞いたことある。そこから木森は無限にポーションを創り続けてるって」
ふと思った。木森がどこかに生やしたという万年樹。どこにあるのか日本人の誰も知らないけれど、どこかに必ず生えていて、そこからポーションは供給されている。その話は有名だった。
「万年樹は、翠聖樹やユグドラシルみたいな超巨大樹に育つ前の幼体ね」
「だとするとそれってまずくないのか?」
「何が?」
「だって女神の神殿にエルフさんの像がなかった。だからエルフさんは死んだんだろ。万年樹と一体になった神が死んだらどうなるんだ?」
「祐太ちゃんのところでその役目の神が死んだのなら、誰かが必ず代わりを務めなきゃいけない。巨大樹がない状態をあまり長く放置すると良くないわ。特にダンジョンが現れた世界では万年樹がないとすぐに世界からエネルギーが枯れちゃう。あれはルルティエラ様がお創りになった異界からのエネルギーの循環システムだから、ないと、異界のエネルギーのプラスマイナスのバランスが崩れて瘴気をまとう悪魔が現れるきっかけにもなってくるもの」
瘴気をまとう悪魔。シルバーエリアで見かけたあいつかと思い至る。
「じゃあエルフさんって絶対に殺したらダメな存在じゃないのか?」
「普通はダメね。まあ12英傑も思い切ったものよね。殺すとしたら万年樹が育ちきっていない今しかなかったのでしょうけど、代わりは見つかってるのかしら」
「代わり……」
それを俺が知っているわけもなかった。ただ翠聖様のことが思い出された。本来ならエルフさんもそうなるはずの人だったんだろう。
「代わりって誰ならなれるんだ?」
「祐太君。エルフさんの最初の転生がエルフだったのなら、レベル1000を超えた時の転生はエルダーエルフだと思うわ。エルフもだけどエルダーエルフは森の管理や木を守ることにとても向いているの。これが翠聖様なら召喚士。翠聖様の白虎、青龍、朱雀、玄武。翠聖樹を常に守っている四神と呼ばれる召喚獣。翠聖様の召喚獣としてとても有名よ」
「翠聖様って召喚士なの?」
「そうよ。召喚士なら何でもいい訳ではないけど、比較的穏やかな性格を持っている召喚獣がいると、木の守役としてとてもうまく機能してくれると言われてるわね」
ふと頭に浮かんだのはカインとエヴィーだ。だが、カインの召喚獣を全て知っているわけではないが、どちらかといえば攻撃的で破壊的な召喚獣が多いように思う。そう考えるとエヴィーの方がそれに近い。
とはいえエヴィーのレベルはまだシルバー級も超えていないと思う。そう考えると他にも召喚士がいるのか。ブロンズエリアに比べれば狭いとはいえ地球も十分広い。俺の知らない召喚士がいて当然だ。
「お姉ちゃん。エルフさんが死んだんだよね?」
「はい。残念ですがそうです」
「じゃあ戦争は終わると思う?」
このことは千代女様に聞く方がよくわかっていると思った。元々は四英傑を減らせというのが八英傑側の要求で、それはもう達成されたはずである。
「終わらないでしょうね。まず間違いなく友禅ちゃんは卯都木さんの死んだことに納得しません。怒り狂うことがほぼ100%確実です。誰か一人は英傑を殺さないと気が済まないでしょう。そしてその力を彼は持ってますしね。さらに言うと八英傑側としても、自分以外の英傑の誰かが死んでもらうのは大いに歓迎でしょう。枠が開くことになるので、そこに自分たちの国の探索者をねじ込めれば、これからの世界の運行権をかなり強く行使できるようになる」
「……人間はどこまで行っても人間だな」
「全くですね」
エルフさんという大事な人が死んだ。戦争目標は達成できたはずだが、達成できたが故に戦争が激化する。もともと日本は南雲さんが死ぬことですら納得してなかった。それがもっと重要な人物を殺された。
これで手打ちにしたら日本は世界の笑い者。どうあっても誰か1人は八英傑側にも死んでもらわなきゃいけない。そして今回の件が成功すれば南雲さんたちは八英傑側と同等の戦力になるという。
もはや戦争をやめる理由を見つける方が難しい。
「狐魅。どれぐらい降りた?」
「いっぱいです」
「いっぱいって……」
どのくらいだよ。
「ふふ、狐魅は結構大雑把だから聞いても無駄よ。500㎞ぐらいは降りたと思うわ。ミズガルズからそれほど高低差はないって話だから、もうすぐニザヴェッリルに着くんじゃないかしら」
迦具夜が答えてくれた。
「500㎞は十分な高低差だと思うな」
エベレストで10㎞もない。大陸の厚みでも平均値は50㎞ほどで500キロも下れば上部マントルを突き抜ける。相変わらずブロンズエリアの規模感は大きい。思いながらも狐魅がかけていく。ここまでモンスターとの戦闘はなかった。
そもそも千代女様の【超自然】は神ですら見つけるのが困難だという。野良で居るようなモンスターが察知できるようなものではなかった。そんなことを思っていたら富士山かなというようなでかい金色の馬がいる。
「でかー派手ー」
狐魅が言う。
不意にその巨体がこちらを見てきた。
「むう。スキルのレベルを落としているとはいえ見られるのは悔しいですね」
「ふふ、きっと、ユグドラシルの木の守役の召喚獣でしょうね。レベル2000を多分超えてるわ。大丈夫よ。ああいうのは人間よりも賢いぐらいだから、急に襲ってきたりとかはしないわ」
「へえー」
ひょっとすると意外と楽に終わる? そんな考えが起きた。あんな神様よりも強そうな馬は例外として、悪神が支配する領域といえど、千代女様に気配を消してもらっている俺たちを察知できる存在がいるだろうか。
「見えてきましたよ」
最初に口にしたのは1番目が良い千代女様で、この距離だから丸いと見える球体が確認できた。今の認識能力なら感じられた。あれは地球と同じぐらいの大きさがある。球体の周りにユグドラシルの根が絡みついている。
その姿はまさに大昔の人間が世界の形を想像していたそのものが再現されているようだ。意外とブロンズエリアのユグドラシルを見た誰かが、大昔に世界を描いていたのだろうか。超巨大樹に覆われた世界はそんなことを思わせた。
「上にある球体がニザヴェッリル、下にある球体がヘルヘイムのようですね。下から私たちよりも大きな力を持つものが、存在していることが感じられます」
「下にも同じ球体があるんだ」
「そのようですね。今のところ敵対する意志は感じられません」
「お姉ちゃん、ニザヴェッリルの入り口はどこかな?」
「どこでもいいのだと思いますよ。根の隙間から入ればいいと思います」
「隙間?」
「祐太ちゃん。よく見て。あれは球体じゃないですよ。ユグドラシルがそういう風にニザヴェッリルを覆っているだけで、周りには特に球体のフィールドはないようです」
大きすぎて分かりにくいが、ユグドラシルの根が平面の大地を球体として包んでいるのだ。その包んでいるユグドラシルの根に降り立つと、確かにその隙間からニザヴェッリルの大地が見える。
それは平面の大地で、昔のヨーロッパで信じられていた球体ではない世界の形をしていた。それでいて周りからユグドラシルの根がニザヴェッリルの大陸につながり陸地を固定し、水やエネルギーを供給しているようだ。
狐魅が根の隙間から地上へと降りていく。それと同時にこちらに向かってくる気配を感じた。誰か上空に飛んできている。まだ3000㎞ほど離れてる。すごい勢いで近づいてきて、1000kmほどまで近づいてくると見えた。
頭に二本の角が生えた女だ。
「お姉ちゃん、あの女に俺たちは気づかれてるんじゃないの?」
「ううん、見つかってるんでしょうか? まあこっちに向かってきているのは間違いないようです。正直相手の気配からして格下っぽいですし、見つからない自信があったんですけどね」
千代女様が方向を変えると、相手も少し遅れて方向を変えた。すぐに方向を変えないところをみると、その姿の察知の仕方はアフロディーテと似ている気がする。
「こちらを完全に見つけてるわけではなさそうだね」
「世界がいつもと違う状態であるかどうかを感知する【未来予知】の派生した能力があるわ。【異物検知】という能力なのだけど、それを使ってるのかもしれないわね」
迦具夜が口にした。
「その能力なら知ってます。だとすると完全な位置の把握はできないので、やり過ごすことは可能ですね」
「向こうに戦う気があるみたい?」
「難しいところです。戦う意思があるようには見えませんが、ミズガルズで迦具夜さんが情報収集した通り、ニザヴェッリルから帰ってきたものがいないのなら穏やかには考えない方がいいかもしれません」
「それは言えてる」
とにかく一定の距離を保つことだけは忘れずに移動した。地上まであと500㎞ほどのところまで迫った時、二本の角を持った女の人が声を発してきた。
「ユウタ・ロクジョウはいらっしゃいますか?」





