第百八十六話 Side玲香 実験
私が先輩に紹介された博士の研究所を訪ねたのは、今から半年ほど前のことだった。当時ちょうどレベル200に至る実験についての募集が、締め切られた時だ。私はその募集にギリギリで間に合い、命をかけた実験に参加することになった。
だが、それから博士は1週間ほど実験を始めずにいた。このまま中止されるのではないかとすら思ったが、最終的に実験の開始が告知され、私は博士から内々に呼び出され、
「少々変わり種の君と全員がステータスを持っていた自衛隊員と警察官100名。そのうち1人しか生き残らない。つまりほぼ100%死ぬ。しかし生き残る1人はレベル200に至る。この条件で、僕は誰を生き残らせるのかずっと悩んでいた。精神的にタフなものにするべきか。それとも多少はダンジョンから好かれていると思われる君にするべきか」
「私ですか?」
「そうだ。君のステータスを見せてもらった。その結果、今回の実験で君を生き残らせることにした」
そう教えられたのだ。博士が口にするのを聞いて、私は歓喜した。博士の言葉に私だけが選ばれたんだと思い喜んだ。選ばれたのは私の実力だ。研究者で最後まで棄権せずに残ったのは私だけだったらしい。
死ぬリスクがあっても最後まで残ったのは私だけだったんだ。他の人はみんな心が弱かった。私だけが……。
「全員棄権したんですね」
今回の研究に参加することをかなりの人が望んでいた。何しろこれからの時代レベルが上がらなければ話にならない。だが研究者は戦いには向かないものが多い。そういった者たちを救済する意味でも、博士の研究は注目された。
連日高名な研究者からの問い合わせが相次ぎ、かなり資金を拠出した日本からも、そういった人達からまずレベルアップを行ってほしい。という要請があった。知能が上がったものは、情報処理能力が桁違いに上がる。
判断力までは変わらないと言っても、一瞬で考えられる物事の密度が探索者と一般人では違いすぎるのだ。実際に博士を見れば分かる。どうすればこの短期間にこんなとてつもなく巨大な研究施設を築き上げることができたのか。
常人である国の役人たちは不思議で仕方がなかっただろう。今なら私もその理由は分かる。ブロンズエリアの中にあるという国の技術を流用しているのだ。今でもその国に憧れたままの私。博士のことが余計すごく見えた。
「そうだね。全員先ほど棄権を伝えてきた」
「愚かなことですね。これからの時代に置いていかれると分かりきっているのに」
まあそれでもここでレベル20にはしてもらえるらしい。今回の話をもらえた時点で、レベル20に至る資格があると優先的に選ばれた人たちだ。それでも研究者にはレベル2にもなれない人も居たようだが、ご愁傷様としか言いようがない。
「そう思うかい?」
博士はつまらなそうに私の顔を見ていた。この人はよく私にこんな顔をする。私など大したことがないというように。でも私も命がけでここに立っている。これほどリスクがある研究に、実験台として参加している。
「何か?」
「いや、別に……ただ、何か面白いことが起きてくれないかね。正直、毎日つまらなくてね」
「鬱憤がたまっておられるなら、私の体でよければ使っていただいて構いませんが」
そういうことに対する忌避感はなかった。何も知らない少女ではないし、これほど賢い男ならいいと思った。トップモデルの妹を持つだけあり、顔にもスタイルにも自信があったから、男はいつも振る側の人間だ。
「必要ないよ。そういうことではないのだ。ただ求めているものが現れない。この方法では無理なのか。最近毎日そればかり考えている。まあ君には僕の心は分からないね」
当時から博士は私と最小限しか喋らない。そして頻繁に『出かけてくる』と言っていなくなってしまう。ゴブリンを見つけに行ったのだ。世界で一番注目されてる研究者の一人だというのに、それでもまた今日もゴブリン。
「理解できないわね」
天才というものには奇行が多いという。だからその一種なのだと思っていた。でもそれからしばらくして、私は博士が何を言っていたのか理解した。
「——どうして美鈴が! なぜですか!」
私は気が動転して米崎に突っかかっていった。米崎が『ついに見つけた』と話していた人物が、私の妹の男だった。そしてそこに妹も居たのだ。私のこの行動の最後の引き金を引いた張本人。あのままの私だと美鈴に負ける。
そう思ったからここに来たのだ。私はこの時初めて自分の心に気づいた。そしてそんな醜い嫉妬心に気づかせたことも許せなかった。
「なぜとは何が?」
「よりによって妹の男を選ぶなんて、私に対する侮辱ですか!?」
「君の脳みそは幸せだね。開いて中を覗いてみたいよ」
博士がまたつまらなそうに私を見てくる。私を選んだのはあなたじゃないか。どうしてそんな顔をするの。その日からそう思い、眠れなくなることが多くなった。
「——私以外は警察官と自衛隊員ばかりですか」
「そうだよ。彼らの魂は君の才能に集約される」
「素晴らしいですね」
これで私は特別になれる。
「ふん、きっとダンジョンから見れば笑ってしまうほどのつまらない技術だけどね。再現できるのはこの程度までなのかと思うと嫌気がさす。自分の才能のなさに落胆するばかりだ」
「嫌味にしか聞こえませんが」
「こういうことを生業にする人間でレベル100を超えるものは珍しいからね。まあ君も超えれば僕の言葉の意味が分かるさ」
博士の話から推察して、私はブロンズエリアにどうやら国があるようだと確信した。早くそこに行きたかったが、実験の開始はなかなか通達されず、私はいつになったら始まるのかと待ちわびていた。
「——ついにやるのですか?」
結局それから1ヶ月の時が経った。
「ああ、千代女様のおかげで高レベルの人たちに建設をいくつか手伝ってもらうことができた。さすがに出来が違う。君。行うのは明日だ。護衛はつけるから安全だとは思うけど、余計な場所に出歩いたりしないようにね。一応死なれると困る」
だけど私は、その日の夜どうしても眠れなかった。自分がついに特別になる。そのことに興奮していた。
『おばさん。こんなこともできなかったんだ。そっか』
ある日、突然私の上司になった年下の女の子。ダンジョンで戦うことが得意だったというだけの女の子。日本語なんて喋れなかったはずなのに、わざわざ私のために覚えてくれたらしい。でも、それも覚えるのが“簡単”だったから。
他にも主要な言語を10ヶ国語覚えていた。私は3ヶ国語で、10ヶ国はとても無理だった。覚える言葉を増やすほどに頭の中でいろんな言葉が入り混じりだす。発音の癖だって全て違うのだから、そんなに簡単に覚えられるものじゃない。
だけど女の子は簡単に覚えて、P-5という国連職員ランクにいきなりなってしまった。各地で探索者が暴れだし、どこでも戦闘能力と知能が高く、良識のある探索者が重宝された。
そういう意味でも頭がよく、そして何よりも私たちに感謝していて、暴力的ではなかった彼女は、私よりもはるかに上だと言われた。
「私ももう少しで……」
レベルを得る。
その夢が叶う。日本に天才がいて、人工レベルアップが行われると知り、私は芽依とともに帰ってきて、美鈴の現状を知った。知った後も、研究所に行ったまま帰ってこない私に、芽依が本当に嬉しそうに教えてくれた。
【あの子。マジですごいわ。ひょっとすると高レベルになるかも。家族に高レベルの人がいると、その家族もレベルが上がりやすいらしいわ。私も美鈴に相談して、もう1回挑戦してみようかな。玲姉も一緒に行こうよ】
『多少はダンジョンから好かれていると思われる』
博士の言葉が頭をよぎる。私がダンジョンに好かれているのは、美鈴のおこぼれ? そんな考えが沸き起こった。悔しいと思わない芽依はどうかしている。ずっと下にいた美鈴が、自分たちよりも上に行く。
そのことを楽しそうに話せる。そんなプライドでよくアメリカでトップモデルなんてやってきたものである。美鈴が高レベルなんかになったら、私がレベル200になっても、すごいと言えなくなる。
美鈴がダンジョンの中で死んでくれたらいいのに……、そんな考えがこの頃はしょっちゅう頭をよぎっていた。夜も眠れなくて、理不尽な怒りも湧いてきて、私はベッドで横になることもできなかった。
そのピークだったのが翌日実験が行われるという夜だ。
どうしても、あの夜、部屋に閉じこもっているのが嫌で、部屋の外に出た。
今でも後悔する。
そんなことを気にせずに、ただ言われるがままに人工レベルアップを受ければよかった。
この時、外の空気を吸おうなどと思わなければ、私は博士の言葉通り脳みそが幸せなままだった。
博士の約束通り、護衛が二人、扉の前についてくれていた。
「お出かけですか?」
「ええ」
「申し訳ありませんが、大事な実験が控えていると聞いています。我々もあなたの安全のためについていくことになります」
「むしろ、お願いするわ」
99人の中でもしも私が生き残ると知っている人がいたら、必ず襲いかかられる。急に襲われて反応できるほどレベルは上がっていない。私はレベル3である。段階的に10人ほどが犠牲になり、私という選ばれた人間がレベルアップしていく。
レベル30も超えれば、もう安全だろうが、今はまだ“凡人”たちの助けが必要だ。
「「……」」
護衛の自衛隊員はまだ若く二人とも20代前半で、私とそこまで年齢が変わるようには見えなかった。ずっと自衛隊という閉ざされた世界にいて外を知らないのだろう。2人とも顔には少年っぽさが残っていた。
2人は特に話すこともなくついてくる。
護衛だからと、あまり離れない。自分自身が偉くなったのだ。レベル200になればもっと特別な扱いになる。選ばれた人間として生きていくことで何一つ不自由もなくなり、病気や怪我の心配もない。それが努力もせずに手に入る。
私には幸福な日々が待っている。あともう少しだった。
「あなた達故郷は近いの?」
気分転換に話しかけた。
「はい。自分は茨城です」
「自分は北海道です」
「そうなんだ。自衛隊は長いの?」
「3年ほどになります」
「4年目であります」
ダンジョンができた後に入ってきた人たち。今の時代の護衛である。当然レベルはあるのだろう。これからしようとする自分のレベルアップの方法に、引け目を自分でも気づかない部分で感じていたのだ。だから余計に多弁になった。
「その前は2人とも学生さん?」
「いえ、情けない話ではありますが、親の言葉を無視して大学にも行かず探索者をしておりました」
「俺もです。まあ俺の場合、高校中退ですけどね。それにこいつと同じく情けない話です」
話がそっちに向いてしまった。軌道修正するのも面倒だった。
「情けないとは?」
「……レベルが50まで行ったところで限界が来ました。どうしてもそれ以上はレベルが上がらなかったのです」
「おい、今更嘘つくなよ」
片方の言葉を、もう片方がそう言った。
「嘘?」
「いえ、はは……モンスターがとても強く感じ……その……」
「怖くなった」
「そうであります。不甲斐ない自分を叩き直したくなり自衛隊に志願しました。ですがここでも自分は……」
自分とは少し違う。銃器を使ってレベルアップをすると、そもそもステータスが壊滅的になってしまう。怖いとか怖くない以前にそもそも戦えるレベルではなくなってしまうのだ。ステータスがあって戦えるものとは違う。
なるほど二人とも怖がって逃げ出した落ちこぼれというわけか。納得の情けなさだ。生きてることが恥ずかしくないのだろうか。
「余計なことを話しました。これから大変なお役目のある方に聞かせることではありませんでした」
「もっと気の利いたことを話せる自分でないことが残念です」
「気にしなくていいわよ」
あなたたちのような凡人には興味がないから。そのはずだ。だがその2人はなぜか気になった。ずっと人に勝って生きてきた。負けて生きていく人生など想像したこともなかった。再び勝てると思ったら今度は妹に負けることに怯えてる。
「私は結構碌でもないから」
だからそんな言葉が出た。2人を軽蔑するほど自分も立派なものではなかったから。
「そうね。お国のために働く。あなたたちの方が立派なのかもね」
「いえ、あなたはとても立派です。あの……」
「何かしら?」
優しく言葉を返す。
「この国をよろしくお願いします。自分はこんなことしかできませんが、応援しております!」
「自分もです。どうか強く……強くなってください。応援しております!」
「あ、ええ……」
私はその子達が眩しく見えた。純粋に生きられなくなった。勝ってばかりいたから負けるのが怖くて、こんなところで、こんなことまでしている。99人死んでも自分だけが強ければ嬉しかった。
未だ会ったこともない99人など知ったことではなかった。
毒気が抜かれた私は、その日の夜よく眠れた。あの二人のおかげだと思い。無事に第1次のレベルアップ実験が終わり、夜になって、今日もあの二人が護衛しているかと思い外に出た。
残念ながらその日の護衛は別の人たちで、私は昨日の2人のことを尋ねた。
そして私はあの二人が第1次実験の参加者だったことを知った。
私は翌日、博士の部屋に乗り込んだ。
「どういうことですか!」
開口一番に叫んだ。勢いのまま言わないと、この人に怒鳴り声を上げるなんて私にはできない。私はこの人が怖いのだ。
「おや、怒ってる?」
「そりゃ怒るわ! 私だって人間よ! 私だけが生き残ることをなんとも思わないわけじゃない! どうしてあの二人を護衛に立たせたの!」
「志願したからだよ。『君たちが生き残らず、桐山玲香君が生き残る』と話したら、君のことを知っておきたいと言われてね。ほとんどの人間がそう望んだんだが、くじ引きで彼ら2人に決まった」
「……まさか全員に事実を話したの?」
「そりゃそうだよ。君の中に魂を取り込むわけだよ。後で知れば君のクリスタルは安定しなくなる。それならちゃんと事前に話して、納得できたものだけを採用する。常識じゃないか」
「そういう話をしてるんじゃない!」
「知ってる。君は、他の99人に隠し通してと考えてたんだろ?」
「当たり前でしょ。1%の望みもないなんて、言えば納得するわけないもの」
「確かに研究者は全員そうだったね。でも自衛隊員と警察官は結構な人がそれでもいいと言ったよ」
「今の時代に神風特攻隊じゃないのよ」
「君は今の自衛隊と警察に対して、以前の常識を適用しようとしている。ダンジョンが現れる前のね。今の彼らはね。探索者なんて急に力を手に入れて、常識はずれの惨事を生み出す連中の相手をずっとしてきてるんだよ」
「だから何?」
「落ちこぼれることだけに悩んでいる君たちとは覚悟が違うんだよ。君は彼らを凡人と侮っていただろう? でも僕は彼らの覚悟にそれなりの敬意を抱いているよ」
そう言われるとたじろいだ。そんな覚悟ができる人間などいるわけない。別に今の人間は洗脳されてるわけじゃないのだ。
「嘘ではないよ。ダンジョンでレベルを上げることができた人間。そしてレベルを上げることができず蹂躙されていくだけの自分たち。何も守れない。結局探索者に助けられている。そういうのが全部彼らは悔しいんだ。だからさ。そういう理不尽を君にはぶっ飛ばしてほしいそうだ」
「でも誰もそんなこと……」
「全員『君には言わなくていい』と言ってきたんだよ。さすがにこれから死ぬ人間の願いだ。それぐらいは僕だって守るさ。ああ、でも、今言ってしまったね。地獄で彼らに怒られそうだ」
博士には全く動揺した様子がなかった。
「……実験を中止してください」
せめてもの抵抗で口にした。
「どうして?」
「決まってる。そんな責任は私には負えないからです」
「あっそ。じゃあ2番目の候補にするということで君は死ぬ方に回るんだね」
「どうしてそうなるの!?」
「玲香君。君ね。ひょっとして本当にバカなのか?」
「何を……」
「君の体の中にすでに10人取り込んでる。いきなり全部すれば、君の体は崩壊するから段階を踏んでる。その10人をただの君の意味のないレベルアップの糧に使用したというのか?」
「で、でも、私は……」
「私は?」
その時のあの人の瞳は、これから死ぬことを知らない豚でも見ているようだった。私はあの時の感覚を忘れない。足が震えて、口が乾いて、怖い。心の底からそう思った。いつの間にか後ろに冷たい息を吐く存在がいた。
そいつが私の首に手をかけている。ゾンビの手だ。そいつが私の首に手を回し、絞めてくる。
「返事は?」
「す……すみません……このまま………つ、続けます」
私はゾンビに首を絞められながら、ただ怖くてそう口にしていた。
「よろしい。レベル50になったんだ。多少はマシになっただろう。資料の整理ぐらい手伝いなさい」
「は、はい」
私は米崎に逆らう気力を根こそぎ奪われた。あれから一度も、米崎に逆らってない。そんな米崎が、彼の話をする時だけはとても楽しそうだった。





