第百八十四話 安定
「ダンジョンに入るのが遅すぎたな」
「どうかな。僕は意外とそうでもないのだろうと思うよ。むしろ今だからこそいいのだろう」
「そうかな」
「そうさ。覚えておくといい。この世は頭で考えてもどうにもならないことが多い。特にこれほど世界中の思いが絡まり合っている場合はね。それに王だけが賢く考えているわけじゃない。4英傑も半神だ。知能は僕より遥かに高い。お互いに読み合いが始まる。きっとまだまだ動くよ。僕たちはそれまでにせめてレベル500を超える。そのための第一歩に、クリスティーナ君をどうにかしないとね」
「ああ、どうなってる?」
「見た方が早いよ。おいで」
米崎の後ろについて行った。以前人間の入った水槽がたくさん並んでいた区画があった。それは今もそのままである。中に人が入っていることも変わらない。今の世の中は常にレベルアップを望む者達で溢れている。
円筒形の水槽には今日も人が浮かんでいた。
「この人たちはレベルいくつに?」
日本人ではなかった。屈強な筋肉と金色の髪を持つもの。肌の黒いもの。刺青をしたもの。おそらく依頼されたというアメリカの軍人たちだ。さすがアメリカと言うべきか多種多様な女性や男性が、水槽の中に浮かんでいた。
「10~20かな。人によって違う。レベルが上がらない人間もいるよ」
「そんな人いるのか?」
「もちろん。元からダンジョンに入ってレベルが上げられない人は、ここでもあげられない。可能性がゼロなら出来ない。当然さ。2/3程度だがここでもレベルが上がらない。つまりほとんどの人間は、レベル2にもなれない」
「マークさんとデビットさんは?」
「マーク君とデビット君は、君が助けたから、レベルが上がると判断された。実際高いレベルになる探索者の親族は、総じてレベルが上がりやすいと言われている。そうじゃない者が幸運に巡り合うことは珍しい。ほとんどの人間は不運なままだ」
「残酷だな」
ダンジョンができて、上に行けるか行けないか。昔以上にはっきり出るようになった。例外になるジャンルはない。高いレベルの人たちによって科学もどんどん進歩していき、従来の人間ではとてもついていけなくなっている。
何もかものスピードが加速し、大八洲を知った人たちにより、翌日には全く違う発明がされていたり、今までの常識を覆すことがどんどんと表沙汰になっていく。まるで宇宙人と接触した人間みたいな状態だ。
ニュースを見た限りでは、反重力なるものも利用しようとしだしているし、転移の研究はかなり盛んだそうだ。大八洲を見てきた探索者たちは、転移ができると分かっているだけに3年以内には実現するのではないかと言われていた。
「この世界が次元に対する理解を深めれば、大八洲のような棲み分けが、だんだんと起きるだろうね。上に行けないものは絶対にいけない。そして君のように上にいるものは1000年でも2000年でも生きる。一部の優秀なものが、全ての人間を管理する。僕はできれば管理する側がいいな」
「俺もそうでありたいよ」
「君は間違いないさ」
「そんなの分からない」
「ご謙遜を」
米崎にしては珍しいものの言い方だ。こんなに冷静な男でも、キークエストを超えられることに浮かれているのか。そんなことを言いながらも人の浮かぶ水槽を眺めながら、その部屋の一番奥にある扉を開けた。
「……クリスティーナさん……いや、ミカエラ?」
一瞬見ただけではどちらか分からない。その部屋の中には少女が1つだけある水槽の中に浮かんでいた。他の水槽とは離れた場所。明らかに特別扱いを受けているようだった。表情が苦しそうだ。
その少女はシミひとつない真っ白な肌をしている。白人のエヴィーよりもまだ白く、不健康なほどだ。見ただけで分かる。苦しさの原因になるものがあった。瞳から血が流れていた。水の中だけど、特殊な水なのか血が溶け出さない。
重力に従い、血はゆっくりと空気中で流れるのと同じように下へと落ちていく。足元に血が溜まっていた。その瞳は閉じられたままだった。
「これは大丈夫なのか?」
胸元には玲香さんと同じクリスタルが埋め込まれていた。魂に大きさなどというものがあるのかは知らない。でもそのクリスタルの中に、ミカエラの魂は確かに入っているはずだった。
「大丈夫ではないから君を呼んだ。以前話したときから一切進んでない状態だ。胸元のクリスタルでなんとか安定しないかと埋め込んでみたが無駄だった」
「無駄?」
「実際はミカエラ君の魂が宿っているのはあの閉じたままの瞳でね。クリスティーナ君と馴染まず血が出続けている。何度かポーションを飲ませたが、一時的には治るのだけど、すぐにまた血が流れ出す。おかげで輸血が欠かせない状態だ」
輸血するための太い針が、クリスティーナさんの細い腕に刺さっていた。他にも生命維持をさせるためなのか。これが人間の姿かと思えるほどあちこちに管が繋げられていた。
「酷いな……。今から中止は?」
このままではクリスティーナさんの命まで危ないのではと思えた。
「できなくもない。ただ彼女はその場合完全に失明する。エリクサーで回復はできるだろうが、しばらく不自由な思いをするに違いない。それに君としても、次のクエストに彼女は不可欠だろう」
「クリスティーナさんが、ミカエラの能力が使えないのは、かなり困る。でも苦しそうだし」
以前のクエストにはどうしても米崎が必要だった。そして今回のクエストにはどうしてもクリスティーナが必要だった。いないとなると勝算がグッと下がる。相手を追い詰めるのにも膨大な時間が必要になってしまう。
俺は水槽に手を触れさせた。ひんやりとしている。思った以上に冷たくて驚いた。
「かなり温度は低く保っているんだ。中にいる人間の活動が、限りなくゼロに近づくように」
「そうなんだ」
「呼びかけてみてくれるかい? 君の声が届けばあるいは彼女は“譲歩”するかもしれない」
「うん……」
死んだ人間は思考ができないって言ってたじゃないか。そんなふうに思いながらも、彼女の名前を呼んだ。
「ミカエラ。俺のことが分かるか?」
クリスティーナと呼ぼうかと思ったが、今おそらく反発しているのはこちらの方なのだろうと思った。
《六条祐太君……私を殺した人》
不意に頭の中に直接声が流れてきた。
《憎いか?》
俺もクリスティーナに向かって【意思疎通】を送った。
《……好き……愛してる》
聞こえてきた声はミカエラのものだった。どうして彼女は喋れるのか。戸惑ったが、まだ深い眠りについたままのような声に感じる。まるで夢の中から声が聞こえてきているようだった。
《じゃあ、反発しないでくれ》
《だってこの子……》
《何か嫌なことがあるのか?》
《生きようとしてない》
そんな言葉が聞こえて、そこからミカエラの【意思疎通】も途絶えてしまう。クリスティーナの心。強く生きようとしていない。そう考えていると、夢の中から漏れてくるみたいに何かが頭の中に流れ込んでくる。
とても嫌なイメージだ。
《苦しい》
生きることに疲れている。
《死にたい》
もうこの世のことなど何もかも全てどうでもいいのだという思い。死人よりもまだ生きようとする力が弱い。何もかも捨ててしまいたい。
《でも、怖い》
死ぬのは怖い。自分の何もかもがなくなるのは怖い。
《帰りたい》
昔は良かった。私が純粋で少し優しい振りをしていれば、とてもみんなが大事にしてくれた。
《あのままでいたかった》
蝶よ花よと育てられたあの日々。
《もう帰らぬ日々》
いつから地獄に変わった。
《あの頃はアンナだって私を嫌いじゃなかったはず》
私を大事にしてくれる人たちはどんどん死んでいき、最後に残されたアンナは誰よりも私を恨んでいた。それがアンナの心を読んだミカエラの魂に触れたことで、余計鮮明に伝わってしまった。
《現実など見たくなかった》
ここまで嫌われていたのかと。アンナの何もかもが嘘だったのかと知ってしまって、この世に対する嫌悪感が止まらなくなった。
《欲しいならばこの体……全部あげる》
その言葉だけが強烈に伝わってきた。伝わってくる声が止んだ。クリスティーナの声が聞こえなくなり、俺は水槽に触れたまま、クリスティーナの方を見ていた。
「どうかな?」
「生きているのが嫌だと言ってる。ミカエラに全て渡してしまってもいいと」
「困った子だ。君が弱気になっては困るのだ」
「優しいことを言うんだな」
「優しい? そうではない。現実として自分の体は自分にしか使えない。他の人間を主としたところで何一つまともに動かすことなどできない。どうしたものか……。君、彼女と一日中セッ〇スして」「しない」
それはまるで動物に交尾を促すように米崎は口にした。俺はそれを遮った。
「いい案だと思うんだけどね。君もとても気持ちがいいだろうし、彼女もいろいろ満たされるだろう。要は不安なのだろう。裏切られることが……。だったら肉体的に満たせば変わるかもしれない」
米崎が呟く。
「多分それを望んでいるんじゃないと思う」
「そうか……違うのか……うん?」
その時だった。不意に、
「ごぼごぽっ!」
クリスティーナの閉じられていた瞳が開いた。なんとなくだが分かる。その瞳にはちゃんとクリスティーナの意識が宿っているのだと。クリスティーナは俺と目が合う。そして急に顔を赤くすると激しく首を振る。水槽を叩き出した。
「どうやら、君の言う通り“そっち”じゃないようだね。だが、君と接触したいようだ。いいかい?」
「あ、ああ、そのために来たんだ。構わない。というか息ができてないんじゃ」
「そりゃそうだよ。この中では普通寝てるものだからね」
「早く出してあげろよバカ!」
「酷いな。バカと言われたのは久しぶりだ」
「いいから早く!」
「はいはい。そんなすぐに死にはしないよ」
右側にモニター室があって、そこには10人ほどのスタッフがいた。米崎が手を上げると、バタバタと慌ただしくなる。クリスティーナの水槽の中にたまっていた水が抜き取られていく。
透明だが緑っぽい液体が完全に足元まで抜け落ちて、水槽のガラス部分が開いた。よたよたとクリスティーナさんが歩く。こけそうになるのを見て慌てて受け止めた。
「ごめんなさい。汚い手で触ってしまいました」
「またそういうことを言ってる」
「本当のことですから」
「……クリスティーナさん。苦しいならもうやめますか?」
「……」
玲香さんが瞳を持ち帰ってどれほどの時間が経っているか。米崎のことだからすぐに処置に取り掛かったと思う。その間ずっと今のような状態が続いていたのなら、かなり苦しかったと思う。
「いや……」
それは米崎の言葉だった。
「血が止まっている」
そう聞こえたからクリスティーナの瞳を見た。そうすると本当に血の流れが止まっていた。生気なく、青白くなっていたクリスティーナの顔に、血色が戻ってきている。それは生きる力が戻ってきているように見えた。
クリスティーナは生きることを嫌がっていたように思う。それは変わっていないはず。それが急にどうしたのだ。
「ずっと観察している限りね。ミカエラ君の魂を移植してからずっと彼女たちは、お互い本能で嫌がりあっていた。でも、それが、君を見た瞬間に一致した」
いつの間にかモニター室に入っていた。米崎は、クリスティーナの色々なバイタルを確認していた。そうするとどうもあの目を見開いた瞬間。急にバイタルが落ち着いているようだ。と、【意思疎通】で俺に教えてくれた。
《2人にとって君は精神安定剤のようだね》
《まあ無茶なことを頼んだのは俺だ。せめて精神安定剤になれたのなら、よかったけど》
人としてあっちこっちの女に手を出す男になりたくなかった。最初は3人選んだ。でも、それで十分なのだ。クリスティーナさんには申し訳ないという気持ちもあった。だからといって、現状を変えたくなかった。
「だから離してほしいのだが……」
「正直このまま落ち着かずに死なせてしまうかと思っていたよ」
モニター室でバイタルの確認が終わると、米崎はすぐに部屋の中に戻ってきた。クリスティーナさんはあられもない姿であったが、それを言い出せば隣の部屋の男も女もかなり羞恥心もへったくれもない姿である。
そんなことを今更気にする理由もなかった。ただずっと抱きつかれていて、色々思うことはある。押し返すことはしなかったが、絶対離さないという雰囲気なのには閉口した。
「脈拍もかなり弱くなってたしね。こう見えてほっとしている。どうやら危ないところは脱してくれたようだ」
「クリスティーナさん。大丈夫ですか?」
そうするとギュッと腰の辺りをさらに強く抱きしめてくる。
「こうすると落ち着きます」
「なるほど存分にそうしたまえ」
「服も着てない女の子に向かってなんてことを言うんだよ」
「……服。そういえば着てないね。誰か早く服を持ってきなさい」
そうするとモニター室の人達がバタバタと動き出して、女性の研究者らしき人が入ってきて自分の白衣を差し出してきた。
「あの、クリスティーナ。これを着て。ちょっと落ち着きましょう。その人が逃げるわけじゃないんだから」
その女性の研究者はできるだけ優しい声を出していた。それでもクリスティーナは動かない。親にしがみついたまま離さない。そんな子供のような仕草だった。
「もうクリスティーナ。そんなに強く抱きついたら、彼に嫌われちゃうわよ」
そう女性の研究者が口にした瞬間だった。ゆっくりとクリスティーナは女性の研究者を見た。そして赤い瞳が光る。次の瞬間。女性の研究者の頭が吹っ飛んだ。女性の研究者がゆっくりと床に倒れた。首から上が完全になくなっていた。
何度も見た光景がフラッシュバックする。それは間違いなくミカエラの所業であった。





