第百八十二話 池袋②
「緊張する必要はない」
一歩近づいてくる。それだけで一歩下がりたくなる。でもうまく体が動かない。どう動いたところで無駄だ。関わりたくない。逃げたい。でも、逃げても無駄だ。すぐに追いつかれる。戦うのはもっと無駄だ。
すぐ殺される。女でありながら純粋に強さを求めている。ただ誰よりも強くありたいと。勝てるわけがない。
「殺しはしない。話をしようじゃないか。お前はここに何をしにきた?」
奇妙にその言葉は甘く聞こえた。悩む。でも答えて困ることのある内容でもないと思った。それに警戒しても同じだ。何もできないのだから。
「南雲さんがどうしてるかと思って……」
子鹿のように震えた声が出た。
「お前も南雲の知り合いか。我もだ。どうして知った?」
「最初にここに来た時お世話になったから……」
「なるほど。相変わらずあの男は世話好きだな」
鋭い目が細まる。過去を懐かしんでいるのか。南雲さんがこの人のことを嫌っていることは知ってる。南雲さんと雷神様は因縁があるようだった。
「それでそれだけが用事か?」
「ええ、なんの力にもならないとは分かってたけど、あの時あの人に助けてもらったから俺はこうしてられる」
南雲さんと出会わずにダンジョンに入っていたら、きっと拳銃でビビりながらゴブリン狩りをして、レベルが上がらないことにがっくりし、そのうちお金が尽きていたんだ。
「そうか。貴様は弱かったのだな……」
その白い猫耳を生やした妖艶な女は、ありえないことに優しげな笑顔を浮かべる。
「弱いのは嫌か?」
「……嫌です」
「誰よりも強くなりたくてお前はダンジョンに入ったか?」
なぜか、言葉は甘く俺の頭の中に入ってきた。どうしてか昔、学校で100点を取って、父親に褒められた時のことを思い出した。俺はあの時、100点を取ったことよりも、父親に褒められたことが嬉しかった。
「そうです」
そう答えると感情が昂ぶるのを感じる。
「素直じゃないか」
雷神様の手がすっと頬に振れた。それだけで気持ち良かった。面白そうに俺の顔を見ている。そのまま顔が近づいてくる。舌を出して頬を舐められた。体が震えた。
「緊張しすぎだな。言っただろう。緊張する必要はないと?」
「そう言われても……困ります」
自分でも顔が紅潮しているのが分かる。胸がドキドキしている。
「別にどうしようと思ったわけでもないのだが……。お前、レベル160だと言ったな。さっきの女に言った言葉は本当か?」
「……本当です」
「それなら、お前は選ばれている。特別な存在だ。かつての我等と似ている。もうすぐブロンズは終わるな?」
認めてもらえることが嬉しくて、触れてもらえることが嬉しくて、息がかかりそうなほど近くで喋ってもらえることが嬉しくて、これほど胸が高鳴るのは初めてだった。一目惚れとはこういうことなんだろうか。
「多分」
「はっきりしろ」
「終わります」
「終わったら横浜に来い」
「えっ……」
心の底から嬉しいと思った。
「嬉しいのが顔に出てるぞ」
「そうですか……」
「来るな?」
「行ってどうするんですか?」
「決まっている。横浜をホームにして探索者をやれ」
「何故?」
思わぬ言葉に本気で聞いてしまった。おかしい。何かされてる。この感情はおかしい。自分の冷静な部分。それが何か言ってる。
「我は強くなるものを集めているんだよ。お前は強くなる。我の横に並べるほどかもしれない。そうすれば我のすべてをやろう」
このまま頷いてしまいたい。なのに何か言葉に嫌な圧迫感を感じる。この人が怖いとかそんなもの以前の奇妙にまとわりついてくるもの。
この女は危険だ。
ふと、美火丸ではない声が頭の中に響いた。これは“焔将”……。ブロンズ装備を全て揃えたことで、少し俺に干渉できるようになったか。今現在俺は焔将を着ているわけじゃない。表に見えるのは美火丸の首飾りだけだ。
でも焔将の物理護符と魔法護符はポケットに入れていた。
『万が一に備えてそれだけはつけておけ』
摩莉佳さんからそう言われていた。ブロンズ装備でも魔法護符はかなり強力な精神干渉に対向できる。俺はレベル160だ。レベル900を超える雷神様には及ぶわけもない。でも、雷神様は思わぬ形で俺を知り、軽い気持ちだったんだろう。
ミカエラと同じだ。本当に気合を入れてないから、干渉する力が弱いんだ。
【逃げろ】
頭がもう1段クリアになる。次は“美火丸”からのはっきりとした干渉だった。美鈴達がいるのに一目惚れなどするわけがない。冷静になれ。この人の言葉は力を持っている。言葉に魔力を込めているんだ。
この雷神の言葉に一旦頷いておくなんて軽い気持ちで頷いてはいけない。頭の中で強烈に警鐘が鳴り響く。
《美火丸。これはなんだ? まだ胸がドキドキする》
【悪神が使う呪言だ。契約で縛ろうとしているぞ。逃げないとまずい】
《頷いたらどうなる?》
【ことによっては"奴隷"にされる】
「どうした? 頷かないのか?」
雷神の女性的な左手の上で赤い電気が走る。それだけでバチンッ! 鼓膜が破れるかと思うほどの音がする。レジ係のお姉さんが気を失って倒れた。普通ならこれで決め手になるのだろう。でも、音でさらに頭がクリアになってくる。
ほんの戯れで声をかけただけなんだろう。俺程度ならどうとでもできると思ってるんだろう。舐められてる。実際何もできないだろう。でもここで頷いてしまったら終わりだ。雷神の言葉は契約書のように俺を縛るものか。
ここまでレベル差があると、そこまで強引なことができるのか。どうする。どうする。どうする。決まってる。俺は心の中でスキルを唱えた。
【韋駄天!】
ダンジョンショップの自動扉を吹き飛ばして、一直線に渋滞する道路を走り出した。
「ほお! 面白い! 逃げたぞ!」
何が面白いのだ。こっちは全然面白くないぞ。戯れに俺の人生計画がパーにするな。神話で神に人生を翻弄される人になった気分だ。逃げても逃げ切れるわけのない神からそれでももがいて逃げる。
雷神様は、神様に半分足を突っ込んでいる。言葉自体に契約書並の効力を持たせられるんだ。ふざけるな。こっちは必死でここまでやってきたんだぞ。ここからますます良くなりそうなのに、そこで人生を奪われてたまるか。
南雲さんが雷神様に『死ね』と言っていた気持ちが分かる。
今ものすごく俺も『死ね』と思った。
「つれないことをする。逃げるな」
「うぅ」
嬉しい。言葉をかけてくれてる。胸が高鳴る。喋るな。頭がおかしくなる。
「忌々しい! やめろ! 喋るなら普通に喋れ!」
やばい。思わず叫んでしまった。嫌われないだろうか?
「おお、そんなこと言われるのは南雲以来だ。久しぶりすぎて喜んでしまうではないか」
こっちは限界ギリギリで走ってる。周りの人が事故らないようにギリギリ気を使いながらも、時たま吹っ飛んでいる車がある。俺じゃない。雷神様か気にしていないのだ。申し訳ないとは思う。だがこの女にだけは捕まりたくない。
美火丸も焔将も警鐘を鳴らしている。全力で逃げろと。捕まったら終わりだ。それなのに簡単に真横に並ばれた。どうしよう。自分ではどう考えてもどうにもできない。となれば誰かに助けを求めて【意思疎通】を送るしかない。
南雲さんは? ダメだ。間違いなく大惨事になる。そもそも【意思疎通】に名簿登録してない。スマホで連絡したいけどそんな暇を与えてくれるとは思えない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。日本一怖い女が真横にいる。
《米崎! 米崎!》
もうやけくそだった。こんな状況はこの男でも助けられない。でもここでこの女の人に捕まるわけにはいかない。
《米崎! 米崎!》
早く返事をしろよ! 俺が連絡したら0.1秒で連絡を返せよ!
《おや、君か。どうかしたかい?》
意外と早く返事をくれた! ありがとう! そして巻き込むからごめん!
《雷神様に追われている! どうにかしてくれ!》
《……君って、言えば僕がなんでもできるって思ってない?》
冷静にそう言われた。雷神様の面白がってる顔。
「お友達への連絡はうまくいきそうか?」
そして筒抜けみたいだった。
「早く逃げるのをやめた方がいいな。我が面白がっているうちが華だ。怒るとつい殺してしまう」
《『早く止まれ殺すぞ』って言われてる!》
《そう言われてもね。どうやったらそんな人間に絡まれるんだい? むしろそっちの方が不思議だ。いや、だからこそ君だと言うべきか……》
《頼む! できるだろ!? "こっちは無理なんだ"!》
《なるほど……"そっちね"。まあ面倒だけどいいだろう。うまくいくかどうか分からないけど、なんとかしてみよう》
《え? なんか方法あるの?》
俺が目をぱちくりさせると、米崎は俺の行き当たりばったりに若干呆れた感情を送ってくる。これで少しは誤魔化せるか。
《ほお、なんとかか。できなかったら米崎とかいう男。気に食わないから殺してあげよう。だって我が久しぶりに面白がってるのに邪魔をしたんだ》
ナチュラルに【意思疎通】に介入してきて、米崎に対して言い放つ。レベルも900台にもなるとなんでもありになってくるんだな。
《雷神豊国。あなたに僕を殺せますか?》
米崎が【意思疎通】で雷神様に言う。
《心配するな。だいたいの位置は把握した。後はあの辺り一帯の生物を全て殺せばいい》
《そんなことは起こりえない》
《ほお、根拠は?》
《それはあなたが逃げるからだ……》
プツッと【意思疎通】が切れた。
「ほお、最近全員すぐに『はい』と子猫のように頷くから退屈していたところだ」
二人の速度はとっくに音速を超えている。走りながら喋るのは無理だ。でも音が直接鼓膜に届いてくる。魔力で無理やり声を届けている。その声は熱を帯びていた。何か俺と米崎に考えがあるのだと判断したようだ。
「見てみたいな……気に入る内容ならますます横浜に呼びたくなる」
「それは断っておきます」
そう俺が口にした時だった。
真横にいたはずの雷神様の妖艶な顔が、消えた。
そして、確かに聞こえたんだ。
俺の耳に、
「忍!」
って言う声が。何かが真横を通り過ぎた。そのことだけは分かった。そして見えたのだ。日本人形みたいに整った顔をした人。綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭。きっと間違っているだろう際どく目立つくノ一の服。
そして首都高速とビルが両断されて横にずれていく。
「斬れた……」
自分の体が斬られてないかと心配になって確かめた。でも大丈夫だ。くっついてる。そして俺は多分女難の相があるのではないかと最近気づいた。
「千代女……」
雷神様も俺も走るのをやめないままその女の人を見た。雷神様の腕が少しだけ斬れてる。とてもニコニコしている女の人だった。
ダンジョンができてから日本にはいくつかの都市伝説ができた。
その1つにこうある。
大昔より本当に存在した忍者の家系。それを受け継いだ女の人がいると。
曰く、その女性は元からレベル100ぐらいに強かったと。
でも、誰も信じていない。そんな存在が普通にいるなら、日本はきっと太平洋戦争で負けてない。でもその噂は根強くて、その忍者はダンジョンが現れたことでさらに強くなり、忍びの神になったのだと。
「弱いもの虐めは“メッ”ですよ。豊国ちゃん」
その女の人まで追いついて走ってくる。お願いだから並んで走らないでと心の底から思った。
「あの男、米崎……そうか……」
人工レベルアップ研究所を後ろから支援しているのは、千代女様……自衛隊の人から聞いた話だ。当然所長の米崎はこの人と知り合いだろう。この状況で南雲さんへの連絡もできず、俺が雷神様から何もされずに解放される。
その可能性があるとしたら、この人に助けてもらうしかなかった。ミカエラの時のような方法は無理だ。あまりにもレベルが離れていて遊びにもならない。そのうちきっと無理やりでも頷かされてしまう。
「千代女。関係ないだろう。なぜ邪魔をした?」
こうなったらもう俺を無視して話が進むだろう。俺は千代女様に任せて逃げようと思い、高速道路を降りたら、2人の女の人が一緒に降りてきた。どうしてついてくる。ついてこなくていいじゃないか。
「豊国ちゃん。この子はうちの大事なお客様なんですから、手出しするなら暗殺しちゃうぞ」
なんかこの人ナチュラルに怖いこと言ってる。
「……お前と戦うのは面倒だ」
「面倒だなんて寂しいわ。お姉さん泣いちゃう。もっと可愛く言って。『お姉ちゃん怖い!』って、言ってみて」
「ちっ、お前名前はなんて言う」
雷神様から忍神様を無視して見られた。名前を教えるべきかどうかと悩んだけど、声には魔力がこもっているようには感じなかった。それに調べたらすぐに分かると思う。
「六条。六条祐太です」
「……この女は面倒でな。対人特化の化け物だ。こんな化け物女がいないところでまた会おう。横浜に来いは本当だ。良い返事を期待しているぞ」
「だめだめ。この子との交渉は禁止します。無理矢理じゃないならいいですけどね。無理矢理は良くないわ。お姉さんそういうのは怒っちゃいます。暗殺しちゃうぞ」
「くっ、お前はいちいちそういうのがイラつくんだよ!」
雷が走った。だがそれをあっさりと手で断ち切った。
「豊国ちゃん。私、あなたに言葉遣い。教えませんでしたっけ?」
「……死ね」
その言葉のすぐ後に雷神様の姿が消えた。
「本当、可愛くないわ。昔はみんな可愛かったのに、どうしてなのかしら? レベルが上がるほどに可愛げがなくなっていくわ。やっぱり手伝ったのは間違いだったわね。でも、君はちゃんとお礼を言える?」
ニコッとこっちを見られた。
何かを期待されている気がした。
“ここで言葉を間違えたら分かってるな”という圧力をすごく感じた。
「お、お姉ちゃん。ありがとう」
これでいいのだろうか?
分からない。
どうしてそんなことを言わなければいけないのか。
でも言わなきゃいけないんだと分かった。
「うふふ、ちゃんとお礼が言えて偉いね。ご褒美に撫でてあげましょう。いい子いい子」
本当に頭を撫でられた。微妙な気分になった。
「一人で米崎ちゃんのところまで行ける?」
「は、はい。大丈夫です」
「一人で米崎ちゃんのところまで行ける?」
「えっと、大丈夫です」
「一人で米崎ちゃんのところまで行ける?」
「……お、お姉ちゃん僕一人では無理かもしれない」
「そう! じゃあお姉ちゃんが送ってあげる!」
頭を撫でられた。精神的な何かがガリガリと削られていく。俺は必要のない労力にドッと疲れた気がしながら、さっさと人工レベルアップ研究所に行くことにした。千代女様に米俵みたいに肩に担がれて……。





