第百二十二話 心
美鈴達と約束していた日になろうとしていた。ミカエラはその間、一度もネコの俺から離れようとしなかった。ワンルームの小さな部屋。トイレと風呂が共同で、本当に雨風をしのげるだけのボロアパート。
このボロいアパートに他の住人はいないようで、共同のはずのトイレや風呂で誰とも会うことはなく、そしてこのアパートには、おそらく"白骨化した遺体が3体ある"。そのことをミカエラの日記を読んだ俺は分かっていた。
この10日間ずっと俺はアパートから出ることなくミカエラと過ごした。トイレも風呂も全部一緒だった。
「ニャー(ミカエラ。お前は本当に壊れちゃったんだな)」
月明かりが窓から差し込む夜。街の光もあって、それほど暗いと感じなかった。一緒に居る間、一度として逃げるそぶりを見せない、可愛いロシアンブルーに対して、ミカエラも気が緩んで、警戒心は欠片もなくなりベッドで寝ている。
今のこの状況なら俺でもミカエラを殺せるだろうか?
「殺すべきだよな……」
人の姿を忘れそうなほど、ネコのままだった俺は【天変の指輪】を使い、10日ぶりにネコから本来の人へと戻る。美火丸の装備は全て装着していた。音は【隠密】を唱えて消す。眠っているミカエラならこれで何も聞こえないはずだ。
幸せそうに眠っているミカエラに俺はまたがった。
日記を読んで知ったミカエラには同情すべき点がたくさんあった。
それでも、このチャンスに殺しておかなければならない女だ。
俺は【美火丸の短刀】を鞘から抜き放つ。
今ならこの短刀を心臓に振り下ろすだけでミカエラは死ぬ。
そうすれば俺も美鈴も伊万里もエヴィーもこの女の脅威に悩まされなくてもすむ。
「でも……」
憂鬱な気持ちになった俺はミカエラの日記の内容を思い出していた。
【20××年 1月5日
ダンジョンが現れて、一年が経った。とてもとても寒い日。だから周りを温めようとでも思ったのか、私の家が燃えた。お父さんとお母さんが逃げ遅れて死んでいた。あんなに元気な2人だったのに、これは夢じゃないのかと、そればかり考えてしまってる】
俺はミカエラの胸に向かって、ゆっくりと短刀を振り下ろした。
【20×〇年 1月5日
お父さんたちが死んで一年経った。友達のなみちゃんとれいちゃんとりんちゃん。3人がお父さんたちの墓参りについてきてくれた。この一年3人のおかげで、私はずいぶん立ち直れた。今では笑うこともできるようになって、本当に3人が友達でよかったと思った】
しっかりとミカエラの心臓の部分を狙って、短刀の刃先が直前まで進んだ。
【20×△年 1月5日
お父さんたちが死んで二年経ち、南雲君たちからは随分と遅れてしまったけど、レベル150になることができた。なみちゃんたちは今日、体調が悪いらしくて、一緒にダンジョンに入っていない。
それはちょっと残念だったけど、今日はとても素晴らしい日になるはずだった。でもそうはならなかった。私の長年の夢が叶えられ、人の心が読めるようになったのに、素晴らしい日にはならなかった。
私は人を殺してしまった。名前はよく思い出せない。でも、その人は私のことがとても好きなはずの人で、でも好きじゃないとわかって殺してしまった。さすがに人を殺したら駄目なことぐらい私も知ってる。
ちゃんと警察に自首するしかないと思って、とりあえず3人に相談してから決めようと思った】
「本当、変なところが似ているよ。いや、計画的な分だけ俺の方がタチは悪いな。それに俺は反省していないもんな」
【20×△年 1月10日
なみちゃんたちがなかなかつかまらず、探していたらモルディブに旅行に行っていることが分かった。たまにこういうことがあるけど、私を一度も誘ってくれたことがない。私も旅行に誘ってくれれば良かったのに。
そうすれば誰も殺さなくてすんだのに。
でも人を殺してしまうような私じゃ誘ってもらえないのも当然だ。間の悪いことに彼の遺体が、なみちゃんたちを探している間に警察に見つかって、事件になってしまった。それをテレビで見た私は自分で警察署に出頭した。
でもその日のうちに解放された。
『正当防衛だから気にしなくていい』
と言われた】
俺はそれ以上短刀を進める事が出来なかった。どうしても進めることができなかった。
「こいつを殺せない」
俺はどうしてもミカエラを殺せなかった。
【20×△年 1月12日
今日、ようやく旅行から帰ってきて、海で日焼けした3人と会うことができた。でも、私のことを知った3人に散々罵られた。
『人殺し!』
『生きてる資格もない!』
『もう恥ずかしくて、あんたと一緒に歩けない!』
そう言っていた。当然だと思ったから、ごめんねって必死に謝った。探索者になって頭が良くなったせいか、人の言葉を一言一句すべて思い出すことができた。
『あんたさー。警察で罪を償わないなら私達に償いなさいよ。だってあんたのせいで、同じパーティーメンバーだった私たちの名前にも傷がついたのよ。りん。そうだよね?』
『そうよ。ミカエラなんて恥ずかしい名前つけて何調子に乗ってんのよ? あんたなんて出来損ないのバカで十分でしょ。そうだ。明日から“出来損ない”って名乗りなさいよ。れいもそう思うよね?』
『うん。出来損ない。あんたはこれから私たちにお金を貢ぎ続けなさい。私たちはこれ以上ダンジョンなんて危ない所に行きたくないの。分かる? そういう野蛮なことは、出来損いのあんたに任せておくから、罪の償いとして私たちにお金を渡し続けるの』
『それ最高! そうよね、出来損ないみたいな罪人はそれで十分よ。出来損ないのおかげで、私たちは世間様に顔向けできなくなるんだから、それぐらいして当然よね?』
分かったって言おうと思った。裁かれない自分はそれぐらいしようと思った。それにその状況は今までとそんなに変わらなかった。だから、なみちゃんたちがそれでも私の友達でいてくれるなら、それでいいと思った。
あの日心を読んで人を殺してしまったから、なみちゃんたちの心だけは読んじゃ駄目だと思った。人の本心など知らなくていいんだ。だから今日から心を読むのをやめようと決めた】
その日からミカエラの歪んだ贖罪の日々が始まった。本来なら殺してしまった男の両親にでも支払われるお金は、友達3人の遊興費に湯水のように消えた。そして、それが、八ヶ月にも及んだのだ。
ミカエラほどの探索者ならば、十億以上の収入があったのではないかと思う。しかし、皮肉なことに自分がちゃんと罪を償っているんだという思いが、ミカエラの心を保たせた。この間、ミカエラは壊れずにすんだのだ。
そしてミカエラはこの時、一人でレベル200に到達するという偉業を成し遂げる。レベル100ぐらいまでクソの役にも立たない3人を守りながら、ダンジョンに入り、その後も探索者にとっての生命線。探索費用を湯水のごとく使い込まれた。
それでレベル200に到達するのだから、ミカエラはすごいと思った。
しかしそんな歪んだ関係がいつまでも続くわけがなく、8ヶ月後、この関係が壊れた。
そしてミカエラも壊れた。
【20×△年 8月5日
とてもとても暑い日だった。蝉の鳴き声がうるさくて、アスファルトの地面からは陽炎が立ち上っていた。私がこの日のことを忘れないために、できるだけ詳しく書いておこうと思う。
まだ友達でいてくれているなみちゃんとれいちゃんとりんちゃんのところに今日は久しぶりに会いに行った。
でも、今日じゃなかったら良かったのかもしれない。
でも、私は今日3人に会いに行ったんだ。
なみちゃんたちは都内にある高級マンションに住んでる。私のお金でそうしてるんだってことは知ってたけど、私が悪いんだからそれでよかった。でもいつもお金を振り込むだけで、最近はなみちゃんたちの顔も見なくなっていた。
だから、たまには顔を見たいと思った。
どうせなら突然現れて脅かしてみようかと思った。高級マンションだろうとなんだろうと、レベル200の私が忍び込むのは簡単で、なみちゃんたちの部屋の中にこっそりと入った。
私がお金を出してるんだから、これぐらいは良いじゃないかと思ったんだ。探索者になっても私はバカだから、それが悪いことだと思わなかった。部屋の中には誰もいなくて見回すと、高級な家具と大きなテレビが印象的だった。
自分は相変わらずボロアパートに住んでたから、正直ちょっと面白くなかった。でも3人にそんなこと言ったら、悪人の私は、誰にも相手にされなくなる。一人になるのが怖くて、そんなこと言えなかった。
3人が帰って来るのを待っていたら、部屋のドアの音が鳴った。3人を待っていたはずなのに、嫌われることが怖くなり、私は慌てて出て行こうかと思った。けど、あの3人は途中からレベル上げもしなくなって、レベル100のままだった。
レベルアップの質も悪くて魔法もスキルも何も生えてない。レベル100なのに最大ステータスのHPが50だ。レベルよりもHPが低いという珍事みたいなステータス。だから気づかれないことぐらいは簡単だと思って落ち着いた。
3人が部屋の中に入ってくると、私はそれぞれの目の動きを見て、視界から逃げた。レベル200になるとそれぐらいの事は簡単にできた。そうすると、同じ部屋に居るのに3人は私に気づかなかった。だから3人は話してしまった。
私の前で話してはいけないことなのに話してしまった。
『ねえ、もうお金ないんだけど』
『れい。金遣い荒すぎでしょ。あっくんとかいうホストにダイヤモンドとマンション買ってあげたりとかで、1億ぐらい使ったんじゃないの?』
『いいじゃん。私もあっくんと一緒に住むわけだし、いくらお金使ってもなくならないATMがあるんだもん』
『ぷっ。れい、性格悪。私さすがに出来損ないが可哀想になってきたわー』
『りん。何をいい子ちゃんぶってんのよ。そもそも“あれ”を提案したのってあんたじゃない?』
『まあそうだけどさー。なんかもうあんまりにも哀れでね。あの子、両親を殺したの私たちだって知らないんだよー』
『ちょっとりん。その話題はあんまりしゃべらないでおこうよ。万が一にも誰かに聞かれたら大変なことになるんだから』
『バカねえ、誰が聞くのよ?』
『それでもよ。万が一でもあの子に知られたら私たち殺されるよ』
『大丈夫だって。きっと「ずっと友達だよ」って言ったら、両親殺したことぐらい簡単に許してくれるでしょ』
『ぷぷ! あの子なら絶対許しそう!』
『じゃあ、ATMに電話するから2人とも静かにねー』
私はこれ以上、ここにいちゃいけないと思った。誰にも相手をしてもらえない私が本当に一人ぼっちになってしまう。でも体が動かなかった。心は動けって言うのに体が動かなかった。電話のベルが鳴る。私の好きなゲームの音楽。
3人と同じ部屋で、そのゲームの音だけがやけにうるさく鳴り響いた。なみちゃんとれいちゃんとりんちゃんがこっちを見た。
『出来損ない!?』
『バカ!』
『あ、えっと、出来損ないの名前ってなんだったっけ?』
『し、知らない。えっとミドリムシだったっけ?』
『動くな!』
3人を動けなくした。心を読めば、もう元に戻れない。でも読まなかったら、この気持ちのまま生きていかなきゃいけなくなる。私はあの日以来、使わなくなった左目で、りんちゃんの心の中を初めて見た。
りんちゃんの心は《殺される!》という声が一番大きかった。
でも、そんなの今の私にはどうでもよかった。そのもっと奥にあるものを覗いた。
《ついていけない。なんなのこの子? どうしてこんなに簡単に強くなっていくの? モンスターは怖くないの?
私はダンジョンに入っても、ミカエラに全くついていけなかった。それでもミカエラは私たちを友達だと言って守ってくれた。最初はいい子だなって思ってた。でも、レベルがあがっても、私たちにはスキルも魔法も全然生えない。
ステータスだってレベルが上がっているのに何も上がらない。
おまけにレベル100になった時、ダンジョンから与えられた職業が【寄生虫】ってなんなのよ! あの子は超レアの【魔眼師】で、名前も天使を意味するミカエラで、私たちが職業、寄生虫!?
なんでなのよ!?
ダンジョンは私たちに恨みでもあるの?
でも、とてもついていけない。ミカエラについていけない。でも、この子を手放したら、私たちはどうなる? 中途半端な探索者なんて男が一番嫌うじゃないか。お金だって持ってない。それにミカエラの両親は私たちのことを喜んでない。
度々私たちとの友達関係に反対しているのを知っていた。
このままじゃATMがなくなってしまう。望めばいくらでもお金が出てくるATM。私たちは手放せない。こんな美味しいATMを手放せるわけがない。だから私は思いついたんだ。この子の両親を殺してしまおうと。
簡単だった。家に火をつけて燃やしてやったんだ。気が付いて逃げようとしたけど、逃げられないように扉の前で塞いでやった。3人でやった》
れいちゃんは?
《りんの思いつきは素晴らしかった。そうだ、殺してしまえばいいんだ。ダンジョンが現れてから警察も混乱している。焼死体なんてちゃんと調べないに決まっている。私たちの犯行だってばれるわけがない。
でも南雲が邪魔。あいつに気づかれたら私たちは間違いなく殺される。だから南雲と出来損ないを別れさせようと思った。私たちだって気づかれないようにして、出来損ないに男を近づけた。そして出来損ないが嫌いな犬を男にけしかける。
男には100万円あげて、ATMに「好きだ」って言わせた。これは私が思いついた。思いついた時、私ってものすごく賢いなと思った》
なみちゃんは?
《私たちがまだ高3の頃。ダンジョンに入っているあの子が、綺麗になってクラスで人気が出てくるのが妬ましかった。あの子にだってできるんだから、私たちにもできるって思った。だからりんとれいを誘って、ダンジョンに入ってみた。
でも3人がかりでもゴブリンの一匹すら殺せなくて、出来損ないに殺させようってことになった。出来損ないは一生懸命、私たちを守ってゴブリンを殺してくれた。私たちも守ってもらいながら、ちょっとだけ頑張ればゴブリンを殺せた。
出来損ないは私たちがちょっと友達だって言うだけで、いくらでも言うことを聞いてくれる。お金だっていくらでも持ってきてくれる。私たちが死にそうな時は絶対に守ってくれる。本当に最高の動くATM。
だから「絶対に手放さないようにしよう」って、りんとれいに言った。そして、あの子の輝きは私たちがもらってあげようと決めた。出来損ないが輝かないように、私たちは全力を尽くして、出来損ないの邪魔をした》
『い、今のは冗談よ。ミカエラの両親を私たちが殺すはずないじゃない』
『そうだよ。私たちが友達の親にそんなひどいことができる人間に見える?』
『あ、もしかして、その顔、私たちのことちょっと疑っちゃってる? 酷いよミカエラ。私たちを動けなくするなんて。あなたの両親が死んだ後も私たちがずっと友達でいてあげたじゃない』
《《《あの子が強くなること以外のすべてを私たちは奪ってやった。クラスではほかの友達ができないようにダンジョンの中で人殺しをしているって言い触らして回ったし、出来損ないに近づいたら殺されるって教えてあげた》》》
『3人ともそんなに死にたかったんだ。それならもっと早く教えてくれたら良かったのにな。そしたら私、南雲君に誘われた時、断らなかったのに』
そこからどうなったのかよく思い出せない。ただ、逃げ回るなみちゃんとれいちゃんとりんちゃんを追い詰めていくのが、追いかけっこしているみたいで楽しかったのだけは覚えてる】
その日からミカエラは人の心を必ず読むようになった。そして少しでも自分に対して悪いことを思っていたら、その人を殺してしまうようになった。どうして頭を爆発させるのかと思っていたが、それ以上相手が何も考えなくなるからだ。
そうすれば、自分に対して嫌なことを考えても、それ以上知らなくてすむ。だから頭を爆発させる。ミカエラは心を読んでいるくせに、人の本心を知るのは怖いのだ。
「お前はバカだ。弱いままでいれば、誰か助けてくれるとでも思ったのか?」
ミカエラは弱い。心が弱い。きっとダンジョンのない、五年前の世界ならば、人に利用され、搾取されるだけの人生だったのかもしれない。今は力が強くなった。でも心が弱すぎて、力を扱いきれずに暴走している。
何人も殺している。
ダンジョンの中で何十人も何百人もミカエラのせいで死んでいる。
殺して当然という人間は3人だけだ。なみ、れい、りんの畜生にも劣る3人。他はみんな死ななくてもいい。殺さなくてもいい人間を殺している。
「そんなんで誰がお前のことを好きになるんだよ」
俺だってミカエラが嫌いだ。おかげでダンジョン探索もままならないし、アウラがいなければ俺も殺されていた。
「だからここで殺しておくべきだ」
それなのに短刀をどうしても心臓に突き刺すことができなかった。これだけ油断している状態だ。ネコである俺の相手をできることがよほど嬉しいのか、緩みきった顔で寝ている。久しぶりに楽しいと思ったんだ。
今ならばきっと俺でも殺せる。
「くそっ」
今、殺さなければどれほどのリスクを背負うことになるか。それなのに短刀を鞘に収めた。【天変の指輪】を使う。ネコの姿に戻るのではない。俺にはもう自分の命よりも大事にしたいと思うパーティー仲間が3人もいる。
3人の命が脅かされることだけはあってはいけない。
俺はネコとは別の動物になった。
そして部屋の窓を米崎に教えてもらった方法で、まるで幽霊が動かしているみたいに動かして、鍵を外して開けていく。そのままミカエラに向かって鳴いた。
「カー!!!」
《起きろ!》
俺が変身した姿はカラスだった。おそらく今のミカエラが一番怖がる姿がこのカラスに違いなかった。そして俺は初めてミカエラに【意思疎通】を繋いだ。
「うーん。ニャー君。まだ寝てたい」
《ミカエラ! 魔眼病ミカエラ!!》
「なによーニャー君」
ミカエラが目を覚ましてこちらを見てきた。
「カラス?」
そして窓枠にとまった俺と目が合う。
《ようやく起きたか哀れな女。貴様に用がある》
はっきりと殺意をこめて、レベルが上がるほどに強くなる探索者特有の気配を濃密にして飛ばした。ミカエラが目を見開く。そして立ち上がるとジャージ姿から、専用装備に変わった。一瞬にして戦闘態勢になっている。
分かる。たぶんあのまま短刀を振り下ろしても途中で気づかれて反撃されていた。ほとんど独力で20階層まで生きている傑物だ。きっと俺は不意打ちでも殺せない。それぐらい戦闘態勢になるまで早かった。
《ほう、戦うのか? 別にいいぞ。貴様程度なら分体でも十分だろう》
「分体……カラス。あなたは烏丸時治なの?」
そう勘違いしてくれることを望んでいた。レベル800を超える化け物なのだと勘違いさせるのは無理だろうが、分体ならば気配が小さいのも納得してくれるかもしれない。ミカエラも烏丸時治を直接見たことはないはず。
退学組の話では、烏丸はよほどのことがない限り甲府には現れないという噂だ。だから本当のところはあてにできない。ただ、ミカエラは外の情報に疎い。ほとんど一人で動いているからだ。だから【天変の指輪】があれば騙せるはずだ。
《忘れるな。我が貴様を監視していること。死にたくなければ忘れるな。これは警告だ。我の傍に寄らば殺す。忘れるな。ミカエラよ。我は確かに警告したぞ》
ただ、必死にミカエラへの殺意を込め続けて、そして翼をはためかせた。体が宙へと浮かぶ。そのまま空の彼方へと飛び立った。ミカエラは自分が怖がりだと言っていた言葉は本当のようで、追いかけてくる様子はなかった。
「これがどこまで効果を発揮してくれるかだな」
あのまま殺せばよかっただろうか?
いや、きっと殺しきることは無理だった。
やっぱりこれがベストだったんだ。
俺は自分にそう言い聞かせた。
念のため3キロほど飛ぶと、中年男性の姿へと変身する。そしてスマホを手に取る。榊に電話した。ミカエラにダンジョン内で連れさられている途中、俺は榊たちに何度も【意思疎通】を送った。でもどの階層でも返事がなかったのだ。
だから、もしかすると死んでいるかもしれないと不安な思いを抱いた。
しばらくコールしていたが、やはり返事がなくて、デビットさんとマークさんにも連絡を入れた。こちらも返事がない。クリスティーナさんとアンナさんにも連絡を入れる。しかし返事がなかった。
「やっぱり全員死んだのか?」
そう決めつけるのは早いと思いながらも、嫌な予感が胸を突く。どうしたものかと考えていたら、電話が鳴った。画面を見ると榊だった。
「榊か!?」
そうであってほしいと願う。ダンジョン内に居るはずなのに居ないことから、明らかに異常事態が起きていることだけは間違いなくて、不安な気持ちが消えない。
『六条!? あんた生きてるよね!?』
向こうも同じ気持ちだったのか、かなり心配した声だった。
「そっちこそ生きてるんだな?」
『ええ、魔眼病に襲われて本当に危ないところだったけど、米崎博士が助けてくれたの。今、博士の研究所にいるわ』
「そうか……米崎が……よかった」
榊たちが生きていることに安堵して、それと同時に、これでまたミカエラを殺す理由がなくなった。そのことにも安堵した。
「しかし、よく米崎がそんな行動をとってくれたんだな」
『まあ、一応、私たちって博士のパーティーメンバー予定だしね』
「言われてみたらそうだ。はは、でも生きてて良かった。ダンジョン内にいないから死んだのかと思った」
『心配かけたのなら悪かったわ。で、六条はなんで外にいるのよ?』
久しぶりに聞いた榊の声に心が明るくなる。
「いや、はは、魔眼病に俺も襲われた。おまけにダンジョン内で追い回されて捕まってな。でも、ネコ好きだっていうからネコに化けたんだ。そしたら外までお持ち帰りされてしまった」
『ちょ、それって大丈夫だったの?』
「なんとかな。10日もかかってやっと逃げ出してきたよ。ともかくそっちが全員、無事ならよかった」
『そうね。あの、六条……。言いにくいんだけど、全員じゃないわ。デビットさんとアンナさんは魔眼病に殺された。よく意味のわからない理由で頭を爆発させられた。六条、よくあんな化け物に捕まって無事だったわね』
「……」
『六条?』
「……」
『ちょっと、六条。急に黙りこまないでよ。どうしたの?』
「……」
『六条?』
今、榊はなんと言った?
デビットさんとアンナさんが死んだ?
ミカエラに殺された?
退学組が殺されたと聞いても正直、ピンと来なかった。
アウラが死んでもピンとこなかった。
アウラはまだ自分の中にいる気がして、死んだんだという気がしなかったし、実際のところどうなったのかがよく理解できなかった。
でも、ミカエラは俺の知り合いを2人殺した。
そんなこと分かりきっている。
分かりきっていることだろう。
ミカエラはもう"手遅れなんだ"と……。
分かっていることじゃないか……。
「榊。米崎はそこに居るか?」
『え? うん。なんか忙しそうだけど、あんたからの電話だって行ったらすぐに呼び出せると思うよ』
「じゃあ呼んでくれ」
榊の言葉通り1分もかからず、米崎の声が受話器から聞こえた。
『やあ』
デビットさんとアンナさんが死んでも、奇妙なほど明るい米崎の声だった。
『榊君に聞いたよ。ミカエラと遭遇しても生きていたみたいだね』
「ええ」
『君が僕の期待どおりの人間で、僕は今とても喜んでいるよ』
「今回はありがとうございました。榊達を助けてくれたこと、とても感謝しています」
自分の中の何かがどんどんと冷たくなっていくのを感じながら話していた。
『いいよ。僕の利益になることさ。君に貸しなんて全然思ってないよ』
「貸しついでに一つお願いがあります」
『なんでも言ってくれたまえ、なんでも叶えてあげようじゃないか』
どうやら米崎は今日もご機嫌なようだった。
「魔眼病ミカエラが、"探索の邪魔なので殺そうと思います"。【奈落の花】を用意できますか?」
自分でも驚くほど淡々と声をだしていた。
『あれを用意するの?』
「ええ」
『くく、ハハハ! 君! 素晴らしいね! 君は殺そうと決めた人をちゃんと殺すんだ! いいだろう。用意してあげよう。30億ほどかかるけど、お金の心配なんてしなくていいさ。僕が出してあげるよ。ご禁制の品だから用意するのに1週間ほどかかるけどいいかい?』
「お金は自分で出します。甲府ダンジョンから出てくる一年後になりますが、一旦立て替えておいてください」
『ふふ、了解』
「1週間したら一階層まで受け取りに行きます。間違っても榊達に渡したりしないでください」
『ダメだよ過保護は。育たなくなる』
「……」
俺はその言葉に何も返さなかった。
『ふふ、1週間したら玲香君に行かせよう』
「お願いします」
スマホを切った。スマホを思わずそのまま握りつぶしたくなる衝動をこらえてマジックバッグに収納した。そして美鈴たちのもとへと帰ることにした。





