第百十九話 ロシアンブルー
まだ夜が明けることのない闇。樹海の中は墨を塗ったぐらいに暗かった。
「なんのつもり?」
魔眼病はすぐに俺の位置を特定してきた。俺からは分からないが、なんらかのスキルを発動させたのだろう。ミカエラと目が合う瞬間に【身代わり石像】を唱えて、木の上に俺の分身を残して、俺自身は下へと降りる。
ミカエラはその動きを見逃さなかった。俺が木の裏に隠れながら、地面に着地した瞬間。木の根元が爆発した。そしておそらくミカエラが【瞬足】を唱えた。一気に距離を詰めてくる。俺は【韋駄天】を唱える。
「無理よ。あなたじゃ私から逃げられない。速さに自信があるみたいだけど、この階層だとレベルが上がっても42でしょ? そんなレベルで私に速さで勝つなんて不可能よ」
「確かに純粋な速さで勝つのは難しい。【韋駄天】を使ってもまだ俺が負けている」
【暗視】で闇に包まれた樹海の中を走り出した。空気を切り裂くように2人が加速していく。その衝撃波に木が激しく揺れた。人間が走っているというよりも、F1レースでもしているような気分だった。
地面を踏みしめるたびに地面が耐えきれないように揺れ、闇の中に居る大蜘蛛たちが動き出す。そして徐々に距離が詰められていく。近接職主体でないはずの魔眼病にまだ速度で勝てない。負ける。
「へえ、私に勝てなくても君は速いね。たぶんレベル100ぐらいになったら私より素早いよ。でも、まだ無理。だから今のうちに捕まえてあげる。【韋駄天】」
ミカエラが【韋駄天】を唱えた。近接主体じゃなくてもレベル200になれば【韋駄天】を持っているのか、さらにミカエラが距離を縮めてくる。俺は樹海の木を避けながら走っていると転けそうになる。それなのに向こうは足元が安定していた。
「六条君。どうやって無くなった足を治したの?」
「別にそれほど難しいことじゃない。でも教えるつもりはない!」
【縛糸】を放った。足元に向けて網の目のように。
【斬糸】を放った。足元に向けて斬れるように。
これによってミカエラにダメージを与えることはできない。向こうの防御力が高すぎて、このスキルでは、そこまでの効果が期待できない。しかし、ミカエラはF1カーすらも超えるような速度で走っている。そうなれば必ず、
「え?」
足元が引っかかる。【縛糸】は粘着性の糸でよく引っかかる。【斬糸】はそれを極限まで圧縮したピアノ線よりもまだ細く強い糸である。ミカエラは危うく転けそうになり、つんのめった。
「とっ」
時速400キロはあろうかというスピードで、足を引っ掛ければミカエラの体が空中で何度も回転した。この瞬間、攻撃しない手はない。俺はアウラから与えてもらったスキルを唱えた。
「【斬糸繰々】!」
自分の指先から無数の糸が放たれていくのを感じる。その糸のすべてが俺の思い描くように動いていき、樹海の木々をまとめて、ミカエラごと斬り刻んだ。
「へえ!」
あたり一面の樹木もまとめて寸断されていく。一気に樹海の視界が開けた。その中央に立っていた少女。傷つくことなく艶然と微笑み。
「やるじゃない。その辺に居るレベル100なら今ので殺せたかもよ。でもね」
【黒腐り】
ミカエラが何かまた新しいスキルを唱えた。額の瞳が黒く光っていた。夜の暗闇に包まれていた地面がさらに黒く染め上げられて、一瞬で変色していく。その黒の領域に触れてはいけないことだけは分かって、広がってくる黒から逃げる。
SP25を使用し、使った後の強烈な虚脱感も覚悟した。そうして放った【斬糸繰々】で傷も入らないミカエラ。俺の攻撃が通用しない。覚悟は決めていた。だから、それで動揺したりしない。まともに戦えるなどと元から思っていない。
しかし、向こうがどれぐらい強いのか? 計ることすらまだ叶わなかった。
それでも再び【斬糸】と【縛糸】で地面に巣を張った。
「ふふ、可愛い。そんなんじゃ全然ダメよ。私に攻撃を通したければSPかMP50消費からよ」
そんな消費の魔法もスキルも使えない。もし使えたとしても使った瞬間気絶してしまう。そしてそこまでしても多分致命傷には届かない。
「無理でしょ?」
無理だよ。
「だから、さっさと諦めて、私にあなたの心を教えてくれない?」
やだよ。
「ねえねえ。もうちょっと本気出そうか?」
「うっさい。俺はお前から10日間でも20日間でも逃げ続ける!」
思わず声を返した。
「へえ、それはどうして? 逃げても強さが逆転するわけじゃないよ。それなのに、ただ逃げる理由って何? 大体10日間も逃げなくても、きっと六条君だけなら上の階層に避難するのは簡単でしょ? 六条君はそれをしないの?」
完全に遊んでいるくせにミカエラは鋭いところを見抜いてくる。その通りだ。俺だけなら逃げるのは大して難しくない。ミカエラの目の前になど現れずにさっさと上に逃げればいいだけだ。
「でも、あえて私の前に出てきた。ということは逃げることに何かメリットがあるんだよね? それはきっと仲間の為?」
簡単に気づくか。まあどう考えても逃げるだけなら意味のないことだ。
「そうだよ。お前には分からない心だろうな」
「ええー、分かるよ。私にも仲間がいるから」
姿を消した仲間。今となっては誰もその姿を見ていないという仲間。
「そうか……」
それを仲間だという彼女。【縛糸繰々】を唱えた。連チャンするとかなり体に負担がくる。だが、この間に姿を【天変の指輪】でネズミへと変化させた。
「ねえ、六条君は仲間の為に何かするのって楽しい?」
なぜそんなことを聞いてきたのかは知らないが、無視して、俺は急いでネズミの姿で動いた。できるだけミカエラの死角になるようにして、一気に距離を稼いでいく。とにかくこうやって仲間のいる方向から、ミカエラを離していくのだ。
《伊万里。今、ミカエラを引きつけている。伊万里のいる場所からは離れてるから、伊万里はもう探索を再開してくれ》
《了解。1秒でも早く探索を完了するから、祐太は絶対油断せずに頑張ってね》
《わかってる。そっちもあんまり派手にやりすぎるなよ。いくら離れてても気づかれるぞ》
《OK》
俺は木々の陰に隠れて出来るだけ速く移動していく。そうすると横合いからガサリと音がした。まさかもう追いつかれたのかと身構える。何しろネズミの姿だから視界が悪い。このネズミの状態で遭遇するのはまずい。
そう。まずいのだ。
何しろネズミの姿になっても六階層では俺だとバレバレだからだ。
六階層にいる生物は木乃伊と大蜘蛛とアラクネだけである。この階層にはほかの生物はいないのだ。だからネズミとはいえ生物が居ること自体が不自然なのだ。それでも止めることもできず、茂みの中から現れる巨大な存在。
《お前……?》
だがそれはミカエラではなかった。それは八本の足を持つ大蜘蛛だった。その大蜘蛛の顔を見た瞬間、なぜか自分にはわかった。この大蜘蛛は俺をミカエラの所まで案内してくれたやつだ。
「六条君、どこ行ったの?」
そして大蜘蛛が背中に乗れと低姿勢をとってくれた。
《いいのか? お前だって、これ以上俺に付き合っていたら本当に死ぬぞ?》
暗闇の中、【暗視】は発動しっぱなしでミカエラの様子を窺う。モンスターは探索者を攻撃する。それはどの階層にも言えたことで、よほど賢いモンスターにならない限り、それは絶対条件として守られる。
ミカエラにも大蜘蛛が頻繁に向かっていって、爆発が起きているのがわかった。おかげでミカエラの位置は分かる。どうやらミカエラはネズミになった俺を見失ったらしい。爆発が俺の方とは違う町へと移動していた。
それは俺が走って行こうとしていた方向だ。このまま放置すればミカエラは俺を見失う。でもそれだと間違いなく美鈴たちの方へと行ってしまう。俺は乗りやすいようにと低姿勢を取ってくれている大蜘蛛を見た。
《すまない。じゃあ協力してくれ》
俺は大蜘蛛の足から背に駆け上がる。召喚士でもないのにモンスターと共闘する。大蜘蛛の背に乗るネズミ。奇妙な構図である。俺は大蜘蛛の頭の上に乗りミカエラが向かっている町を見つめる。
大蜘蛛が樹上にまで上ってくれたのでよく見えた。ミカエラが向かっているのは鳴沢村の方角。山梨県の地図を頭の中に叩き込んでいた。富士山の麓にある田舎町である。
それにしても、
「大蜘蛛や木乃伊は俺を攻撃してこないのか?」
それはなんだか不思議な感覚だった。六階層は夜になるとそこかしこに夜行性の大蜘蛛や木乃伊がうろつき出す。樹上から降りると俺のそばを木乃伊が歩いて通り過ぎていく。それなのに俺に攻撃を仕掛けてこなかった。
「ネズミだからか? それとも大蜘蛛に乗ってるから? もしくはアウラが最後にそう命令したのか?」
それが今でも守られているのか……。
大蜘蛛からなんらかの意思疎通がとんできた気がするが、漠然とした意思はいまいち理解しにくかった。それでも俺の味方をしてくれると言っていることだけは分かった。
《まあ頼むな。でもお前も死なないようにしてくれよ》
もう誰かが死ぬところは見たくない。そう思いながらも、ミカエラと再び接触することにした。
ミカエラを引き付け続けるという無茶な行為に及んでから初めての朝が来る。
《祐太。まだ生きてる!?》
《なんとかね。朝日が目にしみるよ》
空気の澄み渡る快晴の朝だった。朝と昼と夜、四季すらも巡る六階層。富士山が見える場所にいたから、富士山を登ってみたい誘惑にも駆られた。でも、あんな見晴らしのいい場所では、絶対に見つかってしまうのでやめておいた。
俺は魔眼病を引きつけるため、あらゆる手段で変装した。そしてまだミカエラはそれを見破れていなかった。
「六条君ー。どこかなー」
いや、正確に言うと見破れないのではなかった。
ミカエラがこの状況を楽しんでいるように見える。
声がかなり弾んでる。こっちは命がけなのに向こうは楽しんでる。そして正午前にネズミの足音に気づかれるようになった。そしてそこからネズミが俺だと気付かれるのは早かった。ミカエラもモンスター以外の生物がいないこの階層で、ネズミが常に傍に居れば奇妙に思うのが当然だ。
「ふふ、かなり優秀な変装アイテムってこと? そんなの自分で持ってるわけないよね。高レベルの知り合いがいるの?」
「さあな」
できれば返事もしたくないところなのだが、あまり無視すると美鈴たちの方に行ってしまおうとするので仕方なかった。
「私にも高レベル探索者の知り合いがいるよ。私の知り合いはね。南雲君って言うの。女をたくさん食い物にする悪逆非道の輩。おまけにね、私が南雲君のいけない頭を爆発させてあげようとしたら、ほっぺたを殴ってくるの。酷いでしょ?」
「それは当たり前だと思うぞ」
「そんなことないよー」
やっぱりこいつ楽しんでる。
二日目には大蜘蛛に乗って移動していることにも気づかれて、危うく大蜘蛛を殺されかけた。そしてそれからは六階層にいる大蜘蛛すべてが率先的に殺されるようになってしまい、俺は、俺を乗せてくれる大蜘蛛に対する愛着がわいて、
《クーモ。残念ながらここまでだ。もういいから離れてろ。これ以上そばに居るとお前が死んでしまう》
ついついクーモという名前まで付けてしまう。殺されるのが非常に嫌だったから、傍に近づけるのをやめた。それからはもう殺されないギリギリだった。ギンヤンマになっている事に3日目でばれて、4日目にハエになっていることもばれた。
「次は何になるのかしら?」
そして俺はこいつが楽しそうな理由に気づいてしまった、
おそらくこれは狩りを楽しむとかそういう嗜虐的な楽しみではないのだ。
5日目。朝日をシルエットにするミカエラは相変わらず艶然と微笑んでいる。ほっぺがつやつやしてる。まあそりゃそうである。現状では俺の攻撃力が弱すぎて、攻撃を受けたところでダメージを受ける心配はほとんどない。
そしてこいつは今まで話し相手が誰もいなかった。構ってくれるやつも誰もいなかった。だから、こんな状態なのにしゃべってくれる相手がいて楽しくて仕方ないんだ。悲しいことに俺はその気持ちが痛いほど分かってしまう。
「ねえねえ。六条君!」
そんなに楽しそうにするんじゃない。心が痛むだろうが。
イライラした。昔の俺は同級生に遊んでもらっていた。まだ、小学生の頃に虐めがそれほどひどくない時期があった。こんな俺にもその頃はぎりぎり遊ぶ子がいた。そういう機会に俺はものすごくテンションが上がった。
前日から嬉しくて寝られないぐらいだ。向こうはそんなに大したことだと受け止めていないのはわかっている。それでも俺は嬉しかった。このミカエラのように嬉しかったんだ。
くっそ。ぼっち女め。喜ぶハードルが低すぎだろ。
しかし、ミカエラがこんな調子だから俺はまだ引き付け続けることができた。【天変の指輪】は俺をどんな姿にも変身させてくれる。きっともっと小さい生物になることもできる。そうなればミカエラも俺を見失うかもしれない。
でもハエよりも小さくなってしまうと、あまりにも移動するのが遅くなってしまう。この女はちょっとつまんなくなってくると、すぐに【大爆発】を唱えるのだ。せめて時速10キロ以上はないと、爆発に巻き込まれて死んでしまう。
「六条君ー。心の中を見せて欲しいだけなのよ。どうして出てこないの?」
見せた内容によって頭を爆発させるからだよ。こんなゆるゆる状態のミカエラが相手でも【炎流惨】で炎を巻き起こして、空気のゆらぎを誤魔化し、【斬糸繰々】で家を木っ端微塵にしながら音を誤魔化して、ようやく5日だ。
「まだ逃げるなら次の姿は可愛いのがいいな。ネズミとかトンボとかハエとか。全部私が嫌いなものばっかり」
《伊万里、どうだ?》
《ごめん。まだ》
《ミスズにエヴィーは?》
《祐太ごめん。探索範囲がなかなか広げられなくて》
それぞれに連絡してみるが、芳しい返事はなかった。ただでさえ探索に時間のかかる階層で、美鈴たちもミカエラに見つからないように気をつけていた。
「でも可愛くても犬はいや。私、犬に噛まれたことがあるから嫌いなの」
伊万里の空からの探索は目立つから使えない。そしてレベル上げと思って戦うと、それが派手であれば例え10キロ離れていてもミカエラは気づいてしまった。
「でもネコは好き」
だから、エヴィー達もできるだけ静かにモンスターも殺す必要が出てきて、なかなか思うように探索を進める事が出来なかった。
「だから探索者になってネコを飼おうと思ったんだけど、なんか怖がられて近づいてもらえないんだよね」
それはおそらく探索者が放つ殺気のようなものだ。レベルが高いほどそれが強くなり、レベルが低いものは息をするのもしんどくなるらしい。ただこれを抑えることはできるはずだ。俺もなんとなく抑えることができる。
ミカエラはできないのか? だとしても誰かに教えてもらえば……教えてくれる人いないんだろうな。
「六条君はネコを飼うなら何がいい? 私は飼うならロシアンブルーがいいな。あの青みがかったシルバーの毛並み。尖った耳とかも最高に可愛いよね」
ミカエラはしゃべりながら越後屋という書店の中に入っていく。こんな調子だから、ただ撒くだけなら簡単なのだ。でも引き付けなければいけない。だからミカエラは余裕だ。見失えば俺がすぐに接触していくから見失う心配も無い。
「疲れた……」
俺は休みたくて、何か良い場所はないかと探す。ミカエラが書店の中に入った今がチャンスだ。きっと余裕でゴスロリファッションの雑誌でも読む気だろう。窓の開いた車が道路上で信号待ちをしたまま止まっていた。
黒いLサイズミニバンだ。俺は【天変の指輪】でトンボになって飛び込んだ。
そして外から見えない後部座席の足元に入り込む。
人間の姿に戻って、ポーションを飲むが、ポーションだけでは回復しない疲労感がある。俺は十分だけ眠ることにした。探索者用スマホには、外に音を漏らさないように電気ショックで、目覚ましをする機能がある。
ミカエラは寝不足状態で、相手ができるような女ではなかった。だから、引きつけつつ、向こうが完全に俺を見失ったタイミングでこうやって休んでいた。俺は目覚ましを十分後にセットして目を閉じる。すぐに睡魔が襲ってくる。
そして体感ではガギギィッバギッという車のドアを引きちぎる音が、すぐに鳴った気がした。ミニバンに備え付けられていたのであろう防犯ブザーの音がけたたましく鳴り響く。
「ねえ、ここでしょ?」
ミカエラの声だ。
ミニバンのすぐ外からしている。
「もうそろそろイージーミスをしちゃうかなって思ってたんだ」
逃げる?
無理だ。
いくらLサイズのミニバンでも、こんな場所ではたとえどんな姿になってもバレてしまう。俺はミカエラを好きになってないから、考えを読まれたら殺される。むしろ殺そうと思っているのだから、余計に殺される。
「ふふ、レベル100を超えてくるとね。そもそも眠らなくても大丈夫なんだけど、それまではいくら睡眠耐性が生えてもちょっとぐらいは眠らないとでしょ? 判断力や運動能力がかなり下がっちゃうのを避けたい君は必ず眠る。やっぱり眠るのは私が君を見失ってるタイミングだったね」
まさにその通りだ。
見抜かれてワザと隙を作られて、それに俺が見事にハマったということか……。
「どこかな?」
場所の見当もついているのだろう。無造作に運転席が引きちぎられた。止め金の部分でバキッと折れて、フロントガラスから投げ捨てられたのだ。ミカエラにとって車の座席など綿菓子ぐらいの柔らかさらしい。
【天変の指輪】でアリになればごまかせるか?
でも、その場合、かなりの確率でミカエラは【大爆発】を使って周囲をなぎ払ってしまう。そうなれば抵抗できずに死ぬ。俺が迷っている間にも二列目の座席が引きちぎられた。その引きちぎられた座席の足元で寝ている。
俺は、
「ふうん」
ミカエラと目があった。
「ニャ、ニャー」
ミカエラが面白そうに笑う。
「ニャー」
「お次はネコかしら?」
俺は最後の賭けでネコになった。もちろん、先ほどミカエラが好きだと言っていたロシアンブルーである。俺だってロシアンブルーぐらいどんなネコか知ってる。可愛いネコランキングでいつも上位にくるシルバーの髪と青い目のネコだ。
「どういうつもりかな? いくらなんでもこんなので誤魔化されないわよ?」
バカにしているのかという感じで、ミカエラが頬を膨らませた。それでもひょいと持ち上げられた。
「おまけにロシアンブルー……」
ミカエラの左目が光ったのがわかった。青く光る瞳が俺のネコの目を見つめてくる。心の中を読む気だとわかった。これは死んだ。間違いなく死んだ。
しかし、
「あれ? どうして?」
ミカエラが首をかしげた。
「心が読めない……というか、これってネコの思考よね。私への強い警戒心があるだけで、それほど敵対心を持っているわけでもない」
ミカエラは心を読み損ねている。俺はちゃんと思考ができるのに心を読んだらネコの思考になるのか? 【天変の指輪】すごいな。さすがサファイア級。南雲さんに死ぬほど感謝した。
「じゃあ、あなた本物のネコー?」
ミカエラは心を読める。そして心を読んで、相手のわからないことをすべて理解してきた。だから自分のスキルに絶対の自信があったのだろう。本来なら、ありえない結論を導き出してしまう。
「探索者が持ち込んだのかしら?」
探索者が持ち込んだネコ。それが今もなおダンジョンで生きている。ありえないことではなかった。モンスターは人間以外を積極的に攻撃しないので、生き物を持ち込むと意外と生きているらしい。
「てっきり六条君は、この車だと思ったのにお前と間違えたの?」
「ニャー」
喋ろうとすると、すべてその言葉がニャーとなった。
「か、可愛いー。お前、私が怖くない?」
「ニャー」
怖いに決まってる。
「そうか、きっと、ダンジョンの中に住んでたらモンスターの方が怖いもんね。じゃあ、この子なら私でも飼えるかしら?」
そんなことを言い出して胸の中に抱かれた。美鈴並にぺったんこの胸だった。
「追いかけっこも飽きてきたし、いっか? お前、ネコ缶欲しい?」
「ニ、ニャー」
「そうかそうか、じゃあ買ってあげる」
ミカエラがニコニコして俺を抱き上げたまま走り出した。
どうするつもりだ?
まさかダンジョンの外に出てくれるのか?
でも俺はこのままだとまずくないか?
自宅までお持ち帰りされたりしないだろうな……いや、でも、そのほうがいいのか?
どの道、捕まるまで秒読み段階だった。このまま連れ帰ってもらえば時間稼ぎができる。それに、いったん外に出て、榊やデビットさんたちの安否確認をしたかったのだ。俺は美鈴たちに【意思疎通】を送った。
《美鈴、伊万里、エヴィー、ミカエラに捕まえられそうになって、苦し紛れにネコになったら、連れ帰られることになった》
《どうしたらそんな状況になるの?》
美鈴が不思議そうに聞いてきた。
《俺に聞かないでくれ。とにかくこれで時間稼ぎはできる……と思う。少し外で気になることもあるから、しばらく戻らないかもしれない。でもこれでそっちは探索を思いっきりできるから、下の階段を早く見つけてくれ》
《いや、祐太。そんな気楽に連れ帰られていいの?》
《今しっかり抱きしめられて逃げることもできない。それに正直、もう見つかるまで秒読み段階だった。この状況を利用させてもらう》
《うん……まあ了解。じゃあドワーフ工房と階段をその間に見つけておくから、そっちは自分の安全だけ考えてね》
《すまない。時間はどれぐらいかかりそうだ?》
《……エヴィー。伊万里ちゃんどう?》
《あと10日ぐらいね》
《それだけあれば絶対見つけてみせるよ》
《祐太。エヴィーと伊万里ちゃんはあと10日だって。それだけあればどっちも見つけられるはずだよ》
《三人ともミカエラがいなくても、アラクネもかなり強いから気をつけて》
《こっちは大丈夫。祐太、無事でいてね》
心配そうな美鈴の声を聞いても、自分でもこの状況をどうとらえていいのか分らなかった。
「ニャ、ニャー!」
「ニャーニャー言うからお前の名前は今日からニャー君よ! ネコ缶ネコ缶、チュールも買ってあげるね! お金足りるかな?」
ともかくミカエラがあまりに速く走るので、Gに押しつぶされそうで叫んだ。ミカエラのテンションがかなり上がってる。ネコが飼えるのが嬉しいのか……嬉しいんだろうな。ミカエラ。お前どうして人間殺したりするんだよ。





