第百六話 ダンジョン談義③
「僕はね、レベルアップとはこの世のシステムそのものに対する“アクセス権の強化”だと思っている。いや、思っていると言うよりはそうなのだよ」
「アクセス権の強化?」
アクセス権という言葉は聞いたことがあるが、俺の頭の中でそれがすぐにレベルアップやステータスとは結びつかなかった。
「そうだよ。例えばね。この右手とこの左手を合わせるとするだろう?」
喋りながら米崎は自分の右手と左手を合掌させた。
「この手と手がすり抜けることなく接地面の境界が保たれていること。実はこれはとても不思議なことでね。人間の体、いや、物質そのもの。それが例えダイヤモンドだったとしても本来物質とはすり抜けなければおかしいほどスカスカなものだ。それは知ってるよね?」
「聞いたことはあります。地球を究極まで圧縮すると、サッカーボールぐらいの小ささまで圧縮できるとか、そういう話ですよね?」
ネットをうろついているとそういう面白い物理の話がわかりやすく説明されている。それによれば、物質というのはスカスカでほかの粒子と反応しないニュートリノなどは地球に衝突してもどこにも当たることなく、簡単に向こう側に通り抜けてしまうという。
そしてそれぐらい物質というのはスカスカで、 サッカー場全ての面積の中でも針の先ほどしか実際の物質は存在していないという話だ。
「うん。それで合ってる。それでもこの手が合わさって、接地面が保たれているのは物理法則でそういうふうにプログラムされているからだ。3Dゲームと同じだね。出来の良いものほど境界面がしっかりしていて、決して壁の中に手が入ったりしないわけだ。だが、バグがあったりすると、3Dゲームの中で壁の中に手が入ってそのまま通り抜けたりするよね?」
「ええ、ありますね」
いわゆるバグ技によく使われるものだ。プログラムでちゃんと決めていないとゲームの中の登場人物は境界面があいまいになってしまう。ひどいゲームになると、急に別の場所にワープしたりもしてしまう。
それは現実世界でも同じで、もしも物理法則というプログラムが一つでもいい加減なものだったら人間は人間の形を保つことすらできない。
「まあ暴論ではある。実際には既知のエネルギーで隙間は満たされてはいるよ。それをプログラムなんて表現したら、きっと今までの科学者ならばなんてバカな奴だと笑って終わらせるさ。でもその中にある未知のエネルギーを僕はレベルが上がることで観測することができた。そしてその間に満ちているもっと大きな何かも知ることができた」
「じゃあ米崎さんはレベルアップやステータスもプログラムの1種だと?」
「というより、ステータスこそプログラムそのものだよね。そしてレベルが上がるほど、この世界でできることが増える。つまり、アクセスできることが増えるというわけだ。僕はそれを“この世へのアクセス権の強化”というふうに表現しているわけだね」
俺はいろいろな情報が流れ込んできて、一度止まって考え込んだ。そして米崎の言いたいことにあたりをつけた。
「つまり米崎さんはダンジョンに入らなくても、その、“この世へのアクセス権の強化”というものをする方法を見つけたってことですか?」
だとすれば、やはりこの男は天才だ。何しろそんな方法を誰も見つけていないのだ。アメリカや中国が信じられないほどの大金を出資したことでも分かる。おそらく世界中探してもそれに成功した者がいないのだろう。
「そのとおり。君は察しが良くて助かるよ。バカな人間だといちいち全部説明しなきゃいけないから、とても面倒なんだ。政府の役人への説明とかね。まあ、最近は玲香君に肩代わりしてもらってるんだけど」
米崎のそんな話よりも俺は一つとても気になることがあった。
「ダンジョンはそれを許してくれるんですか?」
米崎のしていることは、ダンジョンの根幹を揺るがしかねないことだ。その根幹を揺るがしかねないことをダンジョンが何も見ていなくて、米崎がうまく抜け道を抜けているなんて、甘い話があるだろうか?
「それは僕にも分からない。ただ今のところ、ダンジョン側からの干渉は一度もないね」
「じゃあやっぱりダンジョンはそれを許しているということ?」
ダンジョンはよく見ている。米崎のしていることがタブーに触れているのなら、すぐにでも制約がかかっているはずだ。
「僕の考えになるけど、おそらくダンジョンにとってレベルが上がること。それを一つの方法に限定する必要があると考えてないんじゃないかな」
「人間が横紙破りな方法でレベルを上げても別にいいと?」
「そうだ。それもダンジョンで得た知識の使用には違いない」
「知識……」
「六条君。僕はね。実は物理学の才能はなかったんだよ。簡単な公式ぐらいなら頭の中に入っているんだけど、相対性理論とかになってくるとお手上げだ。理解できなくはないのだけど、正直、それを僕が一生懸命するぐらいなら、ほかの天才がやる方がよっぽどマシというレベルだった」
米崎は自分の方にも出されたコーヒーに砂糖を入れだした。十個入れていた。どうやらかなり甘党らしい。
「いる?」
「いえ」
「ふふ、それで理系の中でも生物学者の道を選んだ。本当は物理学に進みたかったんだけど、生物学のほうなら“そこそこの才能”はあるみたいだったんだ。フィールドワークも好きだったしね。動物をじっくりと観察したりするのも案外好きだった。ゴブリン観察はその延長だね」
「今もしてるんですか?」
「ダンジョンはね。どうやらどんな方法で人間のレベルが上がったとしても別に構わないらしい。思った以上に器が大きい考え方のようだ。ただ、この方法にもいくつか弱点はある」
まあ、なんのリスクもなくステータスをイジれるなら、それこそもうめちゃくちゃである。
「まず結構一人につきお金がかかる。それにレベル20まではいいんだけど、その上のレベルになってくると。まあ、普通にダンジョンに入った方がよっぽど危険がないというぐらいよく死ぬ。それは僕がレベル200である限り、どれだけ研究が進んでも変わらないんじゃないかと思っている」
「桐山さんはレベル200まで上がったと言ってましたよね。 大丈夫なんですか?」
「私は大丈夫よ」
つまり私以外はダメだったということか。
「彼女と同じようにレベル200にする過程で、彼女のように安定することなく死んでしまった人間が99人。僅か1%の成功率だ。これでは普通にダンジョンに入る方がはるかに安全と言える。人工的なレベルアップでは、レベルが上がれば上がるほど死亡率は増えていく。レベル200以上にもう二人したいんだけど、さすがに1%の成功率じゃ、実験体が集まらないんだ」
「他国に行けばいくらでも実験体を出してくれる国はありそうだけどな」
「正解。でもね。忍神様はガチガチの保守派なんだよ。他国に高飛びしたら、どこまででも追いかけて殺すって脅されてるんだ。だからそれは出来ない。そういうわけで、現状ではレベル200にすることができたのは玲香君だけだ」
「あなたはそれを変えたくて、もっとレベルを上げたいと?」
「その認識でいいよ。レベルが上がるほどに創るのが難しくなっていくんだ。つまりアクセス権の強化を人工的にするのが難しくなる」
「目標は?」
「レベル1000と言いたいところだけど、おそらく僕にそこまでの探索者としての才能がない。当面の目標はレベル500を超えたい。そこまで行けばまた違う道も見えてきそうな気がするんだ」
米崎はコーヒーを全て飲んでしまった。そうすると桐山さんがタイミングよく、カレーパンをテーブルに乗せた。
「甘いものの、あとのカレーパンは最高だ。君も食べるかい?」
そんなことを言われると、自分も食べたくなって頷いたら、俺の前にもカレーパンがおかれた。トースターで少し焼いてくれているようで、熱くてこんがりしたカレーパンは美味しかった。米崎はさらにそれを三つも食べた。
「話は少し前後するけどね。物質を究極まで圧縮するとシュワルツシルト半径というものを超える。越えるとブラックホール化して曲率が無限大になる。一般的な物理法則が何も通用しなくなる空間だね。そういう不思議な空間が当然のようにあるのがこの世でね。そして、この世界の隙間にも不思議な空間があると僕は思ってるんだ」
「隙間の空間?」
「そうさ。この世が実はデジタルで構成された世界並にスカスカで、プログラムでちゃんと決めてあげないと通り抜けてしまう程度のものなら、隙間の方がはるかに大きく存在しているわけだ。そしてその隙間ではブラックホールと同じく。物理法則が捻じ曲がって存在している」
「つまり?」
よくわからなくて、俺は首をかしげた。
「わからないかい? 手が合わさる条件。物質が干渉しあう条件。それらをすべて捻じ曲げた世界。もしそれがあるとすれば?」
「ああ」
そうか、それは俺が考えていたことと符合する。そう米崎は言いたいわけか。
「魔法の炎や氷や水も、そしてスキルを発動したときにあらわれるもう一つの手も、実はすぐ近くにある。いや隙間にあるってことか?」
「そう。魔法やスキルとはつまるところすぐ近くにあって、この世界とは違うロジックで動いている物質をこの世界のロジックに変えて能力として表出しているものだとしたら?」
それが本当なのかどうかは俺には確かめられない。しかし、それを本当であると証明するように米崎は人工レベルアップに成功した。世界の隙間に別の幾つもの世界が存在し得るのだと米崎は見つけたわけか。
「実際に不自然なほどこの世界の真空にはエネルギーが溢れてる。そのエネルギーは別の物理法則で成り立っている世界からのものというわけだよ」
「別の物理法則で成り立っている世界にアクセスする方法。それがステータスであり、人工的にそれに接触することで、人工レベルアップが可能になるわけか?」
「ちなみに原理がわかるとこういうこともできる」
米崎が手を振った。そうすると先ほど桐山さんによってきちんと片付けられた雑然とした大量の本が、再び元の場所へと戻っていく。桐山さんの顔が激しく引きつったのは言うまでもない。魔法で本が動かせるようになったとして、それを整理するためではなく散らかすために使うのは米崎だけだろう。
「へえ、こうかな?」
俺はダンジョンが【蛇行撃】をスキルだと認めてくれた時のことを思い出した。【蛇行撃】の軌道は、普通の物理法則の中で刀を振れば無理な軌道だった。それでもできたのはこの世の何かに直接干渉したからだと思えた。
そして米崎が今したこともそうなのだと思えた。俺はそれにならって一つの本を浮かせてみせた。
「なるほど……確かに隙間に何かあるな」
そう感じた。
「六条君。今、レベルは?」
「23です」
「23でできるか……。僕よりも早いね」
「褒めてますか?」
「大いに」
「ありがとうございます」
「きっと、ダンジョンやこの世界でも成り立つ不思議な力の表出は、そう遠くの話ではないはずだと考えた学者は多いはずだよ。でもそういうことを考える連中はあまり戦いに向いてない。それでもダンジョンを理解するにはどうしてもレベルを上げる必要がある。そのままのプレーンな脳ではとても世界のプログラムに対する理解が追いつかないんだよ」
「そして必要に迫られてダンジョンに入った学者は大抵死ぬわけだ」
千川華代のように。
「俺は知能に関してはそこまでの恩恵を感じないけどな」
「それは君が上がった処理能力のほとんどを戦闘に向けているからだ。でも、君はそれでいい。ダンジョンに入ってレベルを上げることを目指すなら、それが一番いいからね」
「その人の興味が向いている方向に一番レベルアップの恩恵がいくわけか」
「そういうことさ。それが僕は知能に向いていた。僕の知能のステータスは2512だ。これは普通の高レベル探索者よりも高いらしいよ。まあ知能だけだけどね」
「ダンジョンとは要は神様みたいなものなのか?」
「僕はそう考えているよ。この世をプログラムしたもの。最初の創造主」
思わぬところで宗教じみてきた。しかし、この先科学が進んで人が人間を創ることができたら、その究極の進化系は世界を創ることだという話はダンジョンが現れる前からあった。それが真実だったとダンジョンが現れたことで証明されたわけか。
「でも不思議だな」
「何がだい?」
「米崎さん。どうしてダンジョンは今になって急に人間に干渉してきたんだろう。干渉する必要があったと考えるべきか。だとすると、その理由はなんだったんだろう?」
「うん」
米崎はとてもいい顔で笑った。
「それだ。僕もそれにとても興味があるんだよ。だから僕はね、下に降りたいんだ。ダンジョンの奥の奥100階層にその秘密があるんじゃないかって期待しているんだ。ああ、それと米崎さんはやめたまえ。米崎でいい」
「……米崎? いいんですか? かなり年上ですよね?」
「いいよ。かしこまってしゃべるのは疲れるだろうし、好きに呼びたまえ」
「じゃあ米崎」
「それでいい。ともかく、ステータスがダメになっているという2人を連れてきなさい。ちゃんとしたステータスに戻してあげよう」
「本人たちだけをこさせてもいいですか?」
残りの自由時間はもうそれほどない。その間にもう少し小母さんのレベルアップを手伝ってあげたかった。ここでレベルアップさせればいいとも考えたが、小母さんは今回の件に関してなんの関係もない。なんの関係もない小母さんのレベルアップを頼むということは米崎に対するただの借りになる。
「いいけど、事前に来る日は連絡をいれておくんだよ。ここは結構うるさいからね」
「分かりました」
「ふ、分かりましたか。まだしゃべり方が安定していないね。普通に喋っていいよ。ついておいで。少しここを案内してあげよう」
そんなことを言う米崎は珍しいのか。桐山さんが驚いた顔をしていた。そのあと施設を案内されて、レベルアップの細かい方法についてなども教えられた。その内容が以前の自分なら理解できなかったのだろうが、理解できてしまうことで、ステータスが上がることの凄さが改めてわかった気がした。
「——じゃあね。またおいで」
米崎は最後にそう言うと研究室に戻っていった。残されたのは俺と桐山さんで、彼女が出口まで案内してくれた。
「六条さん。一つ尋ねてもいいでしょうか?」
桐山さんが不思議なものでも見たように俺に聞いてきた。
「何ですか?」
「米崎博士はどういう人なんでしょう? もともとああいう人間だったんでしょうか?」
「それは桐山さんの方が詳しいのでは?」
「私が博士を直接知ったのは本当に最近のことですよ。地方の大学だったというのは聞いたことがあります。そこで生物学部の助手をしていたと」
そう聞くと、米崎もダンジョンに入ったことで人生がかなり一変した人間の一人なのだと思った。
「俺は米崎のことはほとんど知りません。ただ仲間にしたいと思っただけです」
「博士を仲間に……。そんな人がいるんですね」
「本当ですね。でも俺は今日、自分のその勘は間違ってなかったって思いました」
「まあ確かにあれほどダンジョンを理解する人間も少ないでしょうし、私も…………」
桐山さんはそこから喋らなくなり、玄関ホールを抜けて外に出たところで、周りに人がいなくなったのを見てその言葉を言った。
「ちゃんと探索者をしている人間から見れば、私は相当愚かに見えるのでしょうね」
自嘲気味につぶやいた。レベルアップするために、彼女は自分の人生を米崎に売り払ってしまった。その選択は確かに愚かだ。
「そんなふうに自分のことを考えない方がいいと思いますよ」
「あら、ダンジョンで成功している六条さんが、失敗した私を優しく慰めてくれているのですか?」
それは皮肉めいた言葉づかいだった。本来なら優しげな瞳が、鋭くなっている。
「別に慰めたつもりはないですよ。ダンジョンにはあなたよりもっと悲惨な人がたくさんいますしね。きっとそういう失敗した人たちの中で、米崎の誘いを断れる人は少ないんじゃないかな。俺も失敗していたら、きっと自分の人生と引き換えにして、レベルアップを望んだ」
「それが悪魔との契約でも?」
「ええ、それぐらいレベルアップしたかったから。レベルアップさえすれば人生が変わると思ってました」
「そう。そうよね……。ごめんなさい。くだらないことを聞いたわ」
「自分のしたことを後悔しているんですか?」
「そういうわけではないの。ただ……。いえ、やはりこれしか道はなかったわ。私は凡人のままで終わりたくなかった。私は国連で働いていた。結構なエリートだった。自分は選ばれた人間だった。でも、私が施しを与えていた人たち。それが私より賢くなった。この世で一番愚かだと思っていた妹がどんどん綺麗になり、私より賢くなった。私はそれに焦った」
「この世は皮肉なものですね」
「ええ、まったくよ」
話していたら俺のバイクがある駐輪場にまで桐山さんは付いてきていた。ゆっくりとメットをかぶった。
「六条君」
「なんでしょうか?」
「博士には気をつけなさい。あれは自分のためになんでもできる人よ」
「でしょうね」
バイクのエンジンをかけた。うるさくて気持ちの良い振動が体に伝わってくる。
「それじゃあ」
桐山さんはまだ何か喋りたそうに見えた。だが俺はエンジンを吹かすと、バイクを出して、それ以上は何も聞かなかった。





