白銀の円環をあなたに
『まだ結婚していないのか』
先日、元同僚であり友人のダリウスが自宅に訪問した。彼が帰り際にそうこぼした事が、数日経っても頭に残っている。
最初はてっきり同棲してると思ったし新婚夫婦ばりのいちゃつきを見せられて砂糖吐くかと思った、と本人に対して堂々と宣った彼は、ヴィルフリートとエステルがまだ婚姻を結んでいない事に大層驚いたようだった。
『エステル様は、あんなにヴィルフリートが好きって全身で主張してるし、お前はお前でエステル様が愛しくてたまらないって態度出してるのに、未だに結婚してないのが意外でさ。ああいや俺には推し量る事も出来ないような事情があるかもしれないけどさ』
これに答えるのにつまったのは、自分が決心がついていないからだろう。
確かに、ダリウスの言う通り、事情はある。先に全てが片付いてからでなければ同棲はしないと自分で言ったし、片付いても筆頭魔導師の業務に慣れるまでは後回しにするつもりだった。
そして、もう大体慣れてきてしまった。
ディートヘルムや、まさかのイオニアスも好きにしろと許可を出している状態で、なあなあの関係でいてよいものか、と自身ですら思っているのだ。他人から指摘されればより刺さる。
もちろん、婚姻は結びたいしエステルの夫にはなりたい。
しかし、それを言葉に出す事をためらっている、と言えばいいのか。
「……準備は、出来てますけども」
呟いて、ヴィルフリートは自宅に置いてきた小さな箱を思い出して、そっとため息。
先日、ようやく出来上がったもの。
青のベルベット地の箱、その中にはエステルの瞳の色をそっくりそのまま落とし込んだような宝石が飾られた、白銀の円環が納められている。指のサイズも寝ている間に測っているので間違いはない筈であるし、品質については当然一生ものなのでよいものを選択している。
あまり装飾品に興味がないヴィルフリートでも一目でよいものだと認識出来るし、なんならディートヘルムのお墨付きだ。
ディートヘルムには指輪が出来上がった際に、知られるのは若干不本意ながら見せた。その際にいつでも屋敷に来るといい、との準備万端な事も伝えられた。
本当にあとはヴィルフリートが切り出すだけ、ではあるのだが。
(……懸念事項というか、あの子は結婚にどういう感情を抱いているのか)
エステルは、普通恋人が歩んだ先の結婚をあまり意識していないようにも思える。
一緒に居たい、という気持ちはひしひし伝わってくるし好きだという感情もよく分かる、けれど思考がいまいち結婚まで結び付いていない、といった感じだろうか。
エステルの境遇上、夫婦という存在に馴染みがなく、親という存在にあまり期待がないのも、仕方ない事ではある。だから、結婚というものにあまり意義を感じていない……のかも、しれない。
そんなエステルに、言っていいものか――そう悩んでいたヴィルフリートだったが、廊下で聞いた魔導師の声に頭を殴られたような衝撃を覚えた。
「親から筆頭魔導師様の血をどうにかして家に取り込めないかって言われたんだが。無茶ぶりすぎないか」
「名の知られた魔導師の家系だもんなお前んち。お前は家が嫌で飛び出してきたけどな」
「うっせ」
「まあでも、お前んちの親の意向も当然っつーか、あんだけ強ければなあ。あれだろ、イオニアス様がエステル様の兄だったって話だし……魔導師を代々輩出する家系なら、二代続けて筆頭魔導師を出した血は欲しいよな」
「いやさあ、でも俺じゃまず無理だろ。そもそもあの方婚約の申し込みが沢山きてるんだろうし」
「あー」
「あんだけ美人で強ければなあ」
たまたま通りかかった際に聞いた言葉だったが、思わず声を上げそうになって、慌てて唇を閉ざした。
何も、おかしな事ではないのだ。
現状ヴィルフリートがエステルの恋人であり、ディートヘルムもそれを認めているから、特に何事もないように見えるだけで、おそらくディートヘルムの元にはエステルへの求婚の手紙が届いているだろう。
元から分かっていた事ではないか。エステルは人の視線を奪うような美貌の持ち主であるし、筆頭魔導師に就いた事で周囲に正当な評価を受けたのだ。
当然、能力、外見、地位、本人の人柄、それぞれを目当てに言い寄ってくる男達は現れるに決まっている。
エステルが今更別の男に心移りするなんて露とも思っていないが、それでもヴィルフリートには不愉快だった。独占欲はそこまで強くないと思っていたのに、やはり、面白くない。
うじうじと悩んでいる間に他の男が言い寄ってきているのだから、自業自得とはいえ、煩わしいものは煩わしい。
自分が、ちゃんと関係を変えないから、エステルに寄ってくる男が居るのだ。
(今日、言おう)
今まで悩んできたのが嘘のように、決心がついた。
エステルが夫婦という関係にあまり希望を抱いていないのなら、自分が幸せにすれば何ら問題ない。大切に慈しみ愛おしみ隣を歩いていけば、エステルは少しずつでも分かってくれるだろう。
急がせたりはしない。ゆっくり、ゆっくりと、エステルに理解してもらうつもりだ。
そう決めたらヴィルフリートの頭はすぐに回転し始め、今日はさっさと業務を終わらせて定時に帰宅できるようにしよう、と執務室の机の上にある書類の量を思い出しながら急ぎ足でエステルの下に戻った。
「エステル、大切なお話があるので、少しお時間をいただけますか」
帰宅して、ヴィルフリートは夕飯の準備をするでもなく、エステルにそう告げた。
目の前の少女のすみれ色の瞳が咲いたり閉じたりを繰り返しているのが愛らしいが、いつまでも眺めている訳にもいかない。
ヴィルフリートの真剣さが伝わったのか、不思議層ながらも居住まいを正して向き合うエステルに、ヴィルフリートはゆっくりとその顔を見つめ返す。
「俺達の今後についての話し合いをしたいのです」
「は、はい」
「まず、ですが……改めて確認してもいいでしょうか。エステルは、俺を変わらず好きですよね?」
「それはもちろん!」
即座に勢いよく頷いてくれたので、わかっていてもつい安堵してしまう。
「そこが変わる訳ないですっ、そう思われたなら心外ですー」
「ありがとうございます。俺もそこは心配してないんですが、念のためですから」
ヴィルフリートとてエステルがヴィルフリート以外を選ぶなんて思っていないのだが、前提が万が一、億が一崩れてしまっても困るから聞いただけである。
そう言い訳を考えておいて、でもやっぱり自分はどこか不安がっているのかもな、と内心苦笑しつつ、疑われてちょっぴり拗ね気味のエステルを改めて見つめた。
「あー、その、なんというか。……俺は、エステルが思うよりも、ずっと、わがままで、嫉妬深くて、不器用な男なんです。どうしようか、すごく悩みましたが……結局のところ、あなたには直接言うのが一番だと思いました」
沢山悩んで、ためらって、暗に伝えようとして、でも失敗して。
エステルにはまっすぐな言葉と眼差しで伝えなければ、伝わらない。
余計な飾りなど要らない。
ただ、彼女を想い彼女を欲するその心と言葉だけで、きっといいのだ。
「俺は、あなたを愛しています。生涯支えて、寄り添って行きたいと思っています。あなたが思うよりも、ずっとあなたの事を愛しています。あなたを、大切にしたい。あなたの側に居たい」
「ヴィル、」
「――ですので、婚約をしていただけますか」
「え……?」
婚約、という言葉に、エステルの瞳はぽろっとこぼれおちそうなくらいに開かれる。
いきなりの言葉に困惑を隠せていないエステルだが、ヴィルフリートももう婉曲に伝えるつもりはない。
エステルの返事を待ちこそするが、心の底からわき上がってくる衝動を隠すつもりもない。
直接的な言葉で、ありのままの想いを伝えるしかないのだ。
「お付き合いとか、そういうのでは足りません。俺はあなたが欲しい。あなたを大切にする権利が欲しい。あなたを大切にしたい。だから、婚約をしてください。本来なら結婚をすぐにでもしたいですが……互いに準備がありますので。確たる約束をして欲しいのです。俺のものに、なってくれるって」
結婚、とどこか呆然と呟いたエステルに、想いを言葉にしてゆっくりと染み込ませていく。
エステルはヴィルフリートのものだし、ヴィルフリートはエステルのもの。それは互いに自覚しているが、それを名実共にしたいという気持ちは、ヴィルフリートの思いの方が強い。
ヴィルフリートが初めて愛しいと思った少女を、手をこまねいたせいで失うのが怖かった。そんな事有り得ないと頭では分かっていても、ちゃんと関係に名前をつけるまで、不安なのだ。
エステルにとっては、唐突なのかもしれない。拒絶の気配こそないが、明らかに困惑していた。
彼女にとって結婚という選択肢が思い浮かんでいた訳ではないのだ、そんな事を切り出されれば戸惑いもするだろう。
それでも、後には引けないし、引く気もない。スマートさも余裕も欠片もない自分に自嘲しそうになりつつも、ヴィルフリートは目の前のあどけなさの残るかんばせを注視し続ける。
「幸せにします、絶対に。あなたを一人にはしません。あなた一人にすべて背負わせたりしません。……あなたが死ぬその時まで、お側にいさせてください。あなたの夫になりたいのです」
「……家族に、なってくれるのですか?」
「ええ。あなたの家族に。あなたの伴侶に」
「……私が、夫婦とか、よく分からなくても……?」
不安げに問いかけてくる彼女の瞳を見れば、すぐには頷かない理由が分かった。
「私は、本当のお父さんもお母さんも、知らないし……夫婦が、どんな生き物なのかも、分かりません。私は、夫婦のかたちなんて、知りません」
エステルは、ヴィルフリートが求めるものが返せるか分からないから、ためらっているのだろう。
本来受けるべきだった、知るべきだった親からの無償の愛情を得られなかったエステルにとって、夫婦というのは、親というのは、知識はあったとしても現実味のないものなのだろう。
「そんな私でも、奥さんになれるのですか……?」
知らないから、なれるか分からない。
ヴィルフリートが妻として求めてきても、本当に自分は妻として応えてあげられるのだろうか。
そんな葛藤を含んだ眼差しに見つめられて、ヴィルフリートは唇は動かさず、けれど手を動かし、エステルの手を握る。
「いいのですよ。夫婦の在り方は誰かに決められるものでもありません。あなたが、俺の隣であなたらしくいてくれたら……それで、いいんです」
正直なところ、夫婦らしい振る舞いなんてヴィルフリートにも分かりはしない。
本来手本になるであろう自分の両親は、どちらかといえば互いに自立していて、たとえば一般的な内助の功を果たすような母親と家庭を妻任せにして仕事をこなす父親、というのには当てはまらない。どちらも対等であり、子供達にもそういうスタンスを見せていた。
そういう例があったりすれば、逆に知り合いの両親は妻が夫を支えて上手くやっている。
別に、夫婦はこうであるべき、なんてものはないのだ。
夫婦のかたちなんて知らなくても、自分達が夫婦であれば勝手に出来ていくものであり、エステルがありのままでいてくれたら、それでいいのだ。
「そんなに不安なら、俺がどんと構えてますから。あなたらしくしてくれれば、勝手に俺があなたを妻として接しますし。……知らないなら、全部教えます。怖いなら、一緒に居ます。俺達は、俺達らしく夫婦になればいいんです」
「ヴィル……」
「あなたを一生大切にします。ですから、俺の奥さんに、なってくれますか」
じわ、と滲んだすみれ色の瞳が、閉じられる。
それは、悲しみからではなくて、喜びからだった。
「……はい」
か細く、しかしはっきりと承諾したエステルに、ヴィルフリートは懐から指輪を取り出して、ガラス細工を扱うような丁重な動作で、華奢な左手薬指にはめる。
ぴったりと、それこそ元々そこにあったかのように鎮座する指輪は、エステルの瞳そっくりの輝きを放っていた。
た
指輪まで用意されていたとは思っていなかったらしいエステルが驚きに目を丸くしたので、ヴィルフリートは「ずっと用意してるって前から言ってたでしょう」と笑って、軽くエステルの唇に噛みついた。
あくまで優しく口付けて、少しでもこの身の内にある歓喜を分けようと触れ合っていれば、エステルから背に手を回され、求めるように口付けてくる。
最近は恥ずかしがってあまりしてくれなかったエステルからの触れ合いに、眼差しや口付けにも自然と熱がこもる。
すみれ色の瞳が時折口付けの間もこちらを窺ってくるので、同じように見返して、互いに少し気恥ずかしくなって、唇を重ねながら笑った。
「ずっと、あなたの隣に。もう離してあげません」
言葉でも仕草でも気持ちを伝えてくるエステルに、ヴィルフリートも口許が綻ぶ。
「俺も離すつもりはありませんよ。あなたは、俺のものですから」
白い指に飾られた指輪を撫でながら、ヴィルフリートは婚約者となった愛しい少女を抱き締めて、自分のものだと誇示するように包み込んだ。
マダケッコンハシマセン




