幸せを願う者が諦めた幸せ
真っ暗闇。
少なくともヴィルフリートが認識した限り、自身を包む空間は僅かな光さえささず、ひたすらに真っ暗な、闇という概念そのものの中に放り出されたような感覚があった。
それでいて、自身だけは淡く光ったように認識出来ており、闇の中に一人浮かんでいる。
ヴィルフリートはゆっくりと周囲の闇に同調するように、自己と闇の境界を曖昧にするように、緩やかに意識を溶け込ませていく。
ここは、現実世界ではない。意識だけが奥深く――大地に沈んだ状態なのだ。
今だけは肉体というくびきから解放されているヴィルフリートは、自分と自分でないものの感覚二つを別々に、けれど同じもののように捉えながら、ひたすらに感覚を研ぎ澄ませていく。
同調した大地の脈に滞りがあればそこを正し、淀みがあれば膿を吐き出すように追い出していく。傷ついた部分があれば修復し、欠けた部分があれば補うように魔力を流していく。
時おり流れ込んでくる痛みや飢えた感覚には、感じ取らないようにそこだけ自己と切り離して、けれど的確に損傷の程度を把握し修復補填する。
確かにこれはメンテナンスだ、とエステルに言われた言葉を思い出す。
ただし、自分にも下手をすれば影響が来そうな、ある種命がけのメンテナンスだろう。
幸いと言っていいのか、エステルとヴィルフリート二人がかりで頻繁に大地に接続して修復しているためか、大地の綻びは直ってきているし、膿も少量ずつ、人間が困らない程度に排出されるようになってきている。
そうすると自然とこちらの負担も減ってくる。もちろん二人で交代しているので、その負担は最初から小さい。
意識が肉体に戻った時、体が尋常なく怠い、なんて事にはならないので、ありがたかった。
ひとまず粗方終えたのて、他に大地に異常がないか、ゆっくりと魔力という目を巡らせて確認する。なければ、そのまま今回の役目はおしまいとなるだろう。
国の地図を思い浮かべて、土地の栄養状態が悪くなりがちな場所だったり魔物の発生率が高い場所だったり、そんな場所を重点的にチェックしていく。
言葉で言えば簡単なのだが、この特定の場所に神経を集中させる、というのが中々に難しいのだ。大きな異常があれば感覚で分かるのだが、予防や点検として特定の場所を徹底的に診るとなると、慣れてきたとはいえまだまだなりたてなのでかなり労力がかかる。
集中して大地の状態を診て、問題なさそうな事に安堵して、体から離れているとはいえ安堵の吐息をこぼす動作をした。
こうして同調していると、暗闇を捉えていた目(といっても実際に肉体にある目で見ている訳ではないので感覚なのだが)に、色々な場所の光景が流れてくる事もある。
役目の時限定の千里眼、といえばいいのだろうか。視界的には俯瞰の図で、その場所の現在を見せてくれる。
これを自在に操れれば便利なのだろうが、今のヴィルフリートには勝手に流れ込んでくる光景なので、緻密に正確に描かれた風景画を見ている気分になるのだ。
『ヴィルフリート』
今日は魔物にも人間にも踏み荒らされた形跡のない美しい草原を眺めていると、声がかかる。というよりは脳裏に響く。
「どうかしましたか。チェック漏れでもありましたか?」
『ううん、そんな事はないよ。体調……というか、大地自体は、調子がいいと思う』
「そうですか、それならよかった。……何かありましたか?」
大地の意思であるロゼは、何も役目の度に声を聞かせてくれる訳ではない。安らかに眠っているらしき時は、こちらから声をかけても反応がなかったりする。
ようやく、意識を常に覚醒させていなくてもいいような、苦痛に起こされる事のないような、安全な大地の状態になったので、それも仕方のない事ではあるのだが。
『ん、と。……聞きたいことが、あったの』
「聞きたいこと、ですか」
『……イオニアスは、元気?』
聞かれたのは、やはりというかイオニアスの事だった。彼を心配したが故にヴィルフリートに接触してきたロゼなので、当然と言えば当然なのだが。
一応、本人もこの国の中であればある程度視る事が出来るらしいが、ヴィルフリート同様(といってもこちらよりはかなり楽らしいが)神経を使うようであるし、人の営みにあまり干渉したりしないようにしているらしくイオニアスの事をなるべく視ないようにしているようだ。
本人いわく『不必要に視られていると知ると、あんまりいい気分はしないだろうし……』だそうで、かなり配慮している模様。
「元気ですよ。最近では体調もよくなってきたみたいですし。仲良くエステルと口論してます」
『そっか……よかった』
果たして口論は仲良いのか、と突っ込みが入ると思いきや、スルーして安堵している。
十年も見守り続けたロゼにしてみれば、イオニアスが素直でないのは分かりきった事だろうし、そういったコミュニケーションの取り方なのだろうと納得しているのだろう。実際、そうなのだから。
姿こそ見せないものの、声音に込められたのは紛れもない安堵と歓喜。心底イオニアスが救われてよかった、と思っているようだ。
そして、それ以上は望んでいないようにも、思える。
「……ロゼは、イオニアス様に幸せになって欲しいのですよね?」
『うん。……イオニアスは、幸せになるべき。……国、ううん、王家の都合に振り回されて、一生を終えるなんて……やだもの』
「……一つ聞いてもいいですか?」
『なに?』
「無礼を承知で聞きますが……あなたの、イオニアス様に対するその感情は、同情ですか?」
少し、不思議に思った。
ロゼはイオニアスを救いたがっていたし、幸せになるべきだと願い続けて見守り続けた。その思いはどこから来ているのか。
かつてのロゼは、自分のようになって欲しくない、と言っていた。つまりは彼と自分を重ねて、同じような目に遭うのが見たくない、という事だ。
それは、恐らく同情が多分に含まれている。それは間違いないと思う。
ただ、それだけなのか。それだけで、ロゼはイオニアスを大切にしたいと思ったのか。他の感情も含まれているのではないか。
たとえば、愛情を抱いているとか。
しかしながらそれを直接的な言葉で聞くのも野暮というか、流石にそこまで個人的な事を聞いても不愉快かもしれないので、あえてどうとでも答えられる風に聞いたのだが……返ってきたのは、少し悩んだような、ためらいの空気だった。
『……同情がないといったら、嘘になる、けど。大切にしたいと思ったのは、本当だよ。今まで筆頭魔導師になってきた子みんな、いとしいけど……イオニアスは、特別』
特別、と言った際の声音は、少しだけ、憂いを帯びた切ないものだった。
少し、聞いた事を後悔した。
「……そうですか。……イオニアス様も、あなたに大切にされている事は、分かってますよ」
『そうだといいな。少しでも、記憶に残せたら、それで。あとは、幸せになってくれたらいいの』
酷な事を言わせてしまったと気付いても、それは後の祭りだろう。
決して多くは望まず、本心からそう答えた彼女は、姿は見えずともきっと微笑んでいるのに、どこか物悲しい表情をしているに違いない。
肉体を持たない、自分からではイオニアスと意志疎通出来ない、そしてこの場所から離れる事の出来ない 彼女にとって、どれだけ望んでもイオニアスに直接してやれる事などないに等しい。
本当なら、嘆き怒り震えるイオニアスを、直接抱き締めてやりたかっただろう。声をかけて励ましてやりたかっただろう。
それを出来なくしたのは、贄をよしとした過去の人間だ。
『……ヴィルフリート、変な事考えなくてもいいよ』
「え?」
何を考えているか、気付かれたらしい。憤りで意思が漏れたらしく、ほんのりと伝わったようだ。
『この身になって、不相応な願いは、捨てているもの。それに――』
「それに?」
『……わたしはわたしの事をあんまりおぼえてないけど……でも、わたしは昔、その人達に、なにかしたと思うから』
仕返しをした、という事だろうか。
穏やかで寂しがり屋で情に厚いロゼが罰を与えた、というのもあまり考えられないのだが、本人がうろ覚えながらそう言うのなら、そうなのだろう。何百年もこの地に留められれば記憶も薄れるであろうが、それでも仕返しをした記憶があるならば、捧げられた溜飲もほんの少しだけ下がったのかもしれない。
未だに、ロゼがどこの誰で、誰の手によってこのような贄にさせられたのか、そもそも何故このような歪んだ在り方が出来てしまったのか、ヴィルフリートにはわかっていない。
彼女を自由にしてやれたら、どれだけよかった事か。
出来る訳がないと分かっているからこそ、ヴィルフリートの出来る範囲で、ロゼの事を、調べようと思った。
この誰かの犠牲に繁栄していくシステムを壊す事が出来ずとも、最初の犠牲となった少女のかつての姿を知る事くらい、望んでもいいだろう。それがロゼの幸せに繋がるかは、分からないが。
「……俺は、イオニアス様だけでなくて、あなたも幸せになるべきだと思っていますよ」
『……ありがとう。気持ちだけで、すごくうれしい』
期待していないというよりは無理だと諦めたロゼが穏やかに返した言葉に、ヴィルフリートは唇を結んだ。




