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ヴィルフリート宅での一時

エステル視点です。

 ヴィルフリートの家に泊まると、いつも朝起きる時は朝食の匂いが漂ってくる。元々ヴィルフリートの家は間借りしているものであり一人暮らしなのでそう広くないため、キッチンが寝床に近いせいだろう。


 だが、エステルとしては、大好きなヴィルフリートの作る料理で目覚める事が出来るのは贅沢のような感覚だ。

 目覚め始めは、意識が真っ白な海の奥深くから浮上して表面をたゆたうような感覚。瞼が重くて目を開く気に中々なれずにいたが、パンが焼けるような香ばしい匂いがふと鼻腔を擽り、緩やかながらに気だるげな瞼が持ち上がっていく。


 そういえば昨日保冷庫にこねた生地を寝かせていた気がする、とぼんやりした頭でそんな事を考えながら、エステルはやはりまだまだ心地よい倦怠感の残る体を働かせて起き上がった。

 当たり前だろうが、隣を温めている筈の存在は隣には居ない。それが少し物足りなくてほんのり寂しさを覚えたものの、瞼をこすってキッチンの方を見れば、見慣れた後ろ姿がある。


 その事にほんのり安堵しつつ、まだまだ寝たりないとあくびで訴えてくるので、眠気を振り払うように一度口許を押さえつつぐっと背伸びで固まった体をほぐしていく。


 わがままを言って急遽泊まらせてもらったので、身にまとっているのはヴィルフリートのシャツ。

 体格差があるのでだぼだぼゆるゆるのやや不格好な姿なのだが、ヴィルフリートが何故だか悶えたのは昨日の事である。何でも非常にそそられるらしい、エステルにはよく分からない感覚なのだがよいものなのだそうだ。


(よく分かんないですが、私もヴィルのシャツ着られて満足ですけどね)


 袖がずり落ちてくるのも構わずに背伸びをしたところで、ようやく頭も回ってくるようになったのでキッチンに居るヴィルフリートの元にとてとてと若干緩慢な動作で歩み寄る。


 ヴィルフリートはというと、足音で気付いたのか声をかける前に振り返って、それから一瞬顔をしかめた。

 無言で歩み寄って、エステルが着ているシャツのボタンを丁寧に合わせる。寝ている間に二つほど開いていたらしく、律儀に直してからようやく視線を合わせてくれた。


「おはようございます。朝食はもう少しで出来ますから、用意している間に顔を洗って着替えていらっしゃい」

「おはようございますー。……直す必要ありました?」

「俺の精神衛生上必要でした。ほら、着替えてらっしゃい。服はいつぞやの時に置き去りにしたものがあったでしょう」

「はぁーい」


 たまに許してくれるお泊まりで、先日一着服を置いてかえった事を思い出す。寝間着も置いていたら楽だったのに、とヴィルフリートが小さく呟くので、今度はお泊まりセットを置いて帰ろうと決意するエステルである。


 ゆったりした動作は変わらずにクローゼットから自分の服を取り出して、ベッドに座りつつシャツを脱いでいく。

 ヴィルフリートのシャツを脱ぐのはやや名残惜しくて、のんびりと脱いでいたらまた眠気が襲ってくるのだから困りものである。


 ヴィルフリートのベッドは、落ち着く。


 ついうとうととボタンをはずす手が止まってベッドでぼんやりとしてしまって、どうやら朝食の準備が整ったらしくテーブルに皿を並べようとしていたヴィルフリートがこちらをぎょっとしたように目を見開いて見てきた。

 すぐさま微妙に気まずそうに視線を逸らして、赤らんだ頬を隠すように掌で顔を押さえ始める。


「……エステル、着替え途中で寝ない」

「ねむいです」

「……俺に着替えさせられたくなかったらさっさと着替えて……いやあなたは気にしなさそうなので自分でさっさと着替えてください」


 別に、ヴィルフリートに着替えさせられてもエステルは気にしない、という訳でもない。先日のような色気を振り撒いた表情や眼差しで脱がされると妙に恥ずかしくなりそうだ。

 体に口付けられたりすると、なんというかもどかしさと恥ずかしさを感じて、おかしくなってしまう。


 思い出したらなんだかまた恥ずかしくなってくるので、開きかけた前を閉じてヴィルフリートを見上げると、何故かヴィルフリートが戸惑っていた。


「……あー、俺はキッチンに居ますから、そんな顔なさらないでください。こっちが恥ずかしくなります」

「ヴィル……?」

「……ほんと、少しずつ自覚が出てきたのはいいんだが、俺がいたたまれなくなる」


 珍しく敬語が取れたという事は、ヴィルフリートが素で漏らした言葉なのだろう。

 自覚、と言われてもいまいち分からなかった。何に自覚を持ったというのだろうか。いたたまれないとは何の事なのか。


 ちっともヴィルフリートの言いたい事は理解出来なかったが、ヴィルフリートの前で着替えるのが、少し恥ずかしくなった気もする。


「とにかく、俺は見ないようにしますから、早く着替えるなり脱衣所まで行って着替えるなりしてくださいね」


 もぞ、とつい体を縮めてしまえば、ヴィルフリートがため息混じりに告げて、くるりと背を向けていく。

 それが何だか寂しかったものの、見られている中着替えるのも恥ずかしいので、助かったのかもしれない。


 ぷつ、ぷつ、とシャツの前を開いていきながら、エステルは口の中に蟠る羞恥を飲み込んでそっとため息を落とした。




 着替え終わった頃には食事も用意できたのか、食卓にはヴィルフリート手製の料理が並んでいた。

 焼き立て特有の匂いを漂わせるきつね色に焼けたパンはヴィルフリートが昨日から生地を仕込んだもの。形は単純な丸型で、凝った成型をするよりエステルの食べる量を優先してくれたらしい。

 栄養を考えたのかサラダやオムレツ等彩りもよく品目も多いので、わざわざ手作りしてくれたのだと思うとじんわりと胸が暖かくなる。


 ヴィルフリートは朝そこまで食べないので、エステルに用意した料理量よりかなり少ない。

 エステルがよく食べると言ってしまえばそうなのだが、ヴィルフリートは少食ではないものの成人男性にしては食事量が少ないのではなかろうか。


「エステル、顔を洗っていらっしゃいな」

「はぁーい」


 用意周到な事にタオルを手渡されたので、素直に受け取って顔を洗いに行く。

 帰って来た頃にはヴィルフリートも椅子に座っていたので、エステルも笑顔で対面に座る。


「目が覚めましたか?」

「完全に目が覚めました!」

「それはよかった。食事の準備も出来ていますので、どうぞ」

「はーい。じゃあ遠慮なくいただきますね」


 冷めるのを厭って大急ぎで身嗜みを整えてきた甲斐があってか、はたまた保温の魔法をかけていたせいか、用意されていた朝食はきっちりと適温に保たれていた。

 ふんわりと焼けたパンを指で千切って口に放り込めば、素朴な味わいと出来立ての香ばしい匂いが口に広がる。


 基本的にはヴィルフリートもパン屋で買うのだが、たまに自家製の酵母を使ってパンを焼いてくれる。レシピさえあれば大概何でも作れるヴィルフリートにエステルがちょっと訝ったものの、ヴィルフリート曰くたしなみなのだとか。

 エステルが望むなら大概のものは作る、と言ってのけた彼に感心しきりであった。


 基本的には食べやすく量を多目に作りやすいものを選ぶヴィルフリートが作っている朝食は、飽きないようにソースやドレッシングで味付けを変えたりできるものが多い。

 自家製のトマトソースをかけたオムレツを頬張りながら、こんなに尽くしてくれてありがたい限りだなあと思うエステルだった。


 そうしてぺろりと三人前は平らげたところで、お腹が満たされた。

 いつものように美味しかったと感想を伝えて笑うと、ヴィルフリートも嬉しそうに淡く微笑む。

 すぐに皿をキッチンに持っていき洗う後ろ姿を、エステルはぼんやりと眺めながら昔の事を思い出していた。




 エステルが物心ついた時には、既に孤児院に居た。

 なのでエステルは親の顔を知らなかったし、自分を捨てた親には愛情なんてものはない。どうして捨てたのか、そんな疑問はあったが、それを口に出す事はなかった。孤児院に預けた事だけは、感謝している。のたれ死ぬよりはよほどましだったのだから。


 ただ、孤児院での生活は決して幸せなものではなかった。当たり前ではあるが豊かな生活からはかけ離れているし、エステルとイオニアスは孤児の中でも浮いていた。容姿も、魔力も。

 子供達は善悪の判断がつかないし、自分と違う生き物には敏感な故に、除け者にされていたし、可愛くいえばいじめ、悪くいえば暴行を受けたりもした。


 それでも生きられたのは間違いなく兄のお陰だ。


 誰も助けてくれなかった中で、二人で手を取り合って生きていた。

 院長はおろか職員すら助けてくれなかった。親代わりの大人はみんな見て見ぬふりをした。

 だからこそ大人は親代わりだとは思わなかった。我が身が大切なただの他人、という認識だった。


 引き取られて親となったディートヘルムは、親というよりは師という認識が強い。基本的には厳しい人であり、甘やかすという分かりやすい行動はしない人だ。

 普通の親子という形を知らないエステルには、ヴィルフリートが見せた家族の関係がとても眩しく見えた。


 そして、今こちらに背を向けて洗い物を片付けていく彼が、不思議とどこか親のような温もりを持っているように見えたのだ。


「……きっと、普通の家庭ってこんな感じなのでしょうか」


 引き取られた先が貴族(ディートヘルム)だったために、エステルは一般家庭の家族というあり方は知らない。

 けれど、こうして誰に邪魔されるでもなくゆったりとした時間をすごし、家事をこなしていくのは、きっと普通の家族のようなのだろう。


「エステル、何か言いましたか?」


 洗い物が終わったらしいヴィルフリートがタオルで手を拭きながら戻ってきたので、ソファで待っていたエステルはどう答えたものかとほんのり苦笑した。


「んー。なんか、こうしてるとヴィルってお母さんみたいだなーって」

「は、」

「お母さんって私には縁が薄いものなんですけど、書物で見た感じヴィルみたいだなって」

「……とても複雑なのですが、まあやってる事は所帯持ちみたいなものですからね。お母さんはやめて欲しいですが。せめてお父さんにしてくれませんか」


 ヴィルフリート的にはお母さんは不名誉だったらしい。

 性別的な事を言っているのではなく、雰囲気がとても家庭的だといった意味だったのだが、やはりお気に召さないご様子である。


「お母さんじゃだめです?」

「恋人の、それも男なのにお母さんと言われる俺の気持ちになってくださいな。家族になるならもっと他の形があるでしょうに……」

「はぁーい」

「わかってないですね。……いやまあいいですけどね」


 ため息をついたヴィルフリートが「一緒に暮らすようになっても苦労するなこれは……」と漏らした事によって、ふとエステルはディートヘルムに言われた事を思い出す。


『そういえば、彼はエステルと暮らそうとか言わないのか? 君達は仮にも恋仲なのだろう、イオニアスとの問題も片付いたのだから遠慮する事はないだろうに』

『うーん、ヴィルも約束してくれたんですけどね。全部片付いたら一緒に暮らそうって』

『家に困っているのならこの屋敷でいいだろう、どうせいずれはこちらにくるであろうし』

『どうせ、とは?』

『エステルがいくより彼を迎え入れた方が彼のためになるだろうに。一応それなりに名の通った家だからね。それに、私は誰かを娶るつもりはないし後釜に彼を迎えた方が楽だからな』


 なのでヴィルフリートの都合さえつけばいつでも屋敷に住めばいい、とディートヘルムは言っていた。

 エステルとしても、ヴィルフリートと一緒に暮らせる日を待ち望んでいたため、ディートヘルムの話も半分聞いていない状態でついつい夢見てしまったのだ。


「そうだ。ねえヴィル。あのね、ディートヘルムがね、ヴィルと一緒に住みたいって言ったら筆頭魔導師の区画じゃなくて屋敷にしたらどうだって。魔導院からそんなに遠くないですし、お部屋も余ってますから」


 試しに提案すると、ヴィルフリートは微妙に固まった。


「……唐突ですね。あと、そこで暮らすようになると重圧がやばそうですが」

「そうです? お兄様もヴィルが来るのを喜んでますよ?」

「絶対いびられるやつですよねそれ」

「……まあ退屈潰しにお話しするくらいですよ、多分」


 イオニアスも素直ではないのでつんけんしているが、別にヴィルフリートが嫌いという訳ではない。あまり他人と交流しようとしないイオニアスだが、ヴィルフリートには自らつっかかるようにはなっている。

 それは、ヴィルフリートに何らかの興味を抱いている、という事に他ならない。よい兆候だとすら思う。


 何だかんだイオニアスもヴィルフリートには本音でぶつかるので、決して悪い事にはならないだろう。


 だから大丈夫だと言ったつもりが、まだヴィルフリートの顔は晴れない。


「……あのですね、お屋敷に住むという事は、閣下のお世話になるという事でしょう? まだ俺には早いというか……いや将来的に恐らくエステルがうちに住むより俺がそっちに住む方がもろもろの障害はなくなるでしょうけど」

「じゃあ住めばいいのでは?」

「なんというか、そう単純にはいかないというか……」

「……嫌なのです?」

「嫌ではありませんし嬉しいですが」

「駄目なのです……?」

「……だめ、では」

「私、ヴィルとの約束ずっと待ってます。全部片付いたら一緒に住んでくれるって言ってたのに」


 エステルは、ヴィルフリートとの約束をずっと待っている。

 イオニアスの件が解決したら、筆頭魔導師の生活が落ち着いたら、一緒に暮らしてくれる。そう信じていたし、一段落するまでは待っていたのだ。

 いつまで経っても同棲はしてくれないヴィルフリートに、しびれを切らしていたのは事実。それでも待ってはいたのだが……まだ待たなければならないのか、少し不安だった。


 ついしょんぼりとしてしまって自然と眉が下がるのだが、そんな表情を見たヴィルフリートは額を押さえてしまう。


「……あー、あー、分かりました、分かりましたから。……腹はくくっていますが、まだ用意出来てないからもう少し後にしたかったのですが」

「ヴィル?」


 一緒に住む事にここまで待たせるような用意の要素があるのだろうか。家具は全部こちらが用意するつもりであるし、必要なものも買い揃えてしまえばいい。

 ただ普通に住み処を変えるだけだと思っていたのだが、どうやら彼にとっては違ったらしい。


 しきりに首をかしげるエステルにヴィルフリートがやや苦笑を見せ、そっとため息をこぼす。

 呆れというよりは、仕方ないなあといった微笑ましげなものが混ざった諦めのものだ。


「……エステルは、俺の側に一生居るつもりなのですよね?」

「もちろん!」


 今更何を言うのか、と彼を見上げると、ヴィルフリートが満足そうに笑っていた。


「それが聞けたなら、いいです。それに伴うものは追々と俺からお教えしますから」


 伴うもの、と反芻するエステルの左手をそっと持ち上げたヴィルフリートは、そのまま手の甲に一度唇を寄せた。

 驚きに目を丸くすれば、今度はその唇は手の甲から薬指の第二関節に移り、優しく口付けを落としていく。


「まだ吟味中ですが、約束だけ」


 本当にそっと触れたので妙にくすぐったくてびくりと体をゆらせば、口付けつつも流し目でエステルを見て、ヴィルフリートは静かに笑った。

 青い瞳がひたむきにエステルのすみれ色を捉えて離さない。笑みは柔らかく、穏やかで――そして、どこか匂いたつような色香を感じさせた。


 その眼差しに、表情に、びりっと背中に駆け抜ける痺れを覚えてしまう。

 背筋が震えた。不快なものではなく、自分の知らない何かに遭遇した時に覚えるような、興奮とも驚愕ともつかないもの。そして、歓喜も混じっている。


 どっ、と急に心臓が早鐘のように打ち始めるのを、エステルは一瞬眩みかけた頭でようやく認識した。


「あ、あの……?」

「どうかしましたか?」

「……なんだか、……何て言ったらいいんでしょう、ぞわっとしました」

「……それはショックですが」

「違うんです、ぞわっというか、ぶわっていうか、嫌じゃなくて嬉しいんですけど、なんか、名状しがたいものを感じて」

「ほう」


 どう言って良いのか、エステル自身にも分からない感覚だった。

 嫌ではなく、むしろよいのだが――あまり味わってしまうと、腰が砕けそうになる、変な痺れ。いつもはヴィルフリートの微笑み一つではこんな風にならないのに、今日のヴィルフリートは一味違った。


 あまりヴィルフリートの顔を直視していると、体が火照ってしまう。


 そう思って目を逸らそうとしたのだが、ヴィルフリートは左手に触れていた手を、エステルの顔に伸ばした。


「あ、あの、ヴィル……?」

「……エステルは、可愛いですね」


 あ、これ何かスイッチ入った、なんてヴィルフリートの熱を帯びた眼差しで察して思わず少し戸惑ったエステルに、ヴィルフリートは頬に手を添えて、ゆっくりとした動作で顎を持ち上げる。


 視線を浴びたところから、何故だか熱が宿りだす。

 ヴィルフリートのこういう表情は、エステルにとって毒と言ってもいい。男に艶めいた、という表現をしてもよいのか分からないが、非常に色っぽいのだ。いつもは紳士的というより微笑ましそうにしているのに、今は男性としての面が強いのか、乞うような、やや飢えたような色を含んでいる。


 見ているだけで、動悸がしてきて、顔だけと言わず全身が火照りだす。

 そんな風に見ないで、と言えたらどれだけ楽だっただろうか。胸が締め付けられるようで、体がもどかしいとじわじわ訴えているのに、その視線からは逃れる事を選べない。

 顎を持ち上げる指が、緩く輪郭をくすぐる。くすぐったいのに、嫌ではなかった。


「エステルの知らない事を、俺が全部教えてあげますから」

「……お、お手柔らかに……?」


 エステルが知らない事は、たくさんある。いつもヴィルフリートが悩んでいる事なのは、なんとなく分かるものの……それが何なのかは、分からない。

 けれど、それを全部教えられたら、自分は頭がゆだってしまいそうな予感がした。


 それでも、ヴィルフリートにいっぱいいっぱいにされる事は、多分嬉しい。ヴィルフリートに全部教えてもらえたなら、きっとどんな事でも幸せを感じるに違いない。


 ただ、それはそれとして、不思議と妙な危機感を覚えなくもなかった。


「ええ、ええ。……優しく、たっぷりと教えて差し上げますよ」

「……あ、あの、なんかとてもだめな気がします……」

「返品不可ですので」


 言うや否や、ヴィルフリートはエステルの唇に噛みついた。

 口付けられるのは、何度もしているのである程度は慣れている筈なのに、妙にどきどきして仕方ない。

 顎を支えていた手は後頭部に回り、逃がさないと言わんばかりに頭を固定している。


 啄むような柔らかい口付けは、エステルも好きなので逃げるつもりなんてなかったが……ヴィルフリートの顔の角度が変わった瞬間、触れるだけの口付けからエステルの知らない熱を与えるような口付けに変わる。


 息を飲んで思わず離れようと彼の胸を押しても、硬い感触が返ってくるだけで、離れる事はままならない。

 直接ヴィルフリートの熱を感じて、強制的に開かれた唇から息と掠れた声がこぼれた。


 知らない熱、知らない感触。


 それを与えているのは最愛の人で、それでも初めての体験に勝手に体が強張って逃げたくなってしまう。


(――こんな事、知らない)


 いつもは、優しく触れて、精々軽く食んだりする程度だったのに。


 こんな、熱と甘い毒を注ぎ込むような、体が熱くなるものは、知らない。内側を侵食していく感覚はどんどん頭の働きを鈍くさせて、ヴィルフリートに何もかも身を任せてしまいたくなる。

 甘美な魔力が流されているせいもあるのだろう。頭がぼうっとして、気を抜けば呼吸すらも忘れてしまいそうで、体を蝕んでいく熱と得体の知れない感覚が、少し怖かった。


「……随分と、可愛らしい顔をしてますね」


 気付けば、唇を離したヴィルフリートが満足げに笑っている。

 ぺろりと唇を舐めるその姿が妙に色香をまとわせていて、背筋に痺れが走った。


 ヴィルフリートにはあんな口付けの仕方知らない、と文句を言ってやりたかったのに、その青い瞳を見ると、体から力が抜けてしまう。


「……なに、したのですか」

「そうですね、大人の口付け、といったところでしょうか。……おいやでしたか?」

「い、いやというか、へ、変になる、というか」

「それならよかった。存分に変になってくださいな」


 変になってほしい、というヴィルフリートが信じられないのだが、エステルとしても、あの触れかたは嫌ではないのだ。嫌ではないのだが、なれないし、訳がわからないから、怖いだけで。

 悪いものではないとは分かっている。ヴィルフリートの魔力が流れてきて、体が甘酸っぱい疼きを覚えた。魔力の相性自体非常によいので、どうしてもふわふわとした高揚感と、焦燥感のようなものを感じる。


 ただ、それがどうしても背筋を震わせるような痺れになってしまうから、怖い。


「……ヴィルは、さっきみたいなの、したいのです……?」

「そりゃあね。可愛いエステルが見られますし、恋人と口付けるのはやはり嬉しいものですよ」

「わ、私も嬉しいですけど……ぞわぞわするから、なんか、抵抗が」

「じゃあ慣れるまでしますか?」


 しますか、というのは問いではなく、決定事項を伝えただけなのだ。

 また噛み付かれてヴィルフリートの体温を直接感じて、エステルはもう抵抗も無理だとされるがままになってしまう。


 こうなってしまえば、ヴィルフリートは存外強引な態度になる。

 エステルが明確に嫌がらないと分かった場合、ヴィルフリートはエステルをひたすらに愛でるのだ。ふとした時に見せる強引さ、というより積極的なヴィルフリートも好きではあるものの、心臓に非常に悪い。


 たっぷりと、口付けをされれば、エステルも体の芯から力が抜けてへろへろになってしまう。

 普段ならば美味しくいただく魔力も、こんなに注がれれば飽和しそうな程だ。ヴィルフリートの魔力を全部受け止めるくらい魔力の器は大きい筈なのに、今は受け止めすぎて酩酊したような感覚になっていた。


「……ふやけて溶けそうです」


 少し荒くなった息のままに呟くと、ヴィルフリートが満足そうに口角を持ち上げていた。


「それは何よりで」

「……ヴィルだけ余裕そうでずるいです」

「余裕そう、でしょうか」


 急に抱き締められて、エステルもついびくりと体を揺らしてしまったものの……胸に顔を埋めると、奥にある心臓はエステルに負けじと跳ねている。


 思わず見上げれば、微妙に頬を赤くしたヴィルフリートが頬を掻いていた。


「お恥ずかしながら、この歳まで恋人なんて出来ませんでしたからね。……余裕なんて、ないですよ。歳上の矜持が見栄を張らせてるのと、あなたよりは多少詳しいからなんとかなってるだけです」


 その一言に、なんだか無性にヴィルフリートが愛おしくなって、彼の首筋に顔を埋め直した。


「……おそろいです」

「おそろいですね。……余裕のない俺は、嫌ですか?」

「……余裕があっても、なくても、いいけど……一緒に、慣れていきたいです」


 互いだけしか知らないのであれば、経験値は変わらない。知識の差があるだけで、それを体験した事などないのだから。

 どうせお互いしか興味がないし、特別な事をしたいとも思わなかったので、二人で共に歩みながら慣れていけばよい。


「私は、もっと……ヴィルを知りたいし、ヴィルを感じたいです」

「……煽るのがお得意なのは相変わらずで」


 困ったように笑ったヴィルフリートが「俺もあなたを知りたいしあなたの存在を感じたいですよ」と呟いて、エステルの首筋に噛み付く。

 以前されたような、チリっとした僅かな痛みを伴う口付けを感じながら、きっと首には前の太腿に落とされたもののような色がついているのだろうな、とぼんやりと考えて、笑う。


 あの痕は、ヴィルフリートに口付けられた痕。

 そう思うと、すっかり消えてしまった脚の痕が少しだけ、名残惜しい。


 柔らかな口付けが少しずつ下に降りていくのを感じながら、また新しく刻まれる赤い華にエステルは羞恥を感じつつもひっそりと笑みをこぼした。

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