87 訪れた平穏とつかんだ幸福
本日三回目の更新です。先に更新した分を読んでない方は前の更新からお読みください。
エステルが筆頭魔導師になってから、一ヶ月経った。
結局のところ、そこまで生活が変わる訳でもなかった。もちろん、忙しさは増えたが。
「筆頭魔導師といっても、実務をするだけで基本的な書類仕事は閣下がするのですよね。いえ、俺もしていますけども」
あの時の会話通り、筆頭魔導師の就任はエステルのみという事になっている。ヴィルフリートは、あくまで筆頭魔導師補佐官――つまり、ディートヘルムの同僚として就任が公表された。
ヴィルフリートが大地へ干渉する資格を持っていると周知しないのは、筆頭魔導師が二人という混乱を防ぐためと、そもそも筆頭魔導師の真の役目は公には知らされていないからである。
ただの筆頭魔導師補佐官、というのがヴィルフリートの表向きの立場だ。
ディートヘルムが続投しているのは、まだ筆頭魔導師の地位に就いたエステルに新米であるヴィルフリートだけでは魔導院を治められない、という理由だ。
実際にエステルとヴィルフリートだけでは性格上上層部との軋轢は避けられないし、上手く取り持ててコネも沢山あるディートヘルムが居てくれた方が遥かに環境としてはいい。
ディートヘルムと同じ立場になったヴィルフリートは苦笑いが絶えないものの、有り難く彼の力を借りつつ自分でも同じ事が出来るように、仕事ぶりを見て実際に経験して吸収している。
「……とは言ってもやっぱり多いのですよね。うー」
「第二特務室の仕事が少なかっただけですよ。俺配属前までそれなりにしてましたし。エステルは頑張れば出来る子なので頑張って下さい」
「ヴィル、補佐補佐。たすけてー」
「流石に筆頭魔導師の承認を要する類のものは無理ですって。こっちで処理出来るものは全部俺と閣下がやっていますから」
一応立場としては同格になったものの、ディートヘルムの事を未だに閣下と呼ぶのは、一生頭が上がらないし頼りにしてしまいそうだからである。それだけ偉大な男だ。
呼び方が変わる時は、おそらくヴィルフリートの家名が変わった時だろう。
「……お兄様、これこなしてたんですよね」
「それを考えると、あの方本当にすごいですよね」
「昨日屋敷に帰ったら『そんな事も出来ないのか』と馬鹿にされました」
現在、イオニアスは屋敷で静養しているらしい。
エステルやディートヘルムから話を聞く分にはおとなしくしているらしいのだが、聞いていると口の方はあまり変わらないようだ。エステルに素っ気ないのは実は元々のようで、度々口論になるらしい。
「むかっとしたのでお夜食にと取っておいたヴィルのマフィンの入った袋を反射的に投げてしまって……昔に戻った気分なのはよいのですが、折角のマフィンが二つともお兄様に奪われてしまいました」
しょぼん、と気落ちも隠そうとしないエステルに、ついつい笑ってしまう。
イオニアスの分も欲しい、とエステルに頼まれたので彼の分も用意して渡したのだが、紙袋ごと渡してしまったので、今頃イオニアスのお腹に収まっているだろう。お口に合えば、の話だが。
「まあまた作りますから。……イオニアス様は食べてくれそうでした?」
「中身確認して粗末なものだな、と鼻で笑いましたけどちゃっかり
もらっていったので食べたと思いますよ」
「それはそれは」
「お兄様、素直じゃないのは昔からなのであんなものですよ。また屋敷に帰った時に聞いてみます」
「まずいって言われたらどうしましょうかねえ」
「そうしたら私がお兄様の頬をつねってきますので。私のも食べた癖にーって」
本気で拗ねている訳ではないらしく、くすくすと笑ってお仕置きを考えたエステルに、こちらも笑みが自然と深まる。
体が弱っていて最初はあまり物が食べられなかったらしいが、ある程度回復したらしく、お手製のおやつも食べられるようになっているようだ。
エステルには特別に美味しく感じるであろう手製の料理はイオニアスにとって美味しいかは分からないが、これから食べる機会も増えていくかもしれないので、出来れば美味しいと思ってもらえるものを作りたいとも思う。
「まあ、彼にも美味しく食べてもらえるように努力しますよ。将来的に彼とも接する事が多くなるでしょうし」
「ヴィル?」
家族になれば接する機会増えるよな、と思っていたヴィルフリートだが、きょとんとしたエステルの表情に「あ、これ意味分かってないな」と苦笑してしまう。
「……あー、いえ、もう少し先の話ですよ。生活が落ち着いて、環境も整ってきたら……その、エステルと一緒になりたいな、と」
「もう一心同体ですよ?」
「……まあそうかもしれませんけどね、それでも、区切りはつけておくべきでしょう。……ちゃんと、あなたは俺のものだって、印が欲しいです」
「……ヴィルのものになってなかった事にびっくりしてます」
首を捻っているエステルは、どこまでも愛らしく無垢だ。
ディートヘルムにそこの辺り教育して欲しかった、とチクチク刺しても許されそうではあるのでその内少しだけ言っておこうと心に決めて、ペンを置いて不思議そうにするエステルの頭を撫でる。
「名実ともにしたいし身も心も俺のものにしたいのですよ」
「してくれて構わないですけど……逆になんで待ってるのですか? もう、ヴィルはほぼ私と対等の立ち位置にいるのに」
「……どうしてでしょうねえ」
逆に何で分からないんだろうな、とすら思うのだが、そこがエステルなのだろう。
ヴィルフリートは、エステルの心が追い付くまでは待つつもりではあるのだが、ここまでゆるふわで居られるといつまで経ってもその時はやってこなさそうだ。
だから、ヴィルフリート自ら動く事を選ぶ。
もちろん、完璧に用意が出来てから、の話ではあるのだが。
「今はまだ生活が落ち着いていませんし、どうこうするつもりもありませんが……慣れてきたら、まあまたあなたに色々と言いたい事はありますので」
「言いたい事?」
「楽しみにしておいて下さい。用意とかも全然出来てませんので、まだ先ですけどね」
「はい、楽しみにしておきます」
純粋にのほほんと喜んだエステルに、素直に結婚して欲しいと先に言えばよかったかな、なんて少し後悔したものの、正式な時までそれはよしておこう、とも思う。
その方が、彼女は驚く気がした。
「察してくれない辺りあなたらしいですが、そんなあなただから俺も好きになったし愛しいと思うのでしょうね。夫婦になったら苦労しそうですが」
のんびりまったりでおっとりとしたエステルに、ヴィルフリートがやきもきするのは今から見えている。そのじれったさすらいとおしいと思うだろうから、心配する事はないのだが。
人よりも進展は遅いかもしれないが、自分達なりにゆっくりと夫婦となっていけたら、それでいいのだから。
(兄貴や閣下には奥手だと罵られるんだろうけどな)
見え透いた未来に自分で笑っていると、エステルが不意に固まってこっちをじっと見つめてきた。
いつも美しいすみれ色の瞳に凝視されたものの、ヴィルフリートはそれにはわざと反応せずに、柔らかい髪を撫で続ける。
「さて、エステルは仕事しましょうか。俺は配分された仕事は終わってますし他はエステルの承認待ちなので、おやつでも作ってきます」
「あの、ヴィル……?」
「おやつは何が良いですか」
「え、プリンがいいです」
「かしこまりました。では作って参りますので、仕事していい子に待っていて下さいね」
「はい! ……あ、あれ……? 今さっき何か……あれ?」
「では」
今まで散々焦らされてきたのだから、たまにはいいだろう。
首を傾げ続けるエステルにはいつもの笑みを返して、ヴィルフリートは筆頭魔導師の執務室を後にする。
今は、エステルの側に居るだけで良い。
けれど、きっとそれだけでは満足出来なくなるだろう。
専属シェフでも、筆頭魔導師補佐官だけでも、物足りない。
ヴィルフリートの望みは、彼女の唯一になって、生涯を共にする事なのだから。
(結婚したら、きっとエステルに振り回されながらもずっと側に居てエステルに料理を作るんだろうな。エステルだけじゃなくて、子供達にも)
まだ、これは想像の範囲だ。
しかし、遠くない未来に叶うという事も、理解していた。
そう考えると、随分と未来は幸福に満ち溢れているように思える。
「俺も幸せ者ですね」
可愛いエステルを手に入れる事が出来て、筆頭魔導師補佐官という地位に就いて、こうして好きな人に料理を作ってあげる事が出来るのだ。幸せと言わずしてなんと言おうか。
自分は、第二特務室に配属されてから今の間の短い期間に、それだけのものを手にいれた。
これからは、その手に入れたかけがえのないものを手放さないようにして、大切にしていきたい。
まだ見ぬ幸せな未来を想像すると、自然と厨房に向かう足取りは軽やかになった。
これで腹ぺこ本編が完結となります。今までお読みいただきありがとうございました!
半年以上かかってしまいましたが、皆様の応援のお陰で完結まで描く事ができました。これまで感想や評価等、応援して下さりありがとうございます!とても連載の励みになっていました!
本編はこれで終了となりますが、後日談で二人のその後を描いていけたらと思います。
それでは此処までお付きあい下さりありがとうございました、これからも応援していただければ嬉しいです!




