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86 歩み始めた未来への道

本日二度目の更新です。21時にもう一度更新して完結となります。

 しばらく体を揺らしうずくまっていたイオニアスが顔を上げた時、彼の顔は目元こそ赤くなっていたし瞳は湿っていたものの、自暴自棄のような自身への無関心さは消えていた。


「……お前達は、身勝手だ」


 どこか不機嫌で、でも吹っ切れたような声でこちらを責めてくるイオニアスに、エステルは穏やかに笑った。


「はい、身勝手です。それでも、私は意思を曲げるつもりもありません。あなたが折れてくれるまで、諦めたりしません」

「……本当に、身勝手でお節介なやつだ」


 体に僅かに残っていた力も抜けて、どこか呆れが多分に入った、けれど棘は抜けた声でここに居る人間を評価したイオニアス。

 ヴィルフリートが見てきた彼は孤独であろうとして、全身に棘をまとったような人だったが――今は、棘の殻にこもるのを止めたようにも見えた。


「私は、命を賭してでも、やり遂げるつもりだったのに」

「そんなのいやです」

「我が儘娘め」

「そうでしょう、なにせあなたの妹ですから」


 ささやかな仕返しをしてみせたエステルがいたずらっぽく、少し涙ぐんだ瞳でイオニアスを見やり、それから静かにイオニアスの側に居たロゼに視線を移す。

 既に体が透過し始めている彼女は、エステルの視線に気づいたのか心得たと言うように頷いて、ゆっくりとイオニアスの胸に透き通った掌を入れた。


 見方によっては非常に心臓に悪い光景だったが、幻想的な空間と今にも溶けて消えてしまいそうなロゼの儚さに、不思議と神秘的な光景にも見える。


 恐らくだが、ロゼがやっているのは、筆頭魔導師の資格を回収している事だろう。エステルが筆頭魔導師を継ぐならば、イオニアスに持たせたままでは駄目なのだから。


 ゆるりと引き抜いたロゼが、エステルと――ヴィルフリートを、見る。


 視線が合って瞬きすれば、ロゼはそのままかき消える。

 消えたと同時に流れ込んできた何かに、胃が痛み出そうとしていた。


『……これは、わたしの我が儘。それから、国のため、エステルのため。一人で背負いきれない負担をかける訳にはいかないから、あなたたち二人で支えあって、わたしを生かして』

「ロゼ、待ちなさい。これは独断過ぎでは」


 エステルに筆頭魔導師の資格が譲渡されるのは予定通りではあったのだが、エステルを支える立場になろうとしていたヴィルフリートにまでその証を渡すとは全く思っていなかった。


 きょとんとしたエステルが事情をのみ込めて来たらしく瞳を輝かせるので、ヴィルフリートとしては今すぐ返却したい気持ちで一杯だった。


 確かに昔は筆頭魔導師を目指していたものの、性格的には筆頭魔導師より補佐官に向いている。

 エステルのような適任がいるのだから自分が出る幕はない、筈なのだが。


『……わたしと、お話ししてくれるんでしょう? なら、資格はあるべき』

「い、いや、そうですが……」

『……あなただって、エステル一人に負担をかけたくはないのでしょう?』

「……そう、ですが」

『イオニアスが筆頭魔導師の時のエステルのように、負担を分ければいいだけ。イオニアスのようにエステルは体が弱くはないから、二人体制なだけで充分余裕が出来ると思う』


 言われたらそうなのだが、感情的に納得がいかないのも事実だ。


 筆頭魔導師は相応しい人がなるべきであり、自身のような未熟者が至れる座ではない、そうロゼに返そうとしたのだが……声だけで語りかけてくるロゼは『別に、就任しなくてもいいのだけど』と付け足す。


『大地に干渉する権利を得ただけで、筆頭魔導師にはならなくてもいいと思う。イオニアスにとってのエステル、の立ち位置で考えればいい』

「……それは」

「ロゼは、なんて?」


 薄々察しているエステルの問いかけに、ヴィルフリートは眉を寄せつつ「俺にも大地に干渉する権利を寄越しました」と簡潔に伝える。

 ディートヘルムもイオニアスも驚いた様子はなかったが、ディートヘルムは微笑ましげに、イオニアスは呆れたような眼差しを向けてくるのだ。たまったものではない。


「二人で負担を分けたら苦しまなくて済むだろうから二人ですればいい、と。これ大問題になりませんかね」

「どちらにせよ私とお兄様のような事例もありましたから、押し通す事は不可能ではありません。過去に前例がなかった訳でもありませんから。……可能ですよね、ディートヘルム」

「今までしていた事と変わりないのだから出来なくはないだろう」


 ヴィルフリートが資格を得た事自体には問題ないと思っているらしいディートヘルムが首肯した事で、ヴィルフリートはもう逃れる事は出来ないな、と悟りつつあった。

 嫌という訳ではないが、本当によいのか、といった半信半疑の状態である。


 エステルとしては都合がよいというかむしろ大歓迎らしいので、ヴィルフリートはそっとため息をついた。


「……ですので、お兄様。役目の負担はこちらが引き受けるので、体調が悪化する事はないと思います。……まずは屋敷で静養なさって下さい」


 体が弱った状態では幸せを探すどころか歩き回る事もままならないため、しばらくイオニアスは休む事になるだろう。


 幸いといっていいのか、すぐにどうこうなる体調ではない、とはロゼも言っていた。

 静養していれば、人並みとは言わないがそれなりに安らかに暮らせるであろう。


 大なり小なり苦痛を強いてしまうのは申し訳なさがあったが、それでも生きているからこそ幸せはあるのだと、そうヴィルフリートも彼に生きる事を望んだのだ。

 彼には、出来うる限り長く生きて幸せを見つけてほしかった。


 そっと背中を支えたエステルに、イオニアスは深いため息をこぼす。


「これもディートヘルムの思う通りなのかな」

「……あなたのことを一番心配していたのは、ディートヘルムですよ。ね、お義父様」


 わざと父と呼んだエステルには真意をうかがわせない笑みをみせたディートヘルムだったが、何となくだが、照れ隠しのようにも見えた。


「はあ。……事後処理は任せるよ、どうせディートヘルムが上手い事やるだろうし」

「体調の悪化を理由に筆頭魔導師の座を譲った、とでもしておくでしょう。……反発が大きいのは予想されますが、後の事は私達に任せてください」

「私はもう、使い物にならない。エステルと彼がするしかないよ」


 そういう風に仕立てたのはお前だろう、とやや棘のこもった言葉にはエステルも「そうですね、私が仕組んだ事ですから」と悪びれもなく答える。

 一見ギスギスしたようなやり取りだったが、それでも二人の間に漂うものは、どこか穏やかなものですらあった。


「……あなたは、俺が資格を得た事には反対なさらないのですか」

「言っても今更だろうに。伊達に特級の位に就いて大地の意思と心を交わせる訳ではなかろう。それに、私はもう筆頭魔導師でもなんでもない、エステルがなろうが君がなろうが止めるすべはない」

「お兄様……」

「……お前も、自ら籠に囚われるなど、馬鹿な子だ。良いだろう、好きにすると良い。それが望みならば、もう私からは何も言わない。お前の望み通り、無様にでもあがいて生きてやろう」


 憑き物が落ちたように、険のあった表情や頑なな態度、とげとげしい声音が和らいでいた。

 きっと、イオニアスの中で凝り固まっていた蟠りがほどけたからなのだろう。


「あれだけ自由を呪ったのに、今度は私が自由になってお前を縛り付ける番になれば複雑になるのは、笑い話だな」

「……良いのですよ、私の代わりに自由を謳歌なさって下さい。私は、大丈夫ですから」


 側に居たヴィルフリートに目配せをして微笑んだエステルは、ゆっくりとイオニアスの掌を包む。

 今度は、イオニアスも拒まない。すみれ色の視線を重ねて、真摯に見つめ合う。


 少しだけ、苦いものを含んだ笑みになったものの、エステルはイオニアスの前に跪き、そのままイオニアスの掌を自分の額に当てる。


「第二十八代筆頭魔導師イオニアス=アデナウアー。今この時より、私、エステル=アデナウアーが筆頭魔導師の任を引き継ぎ、第二十九代筆頭魔導師として就任します。……十年のお勤め、ご苦労様でした」


 一息に言い切ったエステルが淡く微笑むと、イオニアスもほんの少しだけ、相好を崩した。





「そ、その、結果的に押し付けるような形で筆頭魔導師のお役目に巻き込んでしまって申し訳ありません」


 儀式の間を出て第二特務室に戻る最中、エステルはいきなり申し訳なさそうに謝罪をしてきた。

 ディートヘルムはイオニアスの引き継ぎ業務に入るため、一度別れたのだが、二人きりになった途端エステルは自信なさげに眉を下げてヴィルフリートを見てくる。


 先ほどはロゼに資格を託されたヴィルフリートの事を嬉しそうに見ていたのだが、落ち着いてくると何だかほんのり罪悪感が湧いてきたらしい。


「いやもう今更ですし」

「怒ってますか」

「怒る訳がないでしょう。びっくりしていただけですよ」

「……その、ごめんなさい」

「良いですよ、あなたの側に居るのは、第二特務室補佐官だろうが筆頭魔導師補佐官だろうが変わらないでしょう」


 元々筆頭魔導師補佐官にはならないといけないと思っていたのだから、儀式の間まで堂々と入る権限を得たのは都合がよいのだろう。そもそもロゼ本人がよいと言っているのだから、魔導院的には頭がいたくなる案件ではあるだろうが実質的な事を考えれば問題はない。


 まあ資格を得てしまった事で筆頭魔導師とほぼ同じ立場になってしまったのはなんというか微妙に複雑さを感じはするものの、なってしまったものは仕方ない。

 エステルの側に堂々と居られて支える事が出来るのだから、むしろ丁度いいのだ。


 ヴィルフリートが気にした様子を見せない事に安堵したエステルが、嬉しそうにヴィルフリートの腕に体を寄せてくる。


 人が居ないからよいのだが、外ではあまりして欲しくはないと思いつつも好きにさせてしまうのは、自分も案外高揚しているからなのかもしれない。


「……しかしまあ、俺に与えていいんですかね。大地に干渉する権限をなんて大層なものを」

「自信持ってください、ロゼ本人が認めたんですから。ヴィルは自分が思うよりずっとすごい人なのですよ?」

「まあ、エステルの賞賛に見合う男になれるように精進はし続けます」

「もうっ、そこはちゃんと受け取ってください!」


 ぽこん、といつもなら胸を叩くのだろうが、今回は歩きながらなので不服の主張に強く体を押し付けてきたエステル。こちらの方が遥かにダメージが大きいのは、本人は全く分かっていないだろう。


 何度されても中々に慣れない密着なのだが、そろそろエステルにもヴィルフリートの葛藤を欠片でも理解して欲しかった。おそらく、エステルは無意識だろうが。


 こほん、と自分に言い聞かせるように気を取り直しての合図をして、平常通りの顔でエステルを見る。なだめてさりげなく拘束を緩めるのも忘れない。


「とにかく、与えられたものに恥じない動きはするつもりですので」

「それは私も一緒ですよ。これからは、私も軽率な事は出来ませんから」

「これは軽率ではないので?」

「まだ就任は公にされてませんし、ヴィルと一緒に居る事まで奪われたら私は飢え死にしちゃいます」

「二重の意味でですね」


 エステルは、ヴィルフリートの料理がないと生きていけないと豪語するくらいであるし、ヴィルフリートの側でヴィルフリート成分なるものを補給していないと頑張れない人なのだ。

 それだけ愛されて必要とされている、と思えば、胸にくすぐったいものやいとおしさがこみあげてくる。


「だからこそ、俺はあなたの側に堂々と立てるようになろうとしたし、なったのですよ」

「はいっ」


 紆余曲折はあれど、ヴィルフリートはエステルの隣に居る権利を得たし、想定外ではあったが最初の目標だった筆頭魔導師という立場に近いところまで来た。


 第二特務室に配属された時の自分が聞いたら、きっと驚くだろう。

 魔法一筋だった自分に可愛い恋人が出来て、その子のために特級に昇格して、国の深部の秘密を知って、魔導師でも二番目に高い立場になる、だなんて。


「これからは、誰にも邪魔されずに隣で胸を張って立てますね」

「閣下に茶々は入れられそうですけどね」

「ディートヘルムも喜んでると思いますよ? ヴィルが立派になるのを待ってたのはディートヘルムもですし」

「そりゃ目をかけていただいてましたから」


 エステルの隣に立つに相応しい人間にしようと、ディートヘルムも裏で手を回したり手ずから鍛えたりしてくれていた。

 実は一番頭が上がらない相手であるし、これからなおのこと頭が上がらなくなるだろう。エステルと生涯を共にするなら、ディートヘルムとも公私共に長い付き合いになるのだから。


 そう考えれば、これからイオニアスにも頭は上がりそうにないな、という事に思い至って、改めて将来の義父や義兄がとんでもない人達なのだなと再認識する。


「エステル」

「はい?」

「……これで、よかったんですよね」


 イオニアスの事を聞いているとすぐに分かったらしいエステルは、瞬きをして、それから苦笑した。


「もしかしたら、最優のおさめ方ではなかったかもしれません。けれど、私達が出来うる範囲での幸せな収束だったと思います」

「そうですね。あとは、イオニアス様の本人次第でしょう」


 生きる、と決めてくれたイオニアスは、もう自死を望もうとはしなくなるだろう。


「エゴですけどね」

「いいんですよ、生きてるだけでエゴのぶつかり合いになりますから。それで生まれる幸福も多いですよ」

「……はい」

「俺達も、彼が生きる希望を見いだせるようにお手伝いすればいいのですよ。……幸せになる権利が、彼にはあるのです」

「はい」


 彼が本当に生きたいと望んだのか、渋々なのか、それはまだ分からない。


 しかし、生きていてよかった、と後からでも思ってもらえるように、これからは彼に生の喜びを教えられたら、と思う。

 生きる事を押し付けたのは否定しない、だからこそ、彼を生かした自分達が彼に少しでもしたい事や好きな事の手助けをしたい。


 傲慢でも、偽善でも、いい。そこにこめた思いだけは、偽りではないのだから。


「一緒に頑張りましょうか。筆頭魔導師のお仕事も、イオニアス様の事も」

「……はい。一緒に頑張りましょうね」


 すぐに何もかも完璧にこなせる訳でもない。失敗や挫折を繰り返して、少しずつ成長していくのだ。イオニアスとも、ぶつかりながらでも少しずつ歩み寄っていけたら、よい。


 一緒に、という言葉に柔らかく微笑んで、余っていた掌に熱を求めるように、エステルのか細い指に自分のものを絡める。

 もう、ヴィルフリートも、エステルの隣に立てるようになった。これからは、エステルを公私共に堂々と支えられるのだ。


 エステルをちらりと見れば、ぱちりと視線があって、すぐに春の陽射しめいた柔らかく温もりに満ちた笑みが咲く。

 信頼に満ちた眼差しに込められた確かな愛情に、何とも面映ゆい気持ちになりながら、エステルの掌を握った。


 これからやる事は山積みだろうが、二人でなら乗り越えていけるだろう。


 そう確信して、ヴィルフリートはエステルの手を自ら引いて、前に向かって歩き出した。

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