85 対峙と顕現
儀式の間に辿り着けば、同じ桃色の髪の男女が対峙している姿が見えた。
丁度二人の表情が見える角度にヴィルフリートは居たのだが、二人の表情は対照的だった。
エステルは、やや硬い無表情で静かにイオニアスを見ている。
イオニアスはというと、焦燥と苛立ちも露な表情でエステルを睨んでいた。
「お前は、何を言っているのか分かっているのか」
「全て承知の上ですよ、お兄様」
「……正気か」
「ええ、正気です。そして我を貫く覚悟も、その手段も持ち合わせています。ですので、出来れば自主的に身を引いてください」
既に引退を促した後だったのだろう。
普段のエステルからは考えられないほど色を失った表情で淡々と彼に言葉をぶつけている。いつもと違う静謐な眼差しなのは、何を言われても揺らがない、そう自分を鼓舞するかのようで。
二人はヴィルフリートの存在に気付いてはいるだろうが、敢えてヴィルフリートなど居ないとばかりに振る舞っているようだ。
「私に、筆頭魔導師を辞めろと、お前まで言うのか」
「ええ。あなたは、もう体がついていかないし、休み休みでしか役目を果たせません。それで筆頭魔導師を続けていけるとでも?」
「役立たずはとっとと消え失せろ、そう言いたいのか」
「そうは言っていません。あなたは全てを悪し様に捉えるのは止めてください。いえ、……あなたが思うなら、そうでもいい。けれど、あなたの体を案じている人が居るのを忘れないでください」
ここで初めて表情を痛ましげなものに変えたエステルが乞うようにイオニアスを見るが、イオニアスは嘲るような笑みを浮かべるだけ。
それが誰に向けたものなのか。おそらく、エステルにも、自身にも向けているのではないだろうか。イオニアスは筆頭魔導師の職務の後なのかやや青白くなった顔を皮肉げに歪めて、おかしそうに笑った。
「はっ、私の体が弱い事を知って尚、私を役目に縛り付けたやつが、私の心配をしているなんてよく言えるな」
「……そうですね。あなたからすれば、私達の面の皮は厚いですし、今更でしょう。けど――私が、あなたを役目から解放したいと思っているのは、本音です」
「私はまだやれると言っているだろう! お前が、私の場所を、唯一出来る事を奪うのか!」
「やめてくださいお兄様。……お願いだから、もう身を削らないで。自分の幸せを、諦めないで」
「お前が、お前がそれを言うのか! 私に全てを押し付けて自分はのうのうと平和に過ごしていたお前が! お前に何が分かるって言うんだ! 私がどれだけお前を必死に守ってきたと思ってる! こんなおんぼろの体で、幼いお前を! 私の苦労がお前に分かるか!? 使えなくなったから都合よく取り替えようとしているだけだろう!」
剥き出しの怒りを見せたイオニアスがエステルの胸ぐらをつかむ。
身長差的には首がしまる事はなかったものの、流石にそれはとヴィルフリートが駆け寄ろうとすればエステルは手で制するだけ。
つかまれたまままっすぐにイオニアスを一度見上げて、それからそっと瞳を伏せる。
「……あなたの苦労は、重々承知しています」
「嘘をつくな! 私に何もかも任せて逃げたのはお前だ、お前だけ自由になって、苦しみながらもがく私を見下していたんだろう!」
「違います。違います、けど――そこまであなたを追い込んでしまったのは、私です。……ごめんなさいお兄様。あなたばかりに任せてしまった私が悪いのでしょう」
緩やかに胸ぐらをつかむ手を、自分の掌で包んだエステルは、顔を歪めたイオニアスを物悲しげな瞳で捉え、そっとイオニアスの手を解く。
そのまま一歩後ずさろうとしたイオニアスに、手を伸ばした。
「だから――あなたの苦しみは、私が背負いましょう」
エステルは静かにイオニアスの体を、抱き締める。
今まで接触を避けていたエステルが、自ら。
当然イオニアスは突然の事に驚くが、すぐに振り払おうともがく。
幾ら病弱で華奢といっても良いくらいに儚い外見のイオニアスだが、男である。
男であるがゆえにエステルよりもずっと力強い筈なのだが――エステルは、彼から離れようとはしなかった。
癇癪を起こす子供をなだめるように、迷子になった子供を受け入れるように、慈しむように、ひたすらに優しく包み込んで離さない。
「……お兄様。私は、あなたの事が嫌いだけど好きなんです。……今まで苦労させてきたお兄様のためをと思って自立した事が、あなたにとって裏切りのように感じさせてしまった事は、本当に申し訳ないです」
何も、エステルはイオニアスが嫌いというだけで遠ざかっていた訳ではなかった。
エステルなりに、苦労をかけてきた兄の負担にこれ以上ならないように、自分一人で過ごしていた。もう守ってもらわなくても自分だけで何とかなるように、と。
その結果イオニアスから恨まれるようになってしまったのは、皮肉な話だが。
「私の過ちはあなたの気持ちを理解してあげられなかった事、あなたの過ちは誰かに助けを求められず一人で抱えようとした事。その過ちは、正さなければなりません」
そこまで言い切って、イオニアスの両頬に手を添えたエステルがくしゃりと顔を歪めて微笑む。
エステルもイオニアスの罵倒に何も思わない訳がないのだ。ただ、それを受け止めて飲み込んで、それでもエステルは自分の意思を貫く事を変えなかった。
視線を逸らさず、同じすみれ色の瞳を見つめて、互いに互いを捉える。
イオニアスが逸らそうとしても、エステルはそれを許さない。自分も逃げないから、あなたも私と向き合って――そう言わんばかりに、真摯に視線を注ぐ。
「ごめんなさい、お兄様。私を恨んでください。私のエゴで、あなたから死という平穏を奪い、苦痛である生の道に引き戻す事を。――それでも、私はあなたに生きて欲しい。自由になって、あなたが見てこれなかった幸せをつかんで欲しいのです」
もう私はたくさんもらったから、と儚く微笑む。
「お兄様に苦痛の道を歩ませる代わりに、私はお兄様の代わりに苦痛を背負いましょう。今まであなたに任せたきた分、これからは私ががんばりますから」
「私に、苦しんでも生きろというのか……っ」
「……ええ」
「私が楽になりたいと言ってもか!」
「ええ。私の、自分勝手で、理不尽な、押し付けがましい、プレゼントです」
どう言われようと、エステルはイオニアスに引く気は見せなかった。
イオニアスからすればエステルの言葉通り、理不尽で押し付けがましいものだろう。エゴだと言い切ってもよい。
けれど、それは確実にイオニアスのためを想ってのものだった。
「私だけではありません。ヴィルフリートも、ディートヘルムも、エリクやマルコも、そしてあの子も……あなたが、掴み損ねた幸せを手にするための機会を、与えたかったのです」
「あの子……?」
誰の事だか全く心当たりはないのだろう、僅かに眉をひそめたイオニアスの姿に、今まで黙って見守っていたヴィルフリートが、一歩近づく。
エステルの選択を見守るために不干渉でいたが、今こそ自分の役目だろう。
言葉も届かず姿も見せられず、歯痒さに耐えてただひたすらに見守り続けるしかなかった一つの意思の想いを届ける事が出来るのは、ヴィルフリートだけなのだから。
『……ヴィルフリート、約束のもの、もらうね』
ふわりと、肩から光が落ちていく。
それに伴うように、体からずるり、と塊が抜け出していくように大量の魔力が抜けていく。保持していた魔力の大部分を持っていかれたために立ちくらみのような感覚すらあったが、表には出さずに歯を食い縛る。
自分に出来る事は、これくらいだ。
イオニアスに、自身は大切に思われていたのだと気付かせるきっかけを作るだけ。
小さな、けれどロゼにとっては大きな第一歩でもある。
一時的に大地ではなくロゼという意識に大量の魔力を得た彼女は、光を一際強くする。それこそ薄暗闇に碧の光が光源となっていた部屋を、碧の光ごと飲み込むように視界を覆うほどの輝きを見せた。
ヴィルフリートは思わず目を閉じて、まぶたの上から突き刺すような輝きが止んだ頃を見計らって瞳を開くと、イオニアスの側に幼い少女が立っていた。
ヴィルフリートには分かるが、エステルの幼い頃の姿だ。仮初めのものではあるが、瞳の色が違うのでロゼだと分かる。
そして普段と違うのは、イオニアスがロゼに焦点を合わせて驚愕の表情を浮かべている事だった。
ヴィルフリートとロゼがした事は簡単だ。
ロゼと一番相性がよいヴィルフリートの魔力を限界ギリギリまで使って、擬似的な体を作り上げて、ロゼが動かすだけ。
ただし、あくまで擬似的なものであり、物質としては存在せず、視覚的なもののみとなる。
幻影と一緒で触れる事は出来ないし、声帯から声を発する事は出来ない。声を聞き届けられるのはヴィルフリートのみ。
それを理解していても、ロゼは一瞬だけでもイオニアスの目の前に姿を現す事を選んだ。
『……ようやく、あなたに会う事が出来た』
声は届かないと知って尚、ロゼは呟く。
今まで一同が会する機会もなく、そしてヴィルフリートという現状もっとも大地の意思の性質に適合した魔力の持ち主と中々出会えなかったから、こうして例外的に視認させる事もままならなかった。
今だからこそ出来る、十年越しの邂逅。
『わたしは、あなたをずっと見守り続けていた。助けてあげられなかった。ごめんなさい、無力で』
震える声で、聞こえないと理解して、ロゼはイオニアスに向けて謝罪をしていた。
『ごめんなさい。あなたを追いつめてしまって。わたしはあなたを職務から遠ざけてあげたかったのに、あなたには責め立てる声に聞こえてしまった。あなたを、苦しめてしまった』
近付いて、固まるイオニアスに、抱きついて。
否、しがみついて、と言った方が正しいだろう。吹き飛ばされそうなほどに儚いイオニアスがどこにも行ってしまわないように、必死に留めている。
触れずに通り抜けてしまっても、ロゼはイオニアスに実体のない抱擁を与えていた。
「特定の体がないゆえに幼い頃のエステルの姿をとっているとはいえ、その子は正真正銘の大地の意思です。ずっと、イオニアス様を見守り続けていました」
「……そん、なの」
「ごめんなさい、あなたを追いつめてしまって。あなたを生かしたかったのに、苦しめてしまってごめんなさい――いつも、彼女はそう言っていました」
声が、言葉が、伝えられないからこそ、ヴィルフリートはロゼが言いたい事を代弁する。
「誰も分かってくれない、なんて事はなかったのですよ。ずっと、大地の意思……ロゼは、見ていました。あなたが筆頭魔導師に就任した、初めの頃から」
「……私は……」
言葉をつまらせたイオニアスをなぐさめるように、ロゼはイオニアスを抱き締めて背伸びをして頭を撫でる。偉いね、もう頑張らなくていいから。ただ、自分の幸せを追い求めてくれたらいいの、と。
『……イオニアスは、頑張ったよ。だから、もう頑張らなくていいんだよ。頑張ったから、もう休んでいいんだよ。幸せになっても、いいんだよ』
精一杯イオニアスに向けて言葉を尽くそうとするロゼの言葉を一字一句間違えずに伝えるヴィルフリートに、イオニアスは顔を歪めた。訝るようなものでもなく、不愉快というものでもなく、ただ痛みを覚えたように泣きそうな表情で。
うるさい、と小さく呟いて俯いたイオニアスに、エステルがもう一度抱き締めようとして――カツン、と、この場に居た四人の足音ではない足音が響く。
「……もう、君が自分を殺す必要はない」
よく響く低音は、聞き慣れたもの。
閣下、と小さく呟けばディートヘルムはロゼを一瞥して、それからイオニアスを見つめる。
いつから聞いていたのか、どこから見ていたのか。
それは分からなかったが、ディートヘルムは成り行きを全部知っているらしく、いつもの人を飲み込むような笑みではなく、イオニアスを案じるように、やや申し訳なさそうに瞳を伏せている。
イオニアスを十年もの間見守ってきたのは、何もロゼだけではない。義父として、師として、長い間彼を見守ってきた。
「……エステルが自分の過ちを言うのならば、私にも過ちがあろう。君の輝かしいものであるべきだった人生に、枷を施したのは他でもない私だし、私が君にこうあれと立場から指示してしまった。君の犠牲を容認したのは、私なのだから」
本来は私が重責を背負うべきだったのに、と続けたディートヘルムは、イオニアスの前に立つ。
「……だからこそ、言える。もう君は役目を次に託せばいい。君が憧れた自由を手にしていいのだ。……もう、いいんだ。これは今までの君の尽力に対する正当な権利なんだ」
見放すのではない、解放すると言ったディートヘルムはロゼに重ねるように、イオニアスの頭をそっと労るように撫でた。
今までの努力に対して、優しく、受け入れて褒めるように。
無骨な指がエステルと同じ桃色の髪に躊躇いがちに、そして丁寧に通っていくと、イオニアスは端整な顔をしかめた。不快感、ではなく、まるで泣き出す直前のように、あふれそうになる何かを押し留めるように。
「……勝手な事を、言って……っ」
力が抜けたように膝から崩れ落ちるイオニアスをエステルとディートヘルムが支えれば、イオニアスはそれに甘える事なくその場に座り込んで、掌で顔を覆って、背を震わせる。
こらえきれなくなった嗚咽がこぼれるのを、ロゼは苦しそうに、けれどいとおしげに見守っていた。
区切り方で変わりますがあと2話か3話で完結です。




