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08 上司様、逃亡する

「ヴィルフリート、お嬢が逃亡した」


 おいこら。


 心の内だからか思わず敬語を取っ払ってしまったが、補佐官兼お目付け役のヴィルフリートは頭を抱えた。


 職場について早々にエリクから聞きたくなかった報告を聞いて、ため息をつけばいいのやら慌てればいいのやら分からず、とりあえず頭痛がする額を押さえて報告者を見やる。


 エリクは慣れた様子だったものの、慣れていいものではない気がする。

 まだ休日でもないのに朝から仕事の確認すらせずに飛び出していくとか、想定外だった。


 普段は仕事の最中で抜け出すために捕まえる事が出来たが、出勤前に逃げられては流石のヴィルフリートもどうしようもなかった。


「……エリクさん、止めなかったんですか」

「俺も来たら置き手紙が置いてあった」

「そこは律儀なのですね」


 彼女の机には『探さないで下さい。十七時には戻ります』と書かれたメモが残されていた。


 十七時は労働環境的には超絶ホワイトな第二特務室の定時だろうと突っ込んでやりたかったが、本人は今ここには居ないのでそれもままならない。

 

 せめて事前の相談を……と思いはしたものの、ヴィルフリートが止めると分かっているエステルは考えて飛び出していったらしい。


 その判断は正しかった。見付けたら止めた自信がある。


 ただ、その日の仕事内容と照らし合わせて融通を効かせる事も考えたので、やはり相談はして欲しかった。


 もう一度メモに視線を落とすと、隅には小さく『心配せずとも大丈夫です』との一言が書いてあって――ヴィルフリートは、そのメモを机に叩き付けるように置いた。


「エリクさん、行き場所の心当たりは」

「……城下町の、お気に入りの店かな」

「候補全部出して下さい」


 とりあえず今日の仕事は急ぎでなかった事を確認したヴィルフリートは、全部明日やろうと心に決めた。

 



 エリクが把握している行き付けの店を手当たり次第に探せば見付かる。多少手間はかかるたろうが、エステルは絶対にお気に入りの店しか行かないのでまず間違いなく見付かるだろう。


 そう思って城下街に赴いたヴィルフリートだったが――思っていなかった形で、その期待は裏切られた。


 どうしても目立つ薄桃色の緩いウェーブが眩しい後ろ姿。……服装的に自分の上司が、ふらふらと歩いているのが見えた。


「室長」


 これは僥倖、と声をかけると、びくりと肩を震わせるエステル。

 どうやら罪悪感は多少あったらしい、ぎこちない動きで振り返って……それから、もぐ、と口の中に入っている食べ物を飲み込んだ。


 逃亡犯は、口にカスタードクリームを付けていた。


 先程までエクレアを食べていたらしく、おまけにチョコレートまで付いている。手にした包みと食べかけのそれが証拠だろう。


 見付かった彼女は怒られると思ったのか、すみれ色の瞳を揺らがせて、肩を縮める。

 ため息をつけば更にしょげていくから、何だか小動物をいじめているような気分になってしまって、罪悪感が胸をつついた。


 別に、怒ろうというつもりはなかったのだ。

 叱りはするつもりであったが、怒っている訳ではない。


 注意をして今後から行動を改めてもらおうと思ってはいたが、別にヴィルフリートが怒るつもりは微塵もなかった。

 仕事も一日分くらいなら溜めようが処理出来るし、言ってくれさえすれば時間を空ける事も出来たのだから。


 極論、報連相さえしてくれれば、街に行こうが多少遊ぼうが頻繁でない限り、エステルが恐れるような詰問はしないのだ。


 再びため息をこぼすとびくびくと震えるエステル。

 傍から見ればどちらが上司なのか分からないこの状態に、追い掛けてきた部下は懐からハンカチを取り出した。


「お出掛けするのはまず俺に打診してからにして下さい。行方不明では困りますので。ああほら、お口が汚れていますから」


 クリームとチョコレートでちょっぴり間抜けな顔になっているエステルの口許を優しく拭って、それから距離が近かったと気恥ずかしさを頬にのぼらせる。


 勝手に女性の体に触れるのは失礼だったかもしれない。

 けれど、あのままにしておくのはエステルに恥を掻かせる、そう自分に言い聞かせて、ちょっとした心臓の高鳴りを鎮める。


 あれは子供を世話するような感覚なのだ、と自分を納得させるとスッと熱も引くが、エステルに悟られたらそれはそれで拗ねてしまいそうな気もした。


 口許を拭われたエステルはというと、どこかきょとんとした眼差し。

 それから、恐る恐るヴィルフリートを見上げる。


「……怒っていませんか?」

「怒っていたらもっと顔が怖いですよ。こんな感じです」


 両人差し指で左右の眉尻を押さえて上に引っ張ると、エステルは不安から解放されたように安堵の吐息を漏らして、くすっと笑った。


 ヴィルフリートはお世辞にも目付きは良くない。

 ちょっと鋭い眼光をしているし、よく言えばクール、悪くいえば酷薄な印象を抱かせてしまう。

 普通の表情でもどこか威圧的に見えてしまうのが難点だった。


 反抗的な態度をとっている訳ではないのに生意気な、といちゃもんを付けられた事もある(不当な扱いには眉を寄せていたのでそのせいもあるだろうが)。

 それは妬みが若干入っていたのもあるが、もっと愛嬌のある顔立ちならこうもならなかっただろう。


 なのでエステルを怖がらせないかとちょっと心配ではあったのだが――エステルは、気にしていないようで安心してしまった。


「取り敢えず、今から俺もお供させて下さい。お話は室長と散策しながらでも良いでしょう」

「連れ戻しに来た、のではないのですか……?」

「本日の仕事を確認して、全て明日に回しても問題ないと判断しています。明日がやや忙しくなりますが、極端に忙しくなる訳でもないでしょう。問題ありません」

(というか一人だとスられそうで危なっかしいし)


 本人は自覚していないようだが、先程からちらちらと視線を集めているのだ。


 そりゃあ、庶民にはまずない綺麗な身なりに可愛らしい外見をしていれば、雑踏の中でも輝くだろう。

 むしろ他が普通な分、非常に目立つのだ。


 お陰ですぐに発見出来たのは良いが、あまり目立つと手癖の悪いスリに遭ったりろくでもない人間に目を付けられかねないので、ちょっと隠して欲しかったりする。


 もし路地裏に連れ込まれたらどうするんだ――と思ったものの、これは余計な心配だったかもしれないと思い直した。


 本人の実力を考えれば襲われても返り討ちにするだろうし、心配する必要は全くないであろう。

 むしろ失礼だったかもしれない。

 彼女からすれば、一般人など赤子の手をひねるように排除出来るであろうから。


 お供の申し出を嫌がられたらどうしようか、と思ったものの、菫青石の瞳はぱあっと明るくなったので、杞憂に終わった。


「じゃあ、一緒にご飯食べましょう! あのですね、おすすめのお店があるんですよ!」


 う、と一瞬たじろいだのは、あんまりにも邪気のない笑顔が此方を見上げてきたため。

 ぱたぱたと手を振りながら何やらおすすめの場所を紹介すると息巻いているエステルは子犬が構って構ってとすり寄ってくる様にも見えた。


 ……そのおすすめの場所はエリクに教えて貰っているのだが、言わない方が良いだろう。


 純粋に楽しそうに破顔しているエステルに、ヴィルフリートは何も知らない振りして彼女についていく事に決めた。

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