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72 忘れ去られた真実と、刻む名前

 イオニアスの病弱説が一般的なものになったとはいえ、それでもイオニアスは休み休みで公務をこなしている。エステルが時折役割を代われど、次には自らが儀式の間に行き魔力を捧げる。

 体調が落ち着いたからといって儀式を繰り返していれば当然悪化していくのだが、それでもイオニアスは止めようとしない。

 半ば交代制のような状況になっても、彼は頑なだった。決して退くつもりはない、という意思の表れのように。




 エステルが棺の中で眠りという名の供給態勢に入ったところで、ヴィルフリートはそっとため息をつく。


 エステルに儀式の最初から付き添うのは、これで二度目。

 基本的にはあまり立ち入る事の出来る身分ではないため当然なのだが、今日は再度大地の声を聞く事が出来るか、前回と同じ状況で試す事になった。


 エステルはいつも通りに魔力を捧げて大地の管理の方に入っていて、ヴィルフリートは手を繋いで待っている。


 この方法で声を聞けるのかさっぱり分からないが、一応確かめるつもりで同行させてもらった。前はいつの間にか眠りに落ちていたが、あれは大地の意思の仕業だったのだろうか。


 エステルの静かな呼吸を聞きながら、ヴィルフリートは棺を囲むように生えた巨大な結晶を見上げる。

 宝石に興味がさほどないヴィルフリートですら、これは美しいと思える輝き。時折脈動するかのように光が明滅しているのは、この結晶が大地と繋がっているからだろう。


 生きているように光るその結晶は、きらびやかで、そしてどこか儚いという印象を抱かせる。


 何気なくそっと近くにあった結晶に触れて――意識が、暗転した。


『――やめさせてあげて』


 引きずり込まれた、と今度は認識できた。


 真っ暗闇の中にまた放り出されたヴィルフリートは、どこからともなく聞こえてくる声にようやく話を聞ける状態になった、とひっそり安堵した。

 聞きたい事がある。それを彼女(と声から仮定する)が自発的に話してくれるかは分からない。基本的に会話が出来ないとディートヘルムから聞いていたので、彼女の方から話してくれなければこちらとしてもそれ以上の情報は得られない。


 しかし、しばらく待って声を聞いていても、彼女は『助けてあげて』や『やめさせて』としか言わない。繰り返し、こちらに警鐘を鳴らしている。


(もう少し具体的に言ってくれたらいいんだけどな)


 大体イオニアスだと見当はついているが、確証が欲しい。

 欲を言えば、気にかける理由辺りは聞きたい。歴代の筆頭魔導師とイオニアスの違いを。


「せめて、会話出来れば……俺の声が届けば話が早いんですが。目の前に来てくれたらいいのに」


 どうしようもないとはいえ、会話出来たなら疑問はすぐに解決するのに、現実はままならない。

 声がはっきりと届く分恵まれてはいるのだろう。基本的には断片的な悲鳴という形でしか聞き届けられないそうだ。


 はあ、とため息をこぼしたヴィルフリートは、瞬いて光のささない闇を改めて見て……そこで、眼前の闇が揺らいだ事に気付く。


 空間そのものが揺らぎ、何もない真っ暗闇から他の色が滲む。

 闇ではまばゆい乳白色。春の訪れを表したような薄桃色。

 一際目立つのは、以前炎のようだと称した赤い瞳。今は炎というには鮮やかな薔薇を思わせるその瞳は、どこか無機質な色が薄れて不安に揺れているようにも思えた。


 幼いエステルと思わしき姿を取った彼女は、以前見せたぼろぼろの傷付いた姿ではなく、細やかな刺繍の施された貫頭衣を身に付けている。


『これなら、いい?』


 聞こえていた嘆きとも懇願ともとれる声と同質のものが、確認するように問いかけてくる。


 ヴィルフリートは、固まるしかなかった。

 届かないと思っていた呟きが届いた事や、もう一度姿を現してくれた事、そして、対話の意思を見せた事に。

 筆頭魔導師でもない一介の魔導師であるヴィルフリートがここに来る事自体おかしいのだが、まさかその上でこうして会ってもらえるなど思いもしてなかった。


 ヴィルフリートの困惑を知ってか知らずか、彼女はこちらをじっと見つめて首をかしげた。


『聞こえない?』

「いえ、聞こえます。……お手数をおかけしてすみません」

『……ちゃんとお話出来るのは、ひさしぶりだから……いいの。いつも、一方的にしか、聞こえないから』


 明瞭とした声や確かな言葉に、改めて大地の意思は本当に意思そのものを持ち合わせているのだと突き付けられる。

 決して機能としてではなく、個としての意識を持っているのだと。


 でなければ、こうした寂しそうな声が出る訳がないのだ。


 目の前の幼い姿をとった偉大な存在の前にどうすればいいか分からず、とりあえず臣下の礼を取ろうとすれば、彼女は首を振った。必要ない、という事らしく、余計にどうすればいいか分からず棒立ちになるヴィルフリート。


 ひとまず彼女の言葉を待とうと幼い姿を見つめると、彼女は彼女でこちらを見上げている。

 よくよく考えれば七歳頃のエステルの姿を取っているのだから、身長差がかなりある。やはりしゃがんだ方がいい気がするが、それはそれで間抜けな構図になりそうな気がした。


『聞きたいのは、わたしの言っていた事?』


 見上げるのは構わないらしい少女が、真っ先に核心を突く。

 無駄な会話をするつもりもないのだろう、ヴィルフリートも躊躇いつつも頷く。


『……イオニアスを、助けてあげて』

「……イオニアス様を?」

『このまま続けていたら、死んじゃう』


 やはりというか、想像は当たっていた。

 あの子が指すのはイオニアスで、このままでは命の危機にある事が。


『わたしみたいになるのは、かわいそう』

「……わたしみたい?」

『このままでは、魔力を捧げるだけでは足らず、全ても捧げてしまう。連鎖は、とめたい』


 眉を下げて淡々と、しかしどこか揺れた声で呟く彼女に、ヴィルフリートは押し黙る。


『ずっと、彼の声を聞いてきた。どうして私が、どうして、どうして、と。ずっと、わたしは怨嗟と苦痛の声をきいてきた。わたしの声は、届かなかったけど。……望まずにこの間に来て役目につかざるを得なかった彼は、わたしと同じだから。……歴史を繰り返す必要はないもの』


 ぽつぽつと落とされていく言葉を聞いて、ヴィルフリートはようやく合点がいった。


 何故大地の意思がイオニアスを気にするか、何故意思を持っているか。


 自分が見れる範囲の文献を読んでも、ディートヘルムに聞いても分からなかったが、彼女の話を聞いて答えにたどりついてしまった。


 彼女がイオニアスに向けるのは、同情。

 そして、彼女は全てを捧げた存在で、イオニアスも同じ運命をたどる事を危惧している。

 つまり大地から意思が生えた訳ではなく、意思ある存在が大地へと意思を根付かせた、と言っているのだ。


 これらから導き出せるのは、考えてみれば簡単な事だった。


『ひとりぼっちは、いやだけど……仲間を増やしちゃ、だめだもの』

「あなたは……筆頭魔導師の始まりの存在ですか?」


 いつから、誰から、始まったのか、それはヴィルフリートには分からない。

 けれど、不思議だったのだ。どうしてこの国だけがこのようなシステムになっているか、どうして大地に意思があるのか。筆頭魔導師だけが苦痛を負うシステムがどうして出来上がったのか。


 その答えが、彼女なのだろう。

 望まずに大地の意思となった、つまりこの儀式の間に命を捧げさせられた……人柱となった、少女。それが筆頭魔導師の始まりであり、このシステムの始まりだったのだろう。


 少女は、ヴィルフリートの言葉に静かに頷いた。

 そこには苦痛も怒りもなく、ただ諦念のようなものがほのかに見える。


『もう自分の顔も名前も分からない。でも、役目だけは覚えてる。わたしは、ここにずっといる。何百年も、一人で』


 筆頭魔導師という制度は、何百年と続いている。

 それだけの間、彼女はこの地に留められてきたのだろう。人としての体を捨てさせられ、ただただ大地そのものとなって苦痛に耐えてきた。

 普通なら孤独なまま何百年も継続して苦痛を与えられてきたなら、狂ってしまうだろう。


 それでも、彼女は正常なままここに居る。

 忘却という一種の浄化をしながら、一人で。


『歴代の子たちでも、対話出来る人は少なかった。先代の子は、声を聞いて……見えないところが壊れてしまった。全部、わたしのせい。だから……せめて、イオニアスだけでも、私と同じ事になってしまう前に、やめさせてあげたい。もう、余計な犠牲は、要らないから』

「あなたは、イオニアス様を助けたくて、俺に声をかけたのですね」


 幼い頃から筆頭魔導師の職に就いていたイオニアスの苦痛はどれだけのものだっただろうか。

 その声を聞き続けてきた彼女が、ほとんど覚えていないけれど望まずに犠牲となった自分とイオニアスの姿を重ねても、仕方ないのだ。


 だからこそ、こうして声の届いたヴィルフリートに願った。


大地(からだ)がいたいのに、我慢して俺に呼びかけてくれたんですね。ありがとうございます」


 エステルは、悲鳴を聞く事に特化した、と言っていた。そして職務中によくその声を聞くのだと。

 つまり、こうしている間にも大地の方は苦しんでいる。エステルはそれを治すために棺で戦っているのだ。


 自分にはどうしてあげる事も出来ずに、それでも何かしたくてそっと大地の意思の頭に掌を置いた。

 誰も彼女をねぎらってやれなかったのだ。真実が隠されていた上に声も届かず、孤独と苦痛に耐えていた。


 こうして触れる機会を得たヴィルフリートは、せめて感謝の気持ちを伝えていたわってやりたかった。


 エステルと同じ薄桃色の髪を優しく撫でる。仮初めのものであっても、気持ちくらい伝わると信じて。


 彼女は撫でられた事に驚いたのか身を強ばらせたものの、すぐにくすぐったそうに瞳を細めた。

 触れても嫌ではなかったらしい。仮にも大地を支配する存在に勝手に触れるのはおそれ多いかと思ったものの、喜んでいるようなので多分大丈夫だろう。


 こそばゆそうに笑う姿に、エステルと同じ顔をしていても笑い方は違うんだな、とか、エステルの姿をしていてもどこか人離れした雰囲気をしていたがこうしているとただの子供のようだ、とか、そんな感想を抱く。

 おそらくではあるが、彼女は若い内に大地を身を捧げている。喋り方や雰囲気でなんとなくではあるが、おそらく間違いではないだろう。


『ありがとう、ヴィルフリート』

「名前、お教えしましたか?」

『イオニアスが言ってた。気に食わないって』

「それはまた……」


 おそらく儀式の最中に愚痴っていたのだろう。意識の内に入っている事をありがたく思えばいいのか、嫌われている事に嘆けばいいのか。

 お節介を焼く人間を疎んでいるようだが、それでも嫌悪されている、とまではいっていないような気がする。それなら先にディートヘルムを毛嫌いするだろうが、ディートヘルムは嫌われてはいないらしいのだ。


「彼は俺の事を嫌いかもしれませんが、それでも出来うる範囲で助けられればと思います」

『……ありがとう』

「今後ですが、イオニアス様についてはこの事を相談した上で、対処させていただきます。……すぐに死ぬ、という事はないですね?」

『まだ、大丈夫。でも……これからまた無茶をするなら、危ない』


 イオニアスと魔力で繋がる事がある彼女には体調が手に取るように分かるのだろう。

 瞳を伏せて嘆くように言葉にした彼女から、あまり猶予は残されていないのだとも分かる。今すぐに止めたなら、常人のように寿命こそまっとうできないかもしれないが、すぐに燃え尽きるようなものでもないのだろう。

 それを拒むのは、役目と存在意義に固執するせいだ。


「分かりました。……あなたに関してですが」


 これは彼女にも、イオニアスに直接言ったところで、どうにもならない。

 ひとまず置いておくとして、彼女そのものについて少し話しておくべきだろう。


「俺は、あなたに何もしてあげられません。苦しみから救ってあげる事も、出来ません」


 真実を知っても、ヴィルフリートは大地の意思を救えはしない。とうに肉体もなく、意識だけの存在。

 その上この大地を支配する存在で、ヴィルフリートがどうこう出来る権力も実力もない。苦痛を負うのを、見守るしか出来ない。


 それは大地の意思も理解しているのか、無表情で頷く。元よりどうこうして欲しいと願っていた訳ではないらしく『助けるのはイオニアスだけでいい』と呟いている。

 すべて諦めて身に降りかかるものを受け止める彼女に、ヴィルフリートはもう一度そっと頭を撫でた。


「ただ、ひとりぼっちがさびしいなら……また会いに来ます。主にエステルがですが、俺も側についてますから」


 実際、ヴィルフリートが出来るのはこのくらいだ。苦痛を和らげる事は、ヴィルフリートには出来ない。それは筆頭魔導師の仕事で、ヴィルフリートが手を出せる領分ではない。


 けれど、孤独を癒やす事なら出来る。

 おそらく、今の時点で唯一会話が出来るのが自分だろう。寂しいと弱々しく訴えるなら、会いに行けばいいだけの話だ。

 もちろん、正式な補佐官の立場になってからでないと一人で堂々とは行けないだろうが。


『……ほんと?』


 提案に、赤い瞳が少しだけ生気を取り戻す。


「本当に。まあ、正式に補佐官になってからじゃないと基本ここには入れないんですけどね」

『じゃあ、待ってる』

「はい、あなたにまた会いに来ます。……あなたって呼ぶのも変な気分ですが」

『……名前、覚えてないもの』


 しゅん、と眉を下げ肩を落とす彼女。

 名前は自身の証明であり、自分が自分であるという確認にもなる。それすら忘れた彼女は、それだけ長い時を生きてきたのだ。もう自分の事もろくに覚えていない、というのは、どれだけ不安なものか。


 過去の資料を漁っても、おそらく出てこないだろう。

 一人の少女を無理に犠牲にして国は繁栄した、という事実は不都合で、残しておかない方が体裁がよいから。


 名前もなくただシステムとして役目を果たし続ける、というのは、気持ちのいいものではない。


 悲しげに瞳を揺らす彼女。彼女の赤い瞳は、どこか潤んで露をまとった薔薇を思わせる。


「……ロゼ」


 ふと、口をついて出たのは、そのまま薔薇という意味を表す名だった。


 ぱちくり、と瞳を瞬かせる彼女の瞳は薔薇のようだ、そんな安直な言葉だったが、その単語がどういった意図で発せられたものなのか理解したらしい彼女は、おそるおそるこちらを窺ってくる。


「あ、いやその、勝手に名付けるのは失礼でしたよね。その瞳が真っ赤な薔薇のようだな、と思って口にしただけで」

『……なまえ、くれるの?』

「流石に勝手に与えるのはよくないと思ったので、やはりこれは」


 と言いかけて、彼女がしょんぼりしているのが見えて、ヴィルフリートは言葉をつまらせた。


『それがいい』

「あー、いやその……いいんですか?」

『誰も知らないし呼ばないから、いいの』


 確かにそうではあるのだが、勝手に名付けていいのだろうか、とヴィルフリートとしては迂闊に口にした事をほんのり後悔していた。

 会話するのもそうだし、こう仲良くしていいものなのか……と頬をひきつらせたものの、あまりにも彼女の瞳が期待に満ちていて、拒めそうにもない。


「……名前というか、俺が勝手に呼ぶ愛称という事で、ここはどうか一つ」


 妥協案として、公にしない方向でいく事にした。


 自業自得とはいえ微妙に頭が痛くなってきたヴィルフリートなど露知らず、自らを定めるように『ロゼ』と呟く大地の意思……ロゼは、染み込ませるように幾度かまた呟いて、やわらかく微笑んだ。

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