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71 噂とささやかな悪意

 大地から声が聞こえた、という珍しい案件についてエステルからディートヘルムになされたが、ディートヘルムの方ではすぐにどうこう出来るものでもなかった。

 ディートヘルムも過去の筆頭魔導師の資料を漁ったりしたようだが、今回の事例のようなものは見当たらない。ヴィルフリートももう一度声を聞けたら早かったのだが、再度許可を得て入ったものの声は聞こえなかったので事態の解明の進展はしなかった。


 おそらくイオニアスを心配しているのだろう大地の意思だが、肝心のイオニアスはどこまでも沈黙を保っていた。ディートヘルムが問いかけても、それに返事をしない徹底っぷりだそうだ。


 体調の悪さは変わらずで、あれから表には姿を見せない。


 元々、基本的に当代の筆頭魔導師であるイオニアスは表舞台に滅多に出ない男だ。

 義務である式典にも必要最小限のものしか出ないし、出たところで体型の出ないローブに布を頭にかけ、その顔を見る事もほぼない。ヴィルフリートは顔を知っているが、一般職員はあまり顔も知らないだろう。


 歴代でも強い力を持つ、幼い頃から顔を見せず十年筆頭魔導師を続けてきた男。

 ミステリアスといえばいいか、謎に包まれたといえばいいか、とにかくよく分からないといった青年がイオニアスの一般的な見方だ。


 しかし、ここ最近になって新たな噂が一つ流れた。


『筆頭魔導師が姿を表さないのは、体の具合が相当悪いからではないか』




「……とうとう明るみに出ちまったか」


 流れ出した噂を止める事は出来ない。本人が元気な姿を見せ意欲的に働いている様が見られるなら払拭も簡単だろうが、実際噂が事実だと分かっているヴィルフリートはそれがままならないのも分かりきっていた。


「ほとんど姿を現さず公務も必要最小限しかしていないので、謎な方だとは思われていましたし、俺も知るまではそう思ってましたが……広まりは早いですね」

「そもそも今まで筆頭魔導師に触れられる事はなかったのに何で今更って感じだよ」


 噂に頭を悩ませているのはこの第二特務室の面々だけではなく、本人やディートヘルム、それに上層部の面々だろう。

 一般職員にはひた隠しにしてきた肉体面での問題がどうして漏れたのか、噂されるようになったのか、出所は分からないがあまり喜ばしい事ではない。


 ヴィルフリートとエリクが互いにため息をつきながら会話していた内容に、マルコも呆れやら疲れやらで顔を歪めつつ同じようにため息をついた。


「あんまり広まらないで欲しかったけどね。上のやつらが今度はエステルに圧力かけてくるから」


 圧力をかける、というのは交代が近付いているから逃げるな、といった類いのものだろう。

 魔導院としては、エステルは次の筆頭魔導師のために留めているしここまで育て上げたのだ。ディートヘルムがエステルを大切にしているとはいえ、彼もエステルの完全な味方という訳ではない。後を継がせるという事に関しては逃がさない筈だ。


「イオニアス様は、閣下の言う事は何だかんだ聞くけど、他のやつには反抗的だったからね。一応立場的にはイオニアス様が上だし、使い潰そうとしてくる相手の言う事なんて聞けないって事だから、仕方ないけど」

「あの人も複雑な立場なんだよなあ……」


 しみじみと、疲れたような声音で呟くエリクがソファの背凭れにどっかりともたれかかって戸棚の整理をしていたヴィルフリートを仰ぎ見る。

 イオニアスやディートヘルムから遣わされたであろう彼らは、他の職員よりも事情には当然詳しい。第二特務室に配属されて年季が入っている彼らは、当然ヴィルフリートが知らない事も知っているだろう。

 イオニアスやエステルの幼い頃も、見ているだろうから。


「まああの方の体調不良は今に始まった事ではないが、問題は筆頭魔導師の交代について囁かれ始めた事なんだよ」

「それは」

「お嬢がイオニアス様の妹だって事や次期筆頭魔導師だという事は極一部の人間しか知らないが、戦闘部門のやつらはお嬢の実力そのものは知っているから、筆頭魔導師になるって事は薄々感づいているだろう」


 エステルが本領を発揮するのは戦闘分野だ。発揮する機会は戦闘部門の人間でも苦労するような時にしか来ない。ある意味虎の子のような扱いをされている。

 実際は戦闘部門の人間に煙たがられているのだが、それでもエステルが強いという事は向こうも身に染みているだろう。


 特級であり出陣を滅多に許されない存在。外に出れば比類なき強さを誇る少女。

 隔離されている、という事は裏返せば大切に仕舞われている、とも取れるのだ。ヴィルフリートは気にする事もないが掃き溜めと言われている第二特務室が、別の目的で設立されたという事に、気付いてもおかしくはない。


「その噂が戦闘部門から広がれば、色々と画策する馬鹿も居るかもしれんなあ」

「あーやだやだ、面倒くさいよね」

「……エステル様が心配になってきました。閣下と話があるからと一人で行ってしまったのですが……側に控えておくべきでした。今から迎えに行ってきます」


 エステル一人で呼び出されたので、エステルはこの場には居ない。

 本人は平気だからと一人でのほほんと出ていってしまったのだが、この話を聞くとついていくべきだったと後悔が湧いてくる。


 根も葉もない……とは言わないが、噂でもし悪意にでもさらされてはエステルが傷付くだろう。流す術を心得ているとはいえ、元々人見知りの気がある彼女は突っかかられたりされるのはかなり苦手だ。

 ヴィルフリートは多少言われたところで何とも思わないので、自分がガードに入った方がいい。


 何にせよエステルの側に居た方がエステルにとっていいのは明らかなので、あまり目を離すべきではない。


 資料を整理するのも一段落がついたので、一旦ディートヘルムの部屋に向かおうとソファにかけていたコートを羽織るヴィルフリートに、マルコは瞳を細める。


「……あんたも気を付けなよ」

「え?」

「あんたが単独で閣下の部屋に出入りしてるの、他のやつらにも見られてるし。閣下があんたを気に食わなかったからでなく何か画策して第二特務室に飛ばしたんじゃないかって勘繰るやつらもいるし。たとえば、今から次期筆頭魔導師かもしれないエステルに取り入らせて自分が降りても影から操作出来るようにとか」

「そりゃまた愉快な」


 ある意味合っているが、動機が全く違う。ディートヘルムはエステルのためにヴィルフリートを側つきにしただけで、エステルをどうこうしようという意思はない。


 筆頭魔導師補佐官は基本的に魔導師の中でも特に優秀な魔導師の中から選ばれる。

 ディートヘルムが二代続けて就任しているのは優秀さからとイオニアスやエステルを扱いやすいといった面を考えての事だろう。


 現状でもイオニアスに代わって魔導院を上手く運営しているのだから、取り入らせるなどわざわざそんな回りくどい真似をせずともよい。

 そもそも、エステル本人としては自分の代わりに魔導院を任せられるなら万々歳だろう。本人は仕方なく就こうとしているだけで、権力にはさらさら興味がないのだから。


「エステルだって閣下の部屋に普通に入るでしょうに。取り入るも何もないでしょう、元々仲がよいのですし」

「だから噂って無責任だよねって話。都合のいいように歪曲させたり面白半分で誇張したりするものだからね」


 まるで実感してきたような口ぶりで吐き捨てたマルコは、ヴィルフリートと視線が合うとふいと目をそらした。


「ともかく、気を付けなよ」

「ご心配ありがとうございます」

「……別に心配とかじゃないし」

「素直じゃないなマルコ」

「うるさい!」


 からかいの声に鋭く声を発したものの、微妙に照れ臭さが混じっているのかトゲはない。

 どうやら気遣われていたようだ、とヴィルフリートがひっそりと笑えば今度はこっちに矛先が向いたので、ありがたく気持ちを受け取りつつさっさと退散する事にした。



 

 ディートヘルムの執務室に向かうのももう慣れたものだ。

 本来軽々と会いに行けるものではないのだが、知り合いというか保護者仲間の彼とは気負う事なく話せるようになったし、たまに食事に呼ばれる。そんなだから妙な誤解を招いているのだろう、とは認識しつつも、大概話す内容がエステル関連なのでやめる事もない。


 いつものようにディートヘルムにあてがわれた部屋にたどり着けば、丁度エステルも話が終わったのか部屋から出てきたところだった。


 ふわりと波打つ髪を揺らして振り返ったところで微笑みかければ、エステルの表情は分かりやすく輝いて色づいた。


「ヴィル」

「お迎えにあがりました」


 近付けばエステルもてててっと小走りで寄ってきて喜色も露な眼差しを向けてくる。

 抱きつかないのはここが外だという事を慮ってだろうが、それでも色々と滲み出ている。気付かないのは本人だけだろう。


 可愛らしさについつい手が頭に伸びかけたので自重しつつ「丁度よかったですね」と声をかけると、エステルは嬉しそうに頬を緩めた。


「ぴったりなのでびっくりしちゃいました」

「俺も驚きました。まあ待たずに済んだ事はよい事ですかね」

「でも、別に迎えに来なくてもよかったのですよ? 一人で帰れない訳じゃないですし」

「ちょっと心配な事があったのでお迎えにあがっただけです」


 もし面倒くさいのに絡まれたら困るだろうという心配から迎えにきたのだが、エステルは噂に気付いているのかいないのか「別に平気なのに」ところころ笑っている。

 実際のところ実力行使をしていいならエステルに勝てる人間などイオニアスくらいなものだろう。苦情まったなしなために手は出さないだろうが。


 のほほんとした笑顔のエステルに、ヴィルフリートもわざわざ心配事を増やさずともよいか、と自分が露払いになる決意をしつつ納得し、そのままエステルと共に第二特務室に続く道を進む。


 いわゆるお偉方が居るような区域はあまり人通りもないが、一般職員達に割り振られた区域ともなれば人は見かけるようになる。

 第二特務室は魔導院でも端っこの場所にあるため、必然的に歩く距離も増えるが、一般区域に入ってから微妙に周囲から視線を感じて居心地が悪かった。


 普段なら悪意を向けられるなら嘲笑か蔑みが飛んで来るのだが、今日は戸惑いのようなものを感じられる。

 ここにも噂が浸透しているのか、と思うとげんなりしてくるが、エステルはあまり気にした様子もなさそうだ。


 ちくちくとこちらにも視線が飛んでくるのであまり愉快ではないな、とひっそりため息をついたところで、肩に衝撃を受けた。


 体勢こそ崩さなかったものの、驚きに碧眼をしばたかせる。

 なにかがぶつかったのだと理解して視線を向けると、大柄な男性がこちら、主にヴィルフリートを見て瞳を細めていた。


 いかつい、と表現してもよい風貌の彼は、ぶつかった事に対して謝罪をするでもなく、ただこちらを睥睨して「腰巾着の腑抜けの癖に」と吐き捨てて、二人から離れていく。

 その腰巾着の腑抜けが自分を指しているらしいと遅れて理解したものの、どう反応したものかと悩んでいる内に男は角を曲がってどこかに消えていった。


(何というか、露骨だな)


 これくらいで怒るほど狭量ではないし、何だか突然の事すぎて呆気にとられていた。

 見知らぬ男から罵られた事に、どうしていいのやら。


 エステルの腰巾着なのかディートヘルムの腰巾着なのかは彼が具体的な事を言わなかったために判断がつかないが、とりあえず地位の高い人間にすり寄っているように思われているのだろう。

 腑抜けについてはまあそう見えるんだろうな程度だ。エステルに甲斐甲斐しく付き添っていたら、弱々しくも見える、らしい。


 やはり噂を真に受けたのかな、と冷静に分析しているヴィルフリートは、袖がぎゅうと締め付けられている事に気付く。

 見れば、エステルが頬を膨らませてヴィルフリートの袖を掴んでいた。


「……エステル様?」

「行きましょうか」


 どうやら、ヴィルフリートに暴言が吐かれた事をお怒りのご様子。

 ぷんすかといった感じで可愛らしく苛立っているので、罵倒された筈のヴィルフリート本人はついついほっこりとしてしまうのも仕方ないだろう。


 出来ればそういう可愛い表情は外ではしない方がいいんだけどな、と思ったものの、今は宥めても無駄だし衆目の中ご機嫌とりをする訳にもいかない。


 なので、エステルの声に従いさっさと一般職員区域を通りすぎる事にした。




「ああいう人嫌いです」


 人気がなくなったところで律儀に防音の魔法を施したエステルがふてくされたように呟くのを、ヴィルフリートは笑みをこぼしながら聞いていた。


「そんなに怒らなくても」

「怒ります。ヴィルが馬鹿にされました」

「別に構いませんけどね、あれくらい可愛いものです」


 第二特務室に来る前から色々と言われなれているので、これくらいで怒ったりはしない。むしろあの程度かくらいなものだ。

 ああいう手合いの人間はひどいと聞くに耐えない暴言を吐いてくるので、まだあれは序の口だろう。エステルに聞かせられないような言葉も一通り聞いてきた。


 別に自分の悪口くらい流せるのだが、エステル的には不愉快らしい。ぷりぷりとお怒り中で、ヴィルフリートを見上げて「どうしてそんなに冷静なんですか」と唇を尖らせている。


「まあ今回のは予期していましたから。俺の事はどうでもいいですから拗ねない」

「どうでもよくないですっ」

「ああいう手合いの人は注意しても逆上して面倒くさいので放置です。好きに言わせておけばいいです。反論しても聞かないし時間の浪費だと経験で分かってますので」


 構ってもキレるし構わないとそれはそれで怒るのだが、どうしようもないので放っておくしかないのだ。知らない相手であるし、言うだけ言って勝手にどこかに行ったのだからどうしようもないだろう。

 そもそも、そんな人間のために時間を割くくらいなら仕事をするなりエステルに構うなりした方が余程有意義だ。


 もう流したヴィルフリートにエステルは不満そうだったものの、本人が蒸し返す真似はしたくないと分かったのか不満を飲み込んでいる。

 これがエステルに暴言だったならもう少し考えたしまず相手の特定に入るのだが、自分なのでどうでもよかった。


「……そういえば、閣下に呼び出された用件というのは、前の報告についてと噂のお話でしょうか」


 話をそらすためにエステルが呼び出された理由について聞いてみると、エステルは少し体を揺らした後、小さく吐息。

 周囲の防音の効果が、強くなる。


「それもあります。私が今日聞いたのは、今後の事も含めてです」

「……あの方の事ですか」

「ええ。実際、彼は限界に近いです。まるきり魔力を使わなくなれば回復こそある程度はすると思いますが、現状を続けていては回復など無理です。元々、体が弱いのもありますから……」


 負担に耐えきれず、遠くない内に命を落とす。

 エステルは言葉を切ったものの、そう続ける筈だったのが簡単に予想がついた。


「……彼が自ら辞めようとは?」

「しないでしょうね。意地っ張りで、見栄っ張りで、自分にはそれしかないと思い込む人ですから。周りの声も、聞こえない振りをするのです。自分の殻を壊されたくないから、すがりつくものを取り上げられたくないから。それが破滅に向かえど、彼は譲りません」


 エステルにしては辛辣な言葉を並べ立てていたが、それだけ彼の事を理解して、近しいものだと思っているからこそ、そう言えるのだ。

 それはヴィルフリートにすらされない事。彼もまた、ヴィルフリートとは違うエステルの『特別』なのだから。


「……本当に、馬鹿です。無理しないでって、ずっと言ってるのに。向き合う事から逃げた私が言えた義理じゃないけど、それでも、無理だけはしないで欲しかったのに」


 彼と同じすみれ色の瞳に沈鬱な色を混ざらせたエステルは、一度ヴィルフリートの視線を払うように俯く。


「……だから、私は――」


 続けた言葉は、聞こえなかった。


「エステル?」

「ううん、何でもないです」


 顔を上げたエステルは、もういつもの笑顔に戻っていた。

 違和感をほんのりと感じたものの、追及するなという雰囲気に、言葉を飲み込む。


 時折、エステルは触れてほしくなさそうに曖昧な笑みで飲み込む事がある。今回は、いつもよりそのガードが堅く、聞き出せそうにない。

 抱え込む癖があるのはこの兄妹揃ってなのだろう、と思いはしたものの、それを口にはしなかった。


「……ねえヴィル」

「何ですか?」

「ヴィルは、支えてくれるんですよね」


 確認の問いに、ヴィルフリートは間髪入れずに頷いた。


「ええ、あなたの気が引けようとも、勝手にお支えします」

「……よかった。私、一人じゃないんですもんね。――だから一つ、お願いしてもいいですか」

「何でもどうぞ」

「聞く前からそういう事言っちゃだめですっ」

「では言い直しますね、俺に叶えられる事であれば最善を尽くします」


 何でも、と言ったものの出来ない事はある。だから、ヴィルフリートが出来る事ならばなんでも叶えるし、出来ないならそこに手が届くようになるまで努力するつもりだ。


 あまり何か欲しいとかそういった事を言わないエステルの願いは出来うる限りで叶える、という宣言に、エステルはへにゃりと眉を下げた。

 嬉しそうで、しかし、どこか悲しそうでもある。


「私のために、頑張ってください。こういう言い方は、よくないって知ってるけど……あなたを選ぶ事を贔屓だって言わせないように、して」


 何を言いたいのか、よく分かった。

 つまり、隣に立つだけの実力を身に付けておけという事なのだ。迫り来る継承の時、側に居る事が出来るように。


「仰せのままに」

「無茶だって言わないんですね」

「あなたが言ったんでしょう、俺なら出来るって」

「ふふ、そうですね」

「……お側に居るための努力は、欠かしてませんから。あなたを守るには程遠くても、あなたを支える事が出来るくらいには、強くなりましたよ。まだまだ精進しますが」


 筆頭魔導師補佐官……つまりは現在のディートヘルムの立ち位置に就くためにも、ヴィルフリートは努力を惜しまない。

 常に体内で魔力を練る事を繰り返し、魔力の一欠片だろうが思い通りに操れるようになる事を目指している。体の一部のように扱えるようになってようやく一人前、と昔の高名な魔導師は言ったそうだが、その極致に至るまでには遠い。


 目の前の少女まで強くなれるとは思わない。

 しかし、彼女の隣に胸を張って立てるくらいには、強くなるつもりだ。


 ヴィルフリートの答えに、エステルは少し瞳を滲ませて、それからゆっくりと相好を崩してヴィルフリートの手を握った。

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