69 声の正体
目を開くと、周囲の闇は晴れていた。
先程まで目を開いていた感覚があるので改めて目を開くというのも変な話だが、あの真っ暗な空間はどこにもなく、周りには碧の光で包まれた空間があった。
体を寝かせる事なく夢の世界に居たのか、目の前にはどこか焦ったようなエステルの瞳。
鮮やかな紫の瞳に、先程までの事を思い出して思わず華奢な体を抱き締めた。
腕の中でびくりと体が揺れる。
あの今にも死んでしまいそうな細身の体ではない。ほどよく肉付いたしなやかな体。乳白色の肌には傷など一つとして見当たらないだろう。
髪だって無理に切られたような薄汚れた髪ではなく、伸ばされ手入れされた髪。確かめるように頬を撫で髪に指を通して、ようやく今のエステルだと安堵した。
「あ、あの、ヴィル……?」
いきなりヴィルフリートが謎行動をしだした事に困惑を隠せないエステルが不安げに問いかけてくるので、ヴィルフリートは柔らかい笑みを心がけて瞳を覗きこむ。
相変わらず、美しいすみれ色の瞳がそこにあった。
「すみません、うたた寝をしていたようで」
「……うたた寝」
「ええ。……ああそうだ、エステルは昔瞳が赤かったとか、そういうのはなかったですよね」
いささか唐突だったが、一応確認のために問いかける。
先程見たあれは、エステルではない。エステルの形をした何かだ。姿形はおそらくエステルの子供の頃のものだろうが……無機質な赤い瞳は、エステルのものではない。
突然の質問に、エステルはほんのり眉を寄せ、それからこちらの真意を伺うようにヴィルフリートの瞳を見つめ――ゆるりと首を横に降った。
「……いえ、元々この色でしたよ。ずっとお兄様と同じ色です」
「そうですよね。変な事を聞いてすみません」
「ヴィル、私からも聞いても良いですか」
「はい、何でしょうか」
いきなり何を聞くんだ、とかそんな質問が投げかけられるのは想定内だ。自分でもいきなり過ぎたなと思ったものの、答えを得られそうな問いかけがすぐには思い付かなかった。
エステルは、ヴィルフリートが待ち構えるように穏やかに微笑んだのを見て、眉をまた寄せた。
「暗闇で何を見てきましたか」
一瞬、意識に空白が出来た。
あまりに的確な質問に、ヴィルフリートも硬直して反応が遅れる。
エステルは、確信を持った問いをしてきた。
まるでその場に居たような……もしくは、その場を見てきたような、そんな問いかけで。
何もかも見抜かれているような気がしてヴィルフリートは苦笑するしかない。先の問いかけの問題に失敗したな、と改めて思いながら、今度はエステルの疑問……というよりは確認に応えるべく、あまり思い出したくない方の光景を思い浮かべながら、眉を下げた。
「……燃え盛る大地や、飢え苦しむ人々の姿を。それから――十年前の事件の光景が」
「……もう一つ、見ませんでしたか」
本題はそっちなのだろう、見ましたよねと眼差しが確認してくる。
「……真っ暗闇の中に、エステルの子供の頃と思わしき、女の子を。ただ、その子は瞳が赤かったですが」
「……やっぱり。どういうつもりなのでしょうか……」
「エステル?」
エステルはその子供の正体を知っているらしく、思案顔。
ただその子供が出てきた事をあまり喜ばしく思っていないようで、こめかみを揉みつつ小さく吐息をこぼした。
「ヴィルが見たものは、多分、意思そのものだと思います」
「意思……?」
「大地の意思ですよ」
全く想定していないものの存在を突き付けられて、ヴィルフリートはどうしていいものかと体を強張らせた。
――大地の意思。
それは、この国の最重要機密であり、そして国の命運を司るような存在。詳しくは知らないが、少なくとも本来ヴィルフリートが触れられるような存在でもないだろう。
手を繋いで儀式に入ったせいなのか、はたまた別の理由があったのか。
どうしてか、ヴィルフリートの前に姿を現したのだという。
「私の姿をとっているのは、その、仮初めのものなので。……そうですか、あの子が……」
「……俺みたいなのにホイホイ姿を見せてよいものなのですか」
「いえ、普通なら筆頭魔導師くらいにしか存在そのものを知らせないのですが……そもそも、声が聞ける時点で適性はものすごく高い訳で……」
「適性?」
「その、筆頭魔導師の」
やや言いにくそうに告げる彼女に、ヴィルフリートは面食らったもののすぐに苦笑して笑い飛ばす。
筆頭魔導師という存在がヴィルフリートに身近になったとはいえ、それでも差が歴然なのは身をもって理解している。
一番優れた魔導師が立つべき場所であり、そこに至るには身分の貴賤はない。ただ、圧倒的に強い魔導師が就くものだ。
その適性がある、と言われてもジョークだろうと流すしかない。
ヴィルフリートは自分をそう強いとは思わない。勿論努力を欠かした覚えはないし、エステルと共に過ごすようになってからも鍛えてきた、なんならエステルが次代の筆頭魔導師だと知って尚更鍛えるのに熱が入っているくらいだ。
それでも、ヴィルフリートはエステルには敵わない。
「そんなまさか。俺では力不足ですよ」
「……ヴィルって変に自身を卑下してません? 言っておきますが、ヴィルは特級の昇格試験受けたら多分通りますよ」
「……はい?」
「元々才はあったのです。それが未開花だっただけで……前、私が魔力を起こしたでしょう。あれからずっと扱える量が増えている筈です」
「そ、そりゃあまあ、そうですが……でも、特級は」
特級は、なれる人間が数が限られている。
人数が限られている訳ではない、実力に隔たりがあるのだ、一級と特級は。その領域に自身が足を踏み入れているなど、到底思えなかった。
「私が保証します。……あのねヴィル、こう言うのは傲慢にも思えるかもしれませんが……私と比べるのは、間違っています。私はそれ用に調整された結果ですから」
調整、という言葉は人間に使うには似つかわしくないが、本人としてはそう言ってもおかしくはないのだろう。
筆頭魔導師になるべくして体を作り替えられたエステルは、文字通り何もかもそこらの魔導師とは違う。魔力量も、扱える魔力も、魔法の威力も。
ヴィルフリートも追い付けるとは思っていないが、せめてその背を支えるくらいしたかった。
「……それから、筆頭魔導師の条件ですが、確かに群を抜いて優秀な魔導師、という条件はありますが、何よりこの大地の意思を受け止められるか、というのがあるのです」
「大地の意思を受け止められるか、ですか」
「感受性がないとそもそも大地に自身を接続出来ないというか。相性があるのです。人と同じですね」
大地の意思が受け付けなければこの場に立つ事すらままならず、受け入れられたとしても今度は自分が意思を受け入れられなければ役目にはたどり着けない。
なんとも複雑で歪んだシステムだ、と思いながらも、それでもこの国はそうして栄華を極めてきた。その恩恵を知らず知らずの内にあずかってきたヴィルフリートは、言葉を飲み込んだ。
「……それから、感受性が高すぎない、というのも大切です」
「高すぎない?」
「高すぎない、というか……あまりに同調しすぎると、その……声を、悲鳴を、受け止めすぎて……壊れてしまう、というか。下手すると発狂、ひどいと、人としての意識を保っていられなくなります」
「非常に危ない単語が飛び出ているのですが……」
「もちろん、そんな事はここ十代はまずなかったのですが、過去に……。その過去がひどい時代だったから、というのもあります。ここ数百年は安定していますが、荒れていた時代もあるので」
もしかしたら、ヴィルフリートが見たのは大地に刻み込まれた過去の記憶だったのかもしれない。
ヴィルフリートが生まれるずっと前、それこそ親や祖父母が生まれるよりも遥か前に、戦争が起きた事があったらしい。今でこそ平和で栄えているが、その当時はひどく大地が荒れたそうだ。
その時の記憶を蘇らせヴィルフリートに見せたのだとしたら、あのむごさも頷ける。
肝心の見せた理由がさっぱり分からないので引っかかるのだが、大地の意思本体に聞かなければそれも判明しないだろうから一旦置いておく事にした。
「ですので、感受性があって、精神的に強い人が向いているのです。本来、私よりヴィルの方が向いているのですよ。……私は、精神的には弱いですから」
へにゃり、と悲しげに眉を下げて笑うエステルに、ヴィルフリートは無言のままエステルにでこぴんを繰り出した。
手加減がかなりされているのでぺちんと情けない音を立てるだけ、衝撃も一瞬痛みが走る程度のものだったが、ヴィルフリートにされたという事が驚きだったらしくエステルは目を丸くしている。
「あなたは卑下しすぎと俺に言いましたが、あなたこそ卑下しすぎなのではないですかね」
「で、でも」
「まあ、エステルが精神的に弱いのは知ってます。弱いというよりは繊細ですが。……ですが、弱くたって構いませんよ。俺が勝手に支えますから、あなたはあなたらしく居てくれたら良いです」
エステルの場合は感受性が高くて繊細なのだ。弱いという言葉で片付けるには、あまりにも鋭敏で優しい心根で。
それは美徳であるが、確かに本人の言う通り大地の意思から伝わる苦痛を受け流しきるにはいささかきついものがある。
だからこそ、ヴィルフリートが側に居る。折れないように、側で支えるために。
「ヴィル……」
「さ、戻りましょうか。……お疲れでしょうし、今日は側に居ますよ」
「……添い寝は?」
「応相談です」
即座に却下しないあたり大分柔軟になっているヴィルフリートは、頼み込まれたら今日も共寝をするんだろうなと妙な確信を抱きつつエステルを抱え上げる。
消耗しているのかへろんとした状態のエステルはヴィルフリートの行動を受け入れ、むしろ喜ばしそうに胸にもたれた。
うりうり、と胸に軽く頭突きしてくるエステルにヴィルフリートも苦笑しながら、ふと棺を囲むように生えた結晶を見つめる。
美しい輝き。淡く光るそれは幻想的であったが、どこか儚さを感じる美しさがあった。
『たすけて』
耳を撫でるように、どこからか吐息のようなか細い声が響く。
エステルには聞こえていないのか、ヴィルフリートにくっついて穏やかに瞳を閉じている。
空耳と断言するには、その声は聞き覚えのあるものだった。
『――あの子を、助けて――……』
「……あの子?」
「ヴィル?」
反芻するように声を上げたヴィルフリートに、エステルは不思議そうな目を向けてくる。
何でもないですと笑って誤魔化して結晶を見ても、そこには美しく光るだけの存在しか居ない。あの幼子の姿もない。
問いかけたくてもエステルを抱えた状態で問答など出来そうにもないし、ヴィルフリートは今回はどうしようもないと大地の意思と思わしき声を置いて、地上に戻った。




