65 届かぬ言葉と気持ち
「イオニアス?」
ぐったりとするイオニアスと、彼を背負って執務室の扉を叩いたヴィルフリートに、ディートヘルムは珍しく純粋に驚いたような瞳を向けてくる。
ディートヘルムからすれば、呼んだ筈のヴィルフリートがまさかイオニアスを背負ってこようなどとは想定外。一人でくると思っていたのと、まさかイオニアスが顔色悪そうにして背負われてきたというのが驚きの理由だろう。
ディートヘルムの声に少し気力を戻したのか気だるげに顔をあげたイオニアスは、その驚きの顔を見て不愉快そうに顔を歪める。
「……私が頼んだ訳じゃない、こいつがお節介はなはだしかったんだ」
「それはそれは」
本意ではないと顔にも態度にも表しているイオニアスではあったが、それを聞いたディートヘルムの受け取り方は額面通りではなかったらしい。
くつくつ、と喉を鳴らして笑いをこらえたような表情を浮かべており、ヴィルフリートの背中でイオニアスの機嫌が急降下した。
「……もういい、離せ。ディートヘルム、薬があっただろう。出してくれ」
離せというよりは自ら突き飛ばすように降りたったイオニアス。
よろめいていたものの、もう頼る気はないと自身でディートヘルムに近付いて、冷たい瞳で彼を見ている。
愉快そうな眼差しや口元から緩やかな苦笑に移り変わったディートヘルムは、イオニアスの命に逆らう事はなく机の引き出しから小瓶を取りだし、イオニアスに手渡した。
薄い紫の液体が中で揺れているのを確認したイオニアスは、そのまま小瓶の蓋を開けて一気に流し込む。
元々機嫌が悪く眉間の皺が主張していたのだが、こくりと嚥下してからはなおのこと刻まれた溝が深まっている。不味いと顔で示しているが、それについては一言も口にしないので、慣れているのかもしれない。
小瓶の中身を飲み干したあとは空の小瓶をディートヘルムに突き返し、胸を押さえている。
苦悶は、聞こえない。しかし耐えているのは表情で分かった。
声をかけるか否か迷ったものの、ディートヘルムから放っておけと眼差しで合図されたためにヴィルフリートも大人しくその様子を見ていたのだが――しばらくすると、イオニアスが忌々しそうな眼差しを向けてきた。
薬が効いたのか、顔色は幾分よくなっている。
「何見てるんだよ」
「イオニアス、柄が悪いぞ。連れてきてくれた相手にお礼くらい言ったらどうだね」
「うるさい。保護者面するな」
「これでも保護者だからね」
イオニアスの不機嫌さはいつもの事なのか、ディートヘルムは彼が非常に苛立ちを見せていても気にした様子はなかった。
「それにしても珍しい、君が素直に彼に頼るとは」
「お節介と偽善の塊が勝手にした事だ」
「ええ、俺が勝手にした事ですので、なんらイオニアス様の意思には関係ありませんし、お礼など言われる立場ではございませんので」
素っ気ないを通り越して刺々しい声で吐き捨てたイオニアスだが、ヴィルフリートとしては別に気にはならない。
確かに自分でそう認めたし、本人が嫌がっているのに勝手に運んだのは自分だ。悪し様に言われるならそれはそれで受け入れるつもりであるし、自身も自己満足だと思っていた。
あっさりそう返したヴィルフリートに、イオニアスは分かりやすく舌打ちをした。
多少罵られたところで傷付かないヴィルフリートに不愉快そうではあるが、それ以上は何も言わない辺り会話そのものを拒んでいるのかもしれない。
ディートヘルムは二人の反応にやや面白そうに見てくるが、ヴィルフリートが肩を竦めると苦笑い。
「まあそれはいいが……イオニアス、体調を崩す頻度が多くなっている。そろそろ一度本格的な休養をするべきだ」
イオニアスからすれば、ディートヘルムの発言は受け入れがたいものだったのだろう。
耳にした瞬間に、顔を上げてエステルよりも凛々しさと刺々しさを詰め込んだかんばせを歪める。
微かに体を震わせたのは、怒りか、それとも別のものか。
少なくとも、イオニアスの顔には憤りが浮かんでいた。
「何を言ってるんだ、私が役目を降りる訳にはいくまい。……私はまだやれる」
「死にたいのか」
「……っ、お前達がそれを押し付けておいて……っ!」
やや血の気の薄い唇から吐き出された言葉は、血混じりのような苦痛の声だった。
ディートヘルムが、僅かに瞳を揺らす。
それでも言葉として何か言わないのは、イオニアスに返せる言葉がなかったからなのかもしれない。
「哀れまれ何もなせずに全てを奪われるくらいなら、役目に殉じた方がましだ。……どいつもこいつも、私に全てを押し付けておいて、あとからもう要らないと奪い取る。私は道化か何かか」
「……イオニアス様」
「君にそんな眼差しを向けられる覚えはない。……どうせ、君もあれしか見てないのだろう。私は君にとって所詮あれの付随物だ。本来私にかけられる言葉など持ち合わせていない筈だ。偽善も大概にしろ」
にべもないしとりつく島もない冷たさを帯びた声でヴィルフリートを拒んだイオニアスは、すみれ色の瞳にまぎれもない苛立ちと怒りを揺らがせていた。
思わず言葉がつまるほどに強い瞳で睨み付けられたヴィルフリートは、ぐっと掌を握って、言葉を絞り出す。
「……それでも、俺は、偽善であろうが心配はしますよ。知った経緯がエステルづたいであっても、心配なのには変わりがありません」
届かぬとは分かっていた。イオニアスからすれば薄っぺらな言葉だろう。
イオニアスの言う通り、イオニアスはエステルの兄だから心配の度合いが強くなっている。
それでも、気持ちそのものに偽りはないし、過去を知っている数少ない人間として、彼は幸せになるべき人間だと思うからこそ、手を掴みたくなった。
予想通りイオニアスはヴィルフリートの言葉に片眉だけ吊り上げて流し、興味を失ったようにヴィルフリートに背を向ける。
同じ空気を吸いたくない、という意思の表れにヴィルフリートは眉を下げるが、まだふらついた状態で一人にさせるというのもどうかと思い、男性にしては華奢な背中に手を伸ばす。
「お送りします」
「要らん。……私に一々構うんじゃない、不愉快だ」
顔すら向けずにぴしゃりと断ったイオニアスが出ていくのを、ヴィルフリートは動きを止めて見守るしか出来なかった。
「……すまないね、君に八つ当たりさせてしまった」
同じくイオニアスの姿を見守っていたディートヘルムは、押し黙るしかなかったヴィルフリートに苦笑気味の声をかける。
彼も苦々しく思っているのか、いつもの笑顔に覇気はない。
「いえ。別に平気ですよ。閣下こそ大丈夫ですか」
「何、慣れているさ。彼が言った事は事実だからな。大人の理不尽に巻き込まれたのはイオニアスとエステルだ。責め立てられるなら受け入れるさ。……本当は、君より私の方が偽善者だ」
「閣下、」
「私は、押し付ける事しか出来ない、身勝手な大人だとも。それをよしとしてきた私が、本来手を差しのべられる立場でないのは重々承知の上だ」
あの事件で彼らを救ったのはディートヘルムであるし、居場所を与えたのもディートヘルムだ。同時に、重責を課したのもディートヘルムだ。
それがラザファムが意図した事であろうと、助けられた本人からすれば助けたディートヘルムが押し付けた事になるのだろう。居場所と引き換えに、筆頭魔導師という枷をはめたのだから。
「……それでも、閣下の心配は、決して無駄ではないと思います」
「そうだといいがね」
ふっと薄い笑みを浮かべてため息をついたディートヘルムは、いつもよりも少しだけ疲れたような顔をしていた。
「さて、本来の用件に戻ろうか」
数分の沈黙の後、ディートヘルムは空気を入れ換えるように普段の声を口にする。
内心でどう思っているかは分からなかったが、表面上は先程の事などなかったかのように済ました顔をしていた。
「君はエステルの事を聞きに来たのだろう。私もそのために呼び出した訳だ」
これ以上ここで続けたところで、イオニアスの拒絶はどうにもならないだろう。
筆頭魔導師になって十年間の忍耐のせいで根深いところまで猜疑心が張り巡らされているし、家族であるディートヘルムですら拒むのだか、現時点では赤の他人であるヴィルフリートが何か言ったところで響かない。
時間をかけて歩み寄らない限り、彼は頑ななままだろう。
本来の目的は、エステルについてだ。
イオニアスの事も重要であるが、今はエステルの方を気にかけるべきなのだ。
「エステルは、無事なんですか」
「体調不良等ではないから、案ずるな」
「……そうですか」
「ああ。……私は、頼みがあって君を呼び出したのだよ」
「頼み……ですか?」
呼び出した上での頼みであればエステル関連だろうが、わざわざ直接頼みたい事とはなんだろうか。
首をかしげたヴィルフリートに、ディートヘルムはいつもの表情で視線を合わせてくる。
「今夜はエステルの側に居てくれないか」
「……はい?」
思わず、裏返った声で聞き返す羽目になった。
「聞こえなかったか? 今夜は、」
「いえ、聞き取れなかったという意味ではなくて、どういった意図があるのかと」
「直接的に言った方がいいか? 一晩中彼女に触れてあげて欲しい」
「もっと意味が分からないのですが!」
何を言ってるんだ、とディートヘルムでなければ噛みついているところだった。
エステルの保護者である男から娘に触れろと言われるのは全くの想定外だったし、そもそも保護者としてそれはあるまじき発言なのではないだろうか。
普通止めるべきである。しかしディートヘルムなら言いかねないというのもあって、ヴィルフリートは一蹴するほど強気にはなれなかった。
「そ、そういう事を保護者の方に言われる筋合いはないというか……笑わないでください」
「いや、仲良さげで何よりだ。私としてはそういうつもりではなかったのだが」
「ではどういうつもりですか」
「今日明日は、事件があった日だ」
端的に言われて、ヴィルフリートはようやくディートヘルムの意図を察した。
何故、エステルが無断で休んだのか。連絡に返事もしなかったのか。
ヴィルフリートとしてはもう乗り越えた過去であるし、最近ではあまり気にしなくなっていたものの――エステルは、違う。
「君の傷は癒えているだろうが、あの子はまだ癒えきっていない。君の側に居るようになってからは減ったが、時おり思い出してうなされる。ちょうど、事件があった日なんかはそうだね」
最大の被害者である彼女にとって、普段は何事もなく振る舞っていても心を苛んでいる事件は忘れがたい苦痛だ。
出勤せずに部屋で休んでいても、おかしくない。連絡をとらなかったのは、心配をかけまいとしたからだろう。
「あれはエステルが悪い訳ではない、悪かったのは不甲斐ない大人達だ。それは分かっているのだろうが、どうしてもまだ完全には割りきれていないのだろう。こればかりは、綺麗に折り合いがつくまで悩まされる。君が来てから緩和されてはいるが」
「……だから、側に居て欲しいと」
「お節介だとは思うがね」
「いえ、ありがとうございます」
これは先に思い当たってやれなかったヴィルフリートが悪かった。乗り切っているヴィルフリートとまだ気に病んでいるエステルでは、事件に対する意識の度合いが違う。
もっと早く、エステルの異変に気付いてやるべきだった。
「……今すぐ、彼女の側に行っても?」
「構わんよ。仕事も終わらせているだろう」
「はい。……お心遣い、ありがとうございます。失礼します」
許可を取って、ヴィルフリートは礼をしてからディートヘルムの執務室を辞した。
「……イオニアスも、ああして誰かに寄り添ってもらえたなら、変わったのかもしれない。今更言っても、詮なき事だが」




