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64 ただ一人の人間として

 エステルは基本的に仕事には意欲的ではないが、無断で仕事をサボったりする事は滅多にない。時折抜け出して市街地に繰り出す事はあれど、面倒臭くて休むという事はなかった。

 むしろヴィルフリートが居るので最近はお仕事自体は進んで来るようになっているのだ。


 それなのに、今日は職場にはあの暖かな薄桃色の髪の少女は見当たらなかった。

 寝坊したのかとゆったりと待てども、彼女はやってこない。


「何か彼女から連絡が来ていますか?」

「あんたに来てないのに僕らに来てる訳ないじゃん」

「……それもそうですよね」


 彼女の専属の部下であり恋人でもあるヴィルフリートと部下であり監視役の彼らどちらかに伝えるなら、ヴィルフリートを選ぶだろう。そもそもスケジュール管理をヴィルフリートがしているのだから当然なのだが。

 そのヴィルフリートにすら連絡がきていないのだから、エリクやマルコが知っている訳もないのだ。


「伝達魔法も来てないので、何があったのか分からないのです。こちらから飛ばしもしましたが、返事はありませんでした」

「そりゃ珍しいな。お嬢がヴィルフリートに返事しないとか」

「体調不良、でしょうか。しかし昨日はそんな様子は……」


 昨日は、夕食を共にしていない。仕事終わりにディートヘルムとお茶をした後そのまま夕食をとると言っていたので、それならとヴィルフリートはエステルとは別行動した。

 その翌日なので、ディートヘルムならもしかすれば何かを知っているかもしれない。


「とりあえず、閣下にお伺いしてみます」

「……なんつーか、よくもまああの人と気軽に連絡取ろうと思うよな。というか取れるよな」

「ある種のエステル様の保護者仲間というか……」


 そう言うと納得された。彼らもディートヘルムがエステルの保護者だという事を知っているので、エステルを色々とサポートしてる二人が結託するのも当然だという判断だろう。

 ヴィルフリートとしては多忙なディートヘルムに時間を割いてもらうのは心苦しいものの、知っていそうな人がディートヘルムしか居ないのでやむを得なかった。


 既に時刻は始業時間なので、ディートヘルムの執務室に行く訳にも、ましてやエステルの元に向かう訳にもいかない。いくら恋人とはいえ仕事を放り出す事は出来ない。エステルが居ないならば穴埋めをしないとならないのだ。


 伝達魔法に伝言を託してディートヘルムに飛ばして、ヴィルフリートはエステルが居なくても処理出来る仕事から手につける事にした。




 ディートヘルムから返事がきたのは、丁度昼休憩に入った頃だ。

 伝達魔法による伝言で時間を空けているから執務室に来るといい、という事で、ヴィルフリートは今日の仕事がほとんど終わっているのを確認してから事情を知っていそうな男の元に向かう。


 魔法で伝えるのではなく直接話すという事は、人に聞かれたくない話であるのだろう。でなければ合理的な彼がわざわざ時間を空けているなど言わないだろう。


 かといって余程の事であればディートヘルムの方から連絡をする筈なので、重大な危機等ではなく、しかしエステルの身に関わる人には言えない事になる。

 それが何なのかは分からないので、少々表情が強張りつつ足早にディートヘルムの執務室に進んでいるヴィルフリートだが――ふと、咳の音がする事に気付く。


 今歩いている場所は人気が基本的にない、いわゆるお偉方の……特に筆頭魔導師とその関係者達の執務室がある区域で、通る人間も限られている。一般職員はあまり通らない道で、現に今のところすれ違った職員も居ない。というかディートヘルムが人払いをしているルートを通っているからなのだが。


 その道に誰かが居るので、思わずその音のありかを探そうと小路の方に顔を覗かせて、そのまま固まった。


 何せ、ヴィルフリートの見慣れた桃色の髪が見えたからだ。

 ――ただし、いつも見るウェーブのかかったものとは違い、まっすぐで短いものだが。


「イオニアス様?」


 おそるおそる、確かめるように声に出した名前はどうやら当たりだったらしく、青年の顔が上がる。

 壁にもたれかかるように若干前屈みになって俯いていた彼の顔を改めて見て、ヴィルフリートは表情が引き締まる。瞳だけは、驚きで見開いているが。


「お加減がよろしくないのですか」

「……うるさい」


 かすれた声で悪態づいたイオニアスだが、その声音には覇気がない。

 それどころか、生気すら薄れた青白い顔でいるのだから、間違っても元気などとは言えまい。

 確かにイオニアスは病弱な体質だと聞いていたが、一度会った時は顔色もよかったし一種の覇気のようなものが溢れていたので、こんなに弱った姿を見て、ヴィルフリートは動揺していた。


 彼に嫌われている……というかエステルの件で疎まれているのは理解しているので、そっけなくされるのは気にならなかったが、このままはいさようならと見放す訳にもいかない。

 たとえ本人が余計なお世話だと感じようが、体調不良の人間を置いておく事はヴィルフリートの良心的に出来なかった。


 ただ、近付くとエステルと同じすみれ色の瞳に警戒が走る。


「近付くな。君に哀れまれる程落ちぶれていない」

「哀れみではなく心配しているのです」

「私があれの兄だからか」

「あなたがエステルの兄君だろうが筆頭魔導師であろうが関係ありません。病人を心配するのに立場も何もないでしょう」


 敵愾心も露なイオニアスに、ヴィルフリートは淡々と答える。

 過度に心配しても、おそらく彼は拒むだろう。実際拒まれているし近付かれたくないと雰囲気で伝わってくる。

 弱味を知られたくないのか、ヴィルフリート自身が嫌いだからか。そのどちらかは分からないが、とにかくイオニアスはヴィルフリートに介抱してもらうのがひどく嫌そうだった。


「そんなひどい顔色をしていれば、誰でも心配します。体調が悪いのでしたら、医務室にご案内しますが」

「……医務室に行っても意味がない。元々の体質だ」


 吐き捨てたイオニアスには「そうですか」とだけ答え、追及はしない。


 事情は知っているし、何よりも本人が掘り下げられる事を望まないだろう。一人で全てを抱え込む人間だというのは予想出来たし、何より思ったよりも意固地そうだ。


 なので、ヴィルフリートは彼の意思を一旦気にしない事にした。


「少し失礼します」

「なっ」


 おそらく、ヴィルフリートが居なくなった途端に床に崩れそうなので、ヴィルフリートはイオニアスに肩を貸す。もちろんイオニアスの許可は取っていない。


「ここで捨て置くと人道に反しますし閣下にも心配をおかけするので、多少手荒になりますが運ばせてください」

「離せ……っ、お節介なんだ!」

「俺は割とお節介ですので。偽善と罵るのならそれも構いませんよ、俺は自分の満足であなたを安静に出来る場所に連れていこうとしているだけですので」


 イオニアスみたいな人間には厚意で手を差しのべても断られると分かっているので、差しのべるのではなく掴みとる。本人には非常に迷惑な話だろうが、結果的にありがた迷惑になるくらいにはしたかった。


 あまりの言い分に、イオニアスは絶句した。


 ヴィルフリート本人も自分でひどい言いぐさだと認識しつつ、こうでもしなければ彼が反抗しそうなのでよどみなく言い切るしかない。


「どちらに向かいましょうか」

「……離せと命令しても聞かないだろうな、君は」

「聞きませんね」

「……ディートヘルムの執務室に運べ。薬の予備がある」

「かしこまりました」


 どうせ自分も向かうつもりだったので、ちょうどよかった。

 もう抵抗は諦めた、というよりは抵抗の気力もなかったらしく先程よりもぐったりとしたイオニアスに、ヴィルフリートは歩くのも辛いだろうと背負ってディートヘルムの執務室に向かった。

 当然、イオニアスは体調不良とは別でものすごく渋い顔をしていたが、ヴィルフリートはあえて気づかない振りをした。

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