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63 つみなきこども

 エステルにとって、ヴィルフリートは愛しの人であり、心の支えであり、そして命の恩人だ。

 ヴィルフリートからしてみればエステルが自身の命を救ったと言っていたが、エステルにとってもそれは同じだ。


 十年前の一件は、未だにエステルの胸の内に傷を残している。


 自分達の都合に多くの子を巻き込んでしまった。魔力を奪った。そして下手をすれば自分の命も落としていた。

 あの時、ヴィルフリートが手を握って励ましてくれなければ、エステルは今この場に立っていなかっただろう。絶望して生きる事を諦めそうになったエステルを死の淵から連れ戻してくれたヴィルフリートには、感謝してもしきれない。


 もう一度会いたい。


 ずっとそう願ってきたエステルにとって、こうして本当に出会えてその上で愛し合えたという事は、言葉に表しがたい程に幸せな事だ。

 たとえ、それが作為的な事であっても。




「彼とはうまくやっているかね」


 自身の義父であるディートヘルムと会う事は、そう珍しくない。

 小さい頃助けてくれた彼は、保護するためにエステルを養子にとった。それだけでエステルは救われた。ディートヘルムはどちらかといえば父親というよりは師として接してきたが、それでもエステルを大切にしてくれた。


 今でもそれは変わらないし、だからこそこうして時折お茶をしたりする。


「ヴィルですか? そりゃあもちろん」

「そうか、それはよかった」


 喉を鳴らして笑う目の前の男性は、人柄を知らなければ実に悪どく見えてしまうのだが、単にそういう顔立ちなだけなのだ。

 仕事上は冷徹な判断を下すし利益を優先するために冷血漢だの何だの囁かれているが、認めた者には情に厚い面を見せる。案外面倒見がよく世話焼きな人、という事を知っているのは、極一部だ。


 その面倒見のよい義父のからかうような笑みに、エステルは微笑みつつも眉を下げる。


「ディートヘルムは、こうなるようにある程度仕向けたのですよね」


 確信を持って問いかけると、彼は笑みを保ったまま、否定はしない。それが何よりの肯定だった。


 エステルの手元に来るように仕向けたのは元々察していたが、エステルの心の支えになったのもディートヘルムの狙いかあったのではないか。

 どこまで計算ずくだったかは分からなかったが、間違いないのは懐に入ってもらう、という事だ。ヴィルフリートも命令された訳ではなく自発的なものであるが、それすら予測して誘導したのではないだろうか。


「彼と恋仲になるまでは予定していなかったよ」

「そ、それは私の心の問題ですので。ヴィルだって、私の事好きになるなんて思ってなかったでしょうし」

「私は惚れるとは思っていたがね。君は充分に魅力的な女性に育った」

「ほんとですか?」

「多少抜けていて隙のある女性の方が男性には好かれやすいからね」

「急にけなされました……」


 抜けている自覚はあったしのんびり屋な事も認めていたが、他人からそう言われて面白いものではない。否定出来ないところが余計に。

 

 ぷくり、と頬に空気を軽く含ませると、ディートヘルムが余計に笑う。ただすぐに「冗談だ」と不満を抜きにかかってくるので、エステルもそれ以上は拗ねずに「もう」と口だけ不満を言っておしまいにした。

 大して怒っていないし、怒りが持続しないのは元々の性質である、何よりディートヘルムも本気で言ってる訳ではないと分かっているのだ。


「まあ、彼はほっとけない性質らしいし、お節介焼きだ。誠実なところや人のよさを見てエステルに会わせる事を決めたよ」

「ほっとけない病でお節介焼きなのはディートヘルムも一緒ですよ」

「そうだとしても、私はその面を発揮する相手は極少数だからな。どうでもいい人間には手を差しのべないよ」


 きっぱり言い切ったディートヘルムの性質は、とても分かりやすい。

 境界線がはっきりしているのだ。大切な人間とどうでもいい人間を二分して考えている。

 大切な人以外にも手を差しのべようとして両方を失った事のあるディートヘルムは、それ以来どうでもいい人間には大して関心がない。大切なものだけを大切にすればそれでいい人間だ。


 それを否定するつもりはないし、出来ない。


「じゃあディートヘルムの大切の内にヴィルも入ってるんですね」

「君の大切な人だからな」

「ディートヘルム自身も気に入ってる癖に」


 先ほどからかわれた仕返しにこっちもからかってみせると、動揺こそしなかったが苦笑がじわりと滲む。

 否定しないという事はそういう事なのだろう。


 彼をエステルに会わせたのはエステルのためだろうが、その後接触をはかり度々お茶に誘ったりしているのは、彼の意思だ。

 彼自身が気に入っているから、わざわざ呼び出すし忠告をしたり気を配ったりする。分かりにくいようで分かりやすい人だった。


 気難しいディートヘルムに好感を抱かせているヴィルフリートは、それだけで稀有だ。ヴィルフリートにそれを言っても「からかわれたりするのは好感なんですかね」と困った表情を浮かべそうなものだが。


「ほんと、ディートヘルムは素直ではありませんね」

「君が分かりやすすぎるんだよ」

「む、よく言われます。……ヴィルにもよく顔に出るって言われます」


 別に感情を表に出さない事は他人なら出来る。心を閉ざせばそれで充分だから。

 しかし、ヴィルフリートにはありのままの姿を見せたいし、つい本音がこぼれてしまう。それが表情にも表れているらしく、ヴィルフリートはエステルの感情を読み取ってすぐに対応してくるのだ。まあ、無意識のエステルのわがままを突っぱねる事はあるが。


 それだけヴィルフリートはエステルを理解しているという事でもあり嬉しいのだが、ヴィルフリートばかり自分のわがままを聞いてもらっている気がして申し訳なさもある。

 自分ばかり尽くされているようで、ほんのり複雑だった。


「彼は君の様子ですぐに考えている事を理解するからね。君が感情を表に出すようになったという事の裏返しでもあるんだよ」

「……そりゃあ、昔とは比べ物にならないくらいに、感情表現はするようになりましたけど」


 今でこそ喜怒哀楽の豊かなエステルだが、事件からしばらくは笑えなかったし、意見を言う事も控えていた。

 イオニアスの八つ当たりが怖かったのもあるし、あまり何かを好きというと取られる。嫌いと言えばそれを押し付けられるので、我慢の日々だった。

 そもそも周りが教育係か監視役しか居なかったせいもあるので、心を閉ざさざるを得なかったのだ。


「彼の前では、君もただの少女で居る事が出来る。それは貴重だと思うぞ」


 今一番心を開いているのはヴィルフリートだし、一番信頼しているのも彼だ。

 彼だけはエステルを筆頭魔導師の予備でも、十年前の事件の関係者でも、強大な力をふるう化け物でもなく、ただ一人の少女として扱ってくれる。

 それは、とても幸せな事なのだ。エステルという一人の人間として必要としてくれる人が居るのだから。


 ただ、エステルはどうしても一つわだかまりがあった。

 心の片隅に小さく圧縮して押し込んだ、靄の集合体。


「……ディートヘルム」

「何だね」

「……私は、愛されてもいいのでしょうか」

「いきなり何を言うのか」


 訝るような眼差しを向けてくるディートヘルムに、エステルは瞳を伏せる。


「……ヴィルは、十年前の事件を私のせいではないと言ってくれました。それはそうだと自分でも思うと同時に、私の……私達のために行われた事で、自分達にも責任の一端があるのでは、とずっと思っているのです」


 以前否定はされているが、それでもエステル達のためにあの事件が引き起こされた事は事実だ。そこにエステルの意思は何一つ介在もしていないし巻き込まれた側だったとしても、そこに変わりはない。


 無事だったとはいえ被害に遭ったヴィルフリートに愛される資格があるのだろうか、とふと思うのだ。


 運命を変えたあの日が迫ってきているからなのか、また後ろ向きな考えがちらつくようになってきたのだ。一度振り切ったのに、また後ろからにじりよる暗いもの。

 贖罪はおろか公に口にする事すら許されない立場に居る事が、それを助長させている。


「それは彼に否定されたのだろう」

「でも……やっぱり、綺麗さっぱり割りきるなんて出来ませんよ」


 理屈では理解しているのだが、感情だけはどうしようもない。


 考えないように努めているものの、やはりあの事件の日が迫るにつれてまた思い出してしまう。夢見が悪くなるし、そこからまた思い出して悪循環に陥る。


 毎年の事なのでどうしようもないし、今年はヴィルフリートが居るので昨年より楽に過ごせているのだが、それでも忘れられはしないのだ。

 それをヴィルフリートに悟られないように笑顔でいるが、勘の鋭いヴィルフリートはもしかしたら気付き始めているかもしれない。


「言っておくが、あれは子供に抵抗出来るものでもない。むしろ、ラザファムを止められなかった私に責があろう」

「ディートヘルムが悪い訳じゃ、」

「その理屈だと私よりも君の方が悪くない。巻き込まれただけの子供に罪があるというのなら、私達大人の方がずっと悪い。君達子供は大人の都合に振り回されただけなのだから」

「だから気に病まなくていい、ですか?」

「そう言っても君は気にするだろう。ただ、あの時止められなかった不甲斐ない大人としては、君達(子供)は悪くないと言っておこう。……あとは、エステル次第だ」


 冷ややかな美貌に気遣いを含ませたディートヘルムは、軽く頭を撫でる。

 ヴィルフリートとはまた違った安心感に、エステルは少しだけ相好を崩して、俯く。


「エステル、明日明後日は大人しくしていなさい。その調子では仕事も手につくまい」

「でも……」

「何ならヴィルフリート補佐官をつけてもいい。どうせ仕事はそちらに回らない時期だ」

「ヴィルに言ったら、必要以上に心配されちゃいます。ヴィルは、優しいですから」


 乗り越えつつある過去だ、ヴィルフリートに無駄な心配をかけるつもりもない。しばらくすればまた元通りになるので、それまで表に出さないように心がけるだけで充分だ。

 ただでさえうっかりで心配をかけがちなので、余計な心配はかけさせたくない。


 平気ですよ、と微笑んだエステルに、ディートヘルムは静かに溜め息をついて「変なところで意地を張るな、エステルは」とやや疲れたように呟いた。

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