62 休日のひととき
ヴィルフリートとエステルが交際を始めてから、エステルのお部屋でのくつろぎ度合いが増えている。
元々私物を持ち込んでいたし人の目がないのでまったりのんびりしていた彼女だが、こうしてお付き合いを初めてからはそれが顕著になった。
だらしない、とはまた違った気の抜き方をしており、ヴィルフリートに素の姿を見せて甘えている。
今日もエステルはヴィルフリートの家でくつろいでいた。
共に過ごすと言っても常にべったりしている訳ではなく、エステルも好きに過ごしている。
今日のエステルは昨夜読書をして夜更かししたらしく、ただいまおねむ状態だ。うとうととすみれ色の瞳を閉じかけて、ソファで船を漕いでいる。
時折かくんと前に倒れかけてはヴィルフリートが腕で阻止していた。
「エステル、眠いならベッドで寝なさい」
優しく声をかけると、エステルは掌で口許を押さえて軽くあくび。
じわりと滲む涙は眠気からだろう。
こすこすと指の背で拭ったエステルが「んむぅ」と返事にもなっていない声を上げ、ベッドにぽてぽてと頼りない歩き方で向かって、そのままぱふんとベッドに沈みこんだ。
干したてのシーツに顔を埋めたエステルは、そのままもぞもぞと膝を抱えるように丸くなってご満悦そうに微笑んでいる。
微笑むというよりは、ゆるゆるに緩んで見るものにこれでもかと幸せそうな姿をアピールしているのだが。極上のゆりかごに揺られた時でも見れそうにない幸せそうな表情なのだが、ヴィルフリートの安っぽいベッドで良いのだろうか。
丸まるだけには留まらず、シーツを抱きしめて鼻を寄せてはへにゃへにゃ笑うエステルは、いたくヴィルフリートの匂いが気に入ってるのかいとおしそうに眼差しをとろけさせている。
見るだけで何だかこちらが気恥ずかしくなるような甘い空気と可愛らしさに、ヴィルフリートは熱を持ち始めた頬が緩むのをこらえた。
(何というか、小動物なんだよなあ)
うさぎやら猫やらによくたとえるが、エステルはしぐさが一々可愛いので、何というか見ているだけで愛でたくなる。
今はさしずめご主人様の膝の上で寛ぐ子猫だろうか。これでにゃーにゃーないていたら完全にそれなのだが、今のところはただとろけてる恋人様だ。
しばらくこのまま見守っていたい、とは思ったものの、あのままでは肌寒そうなのでソファにかけてあったブランケットを携え、そっと近寄る。
接近に気付いたらしいエステルはうとうととしていたものの、ヴィルフリートの視界に相変わらず無防備な姿を見せつつ「ヴィルー」と甘えた声を上げた。
はいはいと軽く流しつつ頬にかかった髪を払ってやり、上からエステルが持参したブランケットをかけてやる。
自分のベッドの上でここまで幸せそうにされると色々と思うところはあったが、取り敢えず可愛いからいいか、と納得するようになった辺りヴィルフリートも慣れてきていた。
ふやけた笑顔を見せるエステルは、やや気だるげな動きでぽんぽん、と隣を叩く。
ここに座れ、という事なのだろうか。
取り敢えず読みかけの本を持ってきてベッドの縁に座ると、エステルはブランケットにくるまったままもぞもぞと動いて、ヴィルフリートの腿に頭を乗せた。
「かたーい」
「何してるんですか」
「私もしてみたかったんです……えへへ」
前にエステルに膝枕をしてもらったのだが、エステルもしてもらいたかったらしい。
そう言われると腿の上で爆睡したヴィルフリートとしては断る事も出来ず、エステルの髪が床に落ちないように直してやる事くらいしか出来なかった。
エステルはというと、男の硬い腿の何が良いのか、実に満足そうに頭をぐりぐりと押し付けてくる。
出来れば止めてほしいので宥めるように頬をくすぐりつつ撫でると、エステルはへろりととろけている。ふみゃー、と猫のように鳴き声を上げているので、やはり今は猫なのかもしれない。
恋人を猫のように触るのはどうかと思ったのだが、あんまりにも可愛らしかったので、ついつい顎の下をもしょもしょとくすぐってしまう。
気持ちよかったのかうにゃーと声を漏らしているので、多分悪くはないのだろう。
しばらく掌で軽く可愛がっていると、元々眠かったのが増してきたらしく、腿にかかる重みが強くなる。
「そこの子猫さん、寝るならベッドの真ん中にしないと寝返りで落ちますよ」
「うー……ヴィルも一緒に」
「寝ません。俺は読書したいので」
ヴィルフリートにも甘やかす時と甘やかさない時があるので、添い寝はしない。そもそもするにはヴィルフリートの眠気は足りないし、精神衛生上まだ膝枕の方がよい。
片手でエステルを撫でてやれるし、存外悪くない体勢だとは思っているのだが――エステルは、いやいやと首を振った。
「じゃあ私も起きます」
「眠いなら寝ていても良いのですよ」
「やー……ヴィルの側に居たいです」
「……仕方のない人ですね」
前にもこんな事があったな、と思い出してうっすら苦笑したヴィルフリートは、一度腿からエステルの頭を下ろす。
途端に捨てられた子犬ならぬ子猫の表情を浮かべるので、それを否定するようにエステルをブランケットにくるんでひょいと抱えた。
相変わらず軽い。
魔力生成によりカロリー消費が激しく太りにくいというのは女性垂涎の体質なのだろう。細いのに女性らしさは損なっていない均整のとれた体つきは、男性の目をかなり引く。
そんな理想的な体型なエステルを抱えたまま、ヴィルフリートはベッドに上がってヘッドボードに体を預ける。緩衝材としてクッションを間に挟めば、くつろぎ体勢の出来上がりだ。
軽くあぐらをかきエステルを足の間に横向きで座らせてもたれかからせたヴィルフリートは、驚きに少し目が覚めたらしいエステルの額にそっと口づける。
「好きに寝ていてください。俺は読書しますから」
「……」
「ご不満で?」
反応がなかったのでこれでは嫌だったかと問いかけると、エステルはそれは違うのだとゆるゆる首を振った。
ヴィルフリートの胸に片方の頬をくっつけ、するっと本を支える腕に自分の腕を絡めて指先で手首の辺りを撫でる。くすぐったさを覚えるものの、甘えるしぐさだと分かっているので振り払うつもりはさらさらない。
「……いえ、不満がある訳では。ただ、ヴィルって私のわがまま聞いてくれるんだなって……自分でもわがまま言ってるつもりはあったんですけど」
「これをわがままと捉えるほど、俺は狭量ではありませんよ。それに、せっかく足を運んでいただいているのですから」
エステルについては非常に寛容な自信がある。基本的に何をされても怒らないし、甘えたいなら甘えさせる。
これではエステルを駄目にする恋人まっしぐらな気がするが、そもそもエステルはヴィルフリートと二人きりでしか甘えてこないので問題ないだろう。
エステルがわざわざ自宅を訪ねてきているし、ヴィルフリートとてエステルに触れたくないという訳ではない。むしろ触れ合いたい。
だからこそこうして腕の中に収めて互いの体温を感じ合っているのだが、エステルは自分が甘えすぎていると思っているらしく、しょんぼりと眉を下げかけている。
「……しぶしぶです?」
「そんなまさか。……あのですね、俺もあなたと過ごすのは心地いいですし、幸せですよ」
「……ほんとですか?」
「でなければ、こうして懐に入れませんよ」
ヴィルフリートは比較的誰にでも(バシリウス以外)愛想はよい方だが、内側に入らせるのは一握り。必ず一線を引いて接する。
エステルだけなのだ、側にずっと居る事を受け入れて、こうして触れたいと望んで触れて、同じ時を過ごす相手など。
変なところで不安がるエステルを宥めるように髪に軽く口づけると、エステルは「そうですか」と一気にふやけた笑みを浮かべた。
甘えん坊ではあるが遠慮しがちでもあるエステルを存分に甘えさせようと、背中を優しく撫でる。エステルはヴィルフリートの掌がお気に入りのようで、撫でられたりぽんぽんと軽く叩かれたりするとすぐに体から力が抜けるのだ。
「寝るなら寝てもいいですよ」
案の定またうつらうつらとしてきたエステルに囁くと、エステルは眠たげにしつつもゆるりと首を振った。
「……なんか、もったいないなあって」
「もったいない?」
「だって、こんなに幸せなのに、寝ていてそれを味わえないのはもったいないなって」
「これからいくらでもしてあげますから」
「……そうですよね。ずっと、居てくれるんですよね」
「あなたが望む限りは」
おそらくないとは思うがエステルの気持ちが離れたら流石に身を引くが、そうでもない限りはこの人の隣を歩いて支えていこうと思っているのだ。
エステルがこうして欲しいと望むなら二人きりの時に限りいつだってするのだから、もったいないなど気にせず眠気を優先すればいい。
しかしエステルは今の言葉でぱちりと瞳を瞬かせ、それからシロップでひたひたになったようなふにゃふにゃのふやけた笑みを浮かべてヴィルフリートの胸に頬を擦り付ける。
幸せいっぱい満面の笑顔で「ヴィルだいすきです」なんて囁かれるものだから、ついもっと甘やかそうと指先で頬をくすぐって――。
「じゃあ、いつになったら一緒のおうちに住んでくれますか?」
エステルの言葉に動きを止めた。
「ヴィル」
承諾の様子を見せないヴィルフリートに、エステルもすぐに気付いて不服げな眼差しを送る。
ぺしぺし、と胸を叩いてフリーズがとけるのを促しつつ、唇を尖らせて「どうして駄目なのですか」とこぼしていた。
駄目、とは言わない。
しかし、今はまだ駄目だとしか言えない。
ディートヘルムに聞いても承諾が返ってきそうな気はするが、まだ同棲は早い。筆頭魔導師の件やエステルとイオニアスとの確執がどうにもなっていない状態で同棲は厳しいものがあるし、けじめとして全てが片付くまではヴィルフリートはうなずかないと誓っているのだ。
しかし、ただ普通に駄目だと言ってもエステルがしょげてしまう。
「……まあ、色々とかたがついて保護者から許可が出たらにしましょうか」
なので希望は持たせつつもやんわりと今は駄目だと伝えると、エステルはそれで満足したのかはにかんで、掌に鳥を作ろうとする。
「そこ、いそいそと伝達魔法使おうとしない」
「はぁい」
今ディートヘルムに許可を求められるとヴィルフリートがのちのち非常に恥ずかしくなるしディートヘルムに後から生暖かい眼差しで見られる事は間違いなしなので、エステルの魔法を妨害すべく頬をつつく。
本気で飛ばそうとはしていなかったのかすぐに魔法の発動をやめたエステルは、ゆるりと頬を柔らかく緩めていた。
鼻歌でも歌わんばかりに上機嫌なのは目に見えていて、逆にここまでご機嫌がよくなった事に驚いた。
「楽しそうですね」
「だって、こうして二人で将来の事を考えるって、楽しくて。今までずっと言われた通りにしてきたから、自分で決めるっていいなあって」
「……エステル」
「私、すごく幸せなんです。大好きな人とずっと過ごせるって。これからを期待して生きていけるって」
はにかむエステルの境遇を思えば、今心の底から幸せだという彼女の気持ちは分からなくもないのだ。
孤児だった境遇から事件に巻き込まれて体を作り替えられ、致し方ないとはいえディートヘルムに制御方法をみっちり叩き込まれて、イオニアスには監視をつけられて第二特務室という籠の中に入れられた。
ある程度自由にはさせてもらっていただろうが、あくまで限られた選択肢を与えられた状態だったのだ。
だからこそ、エステル自身が選び、ヴィルフリートも自身で選んで結ばれた今が、とても充実しているのだろう。
今の幸せをとても大切にしようとしているのも、この幸せが尊いものだとエステルの経験から判断しての事。
なんともいじらしい彼女に、ヴィルフリートはエステルの背中に回した手に力を入れて引き寄せ、抱き締める。
「エステル」
「はい?」
「……大切にしますから」
「……はい」
ヴィルフリートの決意を受け取ったのか、照れ臭そうに頬を緩めて、エステルもヴィルフリートを抱き締める。
大切にしなければならない存在。慈しみ愛おしみ、全力で守ってあげたくなる存在。力こそエステルの方が強いが、ヴィルフリートは脆いエステルの心を守ってやれればと思うのだ。
「……エステル、今してほしい事はありますか?」
「んー……じゃあ、キスして欲しいです」
最近口にしてくれないから、とちょっぴりすねた風を装っておねだりをしてきたエステルに、宥めるのも兼ねてお望み通りに軽く触れる程度に唇を重ねる。
交際を始めてから幾度となくしているものの、毎回心臓が否応なしに跳ねるので、当分は慣れそうにもない。
不思議と、口付けるだけで甘く感じてしまうのは、魔力の相性のせいなのかもしれない。
エステルはヴィルフリートの魔力を甘いと言うが、エステルの魔力もヴィルフリートにとっても甘いのだろうか。
それか、ただ単にエステルという存在が砂糖菓子のように甘くてほろほろと溶けて崩れてしまいそうな甘さを持っているのか。
自分のものより柔らかくしっとりとした感触を少しだけ味わってからそっと唇を離すのだが、すみれ色の瞳は名残惜しげにヴィルフリートを見つめている。
もの足りなさそうで、恋しそうで、まぎれもない熱を瞳に宿らせて。
「……もっと、して……?」
こういう時、エステルはやけに色っぽくなる。
普段はゆるふわで甘えん坊な彼女はややあどけなさを強く感じてしまうものの、切なげな表情でおねだりをする彼女は、女性のそれを強く感じさせた。
ぐ、と込み上げる衝動を飲み込んだヴィルフリートは、手にしていた本など眼中にないとばかりにベッドに投げて「仰せのままに」と答えてまた唇を合わせる。
柔らかい唇を堪能するようにゆっくりと擦り、上唇を軽く食んだり啄んだり。
くすぐったそうに瞳を細めたエステルだが、嫌そうではなく、むしろ嬉しそうに同じように返してきてくれる。
微かに開いた唇から吐息がこぼれるのを感じながら、あくまで触れるだけの口付けに留めているヴィルフリートは、手持ち無沙汰らしいエステルの掌を向い合わせのようにくっつけて指を絡めていく。
口付けながらもエステルが嬉しそうに唇に弧を描かせたので、更に喜びを引き出そうと丁寧に口付けて、ゆっくりゆっくり触れ合いに慣らせる。
貪るような口付けは試した事はないが、エステルはふわふわと触れ合っている方がお気に召す気がするので、ただやんわりと触れ合ってこそばゆさを覚える口付けだけでも充分だった。
互いの熱を分けあうように、触れる時間と回数を増やしていく。
いっそこのまま食べてしまえればどれだけ幸せな事か、と誘惑に駆られたものの、何とか抑えを効かせて優しく触れるだけ、唇同士の邂逅だけに留めた。
しばらくすればエステルがいっぱいいっぱいになりそうだったので一度唇を離すと、すっかり上気した頬にとろみを帯びた瞳でこちらを見上げてくる。
熱っぽい眼差しと無防備に少し開かれた唇に、自然と喉が鳴った。
「……本、読まなくていいのです?」
「可愛い恋人に構いたくなったので」
この状態で本など読めるか、なんてエステルには言えず、エステルの随分と血色のよくなった頬に唇を寄せて、柔らかい肢体をかき抱いた。




