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61 やっぱりハプニングはつきものです

 朝からしっかり働いたので、エステルにはしっかり昼食をとらせた後、休憩がてら控え室で座って二人でお茶を飲んでいた。

 休憩の交代にはまだ時間があるので、こうしてゆっくりするのも悪くないだろう。


 服が皺にならないように気を付けながらソファに腰かけたエステルは、やや疲労こそ見えたもののまだまだ元気そうだ。


「接客って難しいのですね、お客様にも色んな人が居ますし」

「……そうですね」


 色んな人、というのは普通の客からナンパしてくるような客、いちゃもんをつけてくる客まで幅広く言っているのだろう。

 幸い、いちゃもんをつけてくる客はエステルのところにいなかったが、稀にわざとぶつかってあれこれ要求してきたりする客も居る。そういうのに出会った場合はエステルに対処出来るか危ういので、別の誰かが出動しなければならなそうだ。


 ひとまずは何事もなかった事を安堵しているのだが、それでもエステルに集中的に声をかけてくる男性客はしょっちゅう見かけたので、あまり愉快ではない。


「……ヴィル、怒ってます?」

「いえ、怒ってはいませんよ。ただ、エステルにお誘いをかける方々が多そうで辟易してます」

「受けたりはしませんよ?」

「知ってます」


 心配しなくても平気だと言うのは分かっているのだが、ただ気持ち的な問題で自分の好きな女性が言い寄られるという事に不安とはまた別のもどかしさを感じるのだ。

 自分が一緒ならすげなくあしらえるのだが、今回ばかりはそうもいかない。


 エステルとしてはまずなびくなど考えてもいなさそうで、隣のヴィルフリートを宥めるようにぎゅうっと腕にくっついてくる。


「私はヴィルにしか誘われたりしませんからね! 安心してください! 」

「俺の場合誘わなくてもあなたはこっちに来ますから」

「えへへ」


 ばれちゃった、とはにかんだエステルが腕に頬を寄せて幸せそうに眉を下げているので、思わずみとれてふにゃふにゃの笑顔を凝視してしまう。

 相変わらず可愛い、なんてのろけを自分の脳内で感想を抱いたヴィルフリートは、可愛い恋人の頬をうにうにと軽く指の腹で撫でるように摘まんだ。


「ヴィル?」

「いいえ。……エステルは、楽しそうですね」

「お仕事ですか? 楽しいですよ。美味しそうなご飯のにおいずっと嗅いでられますし!」

「そこですか」


 エステルなりの職の楽しみ方に突っ込みたいものはあるものの、本人が楽しそうならそれでいいのだろう。

 ただこれでは自分が腹ぺこである事を主張していると思ったのか、ほんのりと赤らんだ顔で手をぱたぱたと振って「これだけじゃないんですよ」と後付けの主張。


「私、あんまり人と話す機会ってないし、知らない人と話すのは苦手なんですけど……みんなよくしてくださいますし、お客様が美味しそうに食べている姿を見るのは楽しいです」

「ああいうのを見ていると作り手冥利に尽きますよ」

「ふふ。ヴィルの料理は美味しいですからね」

「兄ほどではありませんけどね」


 兄であるバシリウスは、人柄こそ明るくひょうきんで緩いが、料理の腕前は確かだ。

 もう少し女癖の悪さをなくしてくれたなら普通に尊敬出来るんだけどな、とは本人には言えないままである。おそらく言っても直らないので無駄だと分かりきっているのだ。一度刺されても直らなそうだ。


「まあ、俺としてはあなたにとって、一番美味しい料理であればそれで満足です」

「ヴィルの料理は、私にとって一番美味しいですよ」

「それならいいのです」


 その一言がもらえれば、それで充分だった。

 他の誰の称賛でもなく、愛しい人から美味しいとだけ言ってもらえたら、それだけで今まで料理を身に付けてきた時間がかけがえのないものだと思える。


 胸にじんわりと染みる言葉を噛み締めていると、くっついていたエステルがじいっとこちらを見上げてくる。

 心なしか、不服そうに。


「……ほんとは、私だけに作ってほしい、です。でもわがままだって分かってるから、我慢します。ここで働くヴィルは、私だけのヴィルじゃないし……」


 他人に振る舞わないで欲しい、なんて可愛い独占欲を抱いてくれているらしいエステルに、自然と唇が笑みを形作る。


「店員である俺には無理な相談ですね」

「ですよね……」

「でも、恋人である俺に言うならまた別ですよ。他でもないあなたのために、料理を作りますよ」


 実家の厨房に立つ調理者としてはエステルのお願いにうなずけはしないが、一人の男としてなら、エステルのお願いは当たり前のように叶えるつもりである。


 そもそもエステル以外に手料理を振る舞うなんて機会がある筈がない。たまたま第二特務室でエステルのために作ったお菓子をお裾分けならまだしも、わざわざ他人に作る義理がない。

 これまでも、これからも、エステルのために厨房を預かるつもりだ。


 そう断言したヴィルフリートに、エステルの菫青石の瞳が熱を持って、瞳の輪郭からとろけていく。


「……何というか、私ってヴィルに胃袋つかまれている気がします。えへへ」

「料理で落としたようなものですからね」

「違います! それもありますけど、私はヴィルの人柄を好いたんですからね! 腹ぺこ扱いしないでくださいー!」

「はいはいすみませんって。……俺のすべてをひっくるめて好きになってくれたなら、それでいいのですよ」


 腹ぺこを推されると不本意なのかちょっぴりむくれたエステルに、相変わらず可愛い人だと休み時間いっぱい頭を撫でてご機嫌を取り戻すのであった。




 そうして休憩を交代して夕方の営業準備をし、夕方の営業に突入した。

 昼の営業はさほど気を張らずとも何とかなると分かっていたのだが、夕方の営業となるとそうもいかない。


 何故かといえば、夕方以降は酒を注文する客が増えるからである。

 仕事上がりで酒を飲む気持ちは分からなくもないし客の自由ではあるが、酔っ払った結果店員にしつこく絡む客が出てくるのだ。普段は抑制していても酒の力で理性が緩んでしまっては、どうしようもない。


 ただでさえエステルは可愛いのだから……と親馬鹿ならぬ彼氏馬鹿を発揮しているヴィルフリートは、ひやひやしながらも注文の品を作っていた。


 とりあえずは食事そのもののピークは過ぎるまで声をかけられたりする以外は何事もなく、ほっと安堵していた矢先に、フロアから「きゃっ」と悲鳴が上がるのが聞こえた。


 誰の声かなんて言わずともで、ヴィルフリートのこめかみがびきりとひきつる音がした。


 顔を上げてフロアを見ると、案の定エステルが客に絡まれて困惑の表情を見せている。

 相手は赤らんだ顔の中年男性だ。掌が非常によろしくない位置に伸びている事はここからでも分かり、ヴィルフリートの機嫌はどんどん下がっていく。こころなしかまとう空気まで寒いものになっていた。


「お客様、困ります」

「いいじゃねえか減るもんじゃねえし」

「俺の神経がすり減るんだあの野郎」

「弟よ、玉ねぎ細かくしすぎだ馬鹿野郎。誰がそんな極限まで刻めと言った。真顔でやるな怖い」


 みじん切りがその内ペーストになるのではないかという細かさと速度で包丁を振るっている弟に、兄が若干引いた眼差しを送る。


 頼むからそいつを持って飛び出すなよ、と小声で注意してくるが、ヴィルフリートとしては神聖な調理道具でそんな事をする筈がないと否定しておく。


「余裕持てって。大体、多少なりと分かってただろう。この職場では日常茶飯事だぞ。勿論それを許容する訳じゃないが、お前はその危険性を考慮して、それでもエステルさんのお願いを聞いたんだろ」

「……そうだけどさ」

「それに、何もするなとは言ってないぞ。エステルさんが反撃するのは全然ありだ。母さんも許す」


 それは分かっているのだ。『女だからって好きに触らせるような場所じゃないよ! ここは食事処だ!』と胸を張って豪胆に言い切る母なので、反撃自体は許可されるだろう。


 しかし、エステルが反撃を試みるとはあまり思えなかった。

 理由は、二つある。


「……エステルの性格的に反撃はしたがらないでしょうし……それに」

「それに?」

「あの方は俺より強いので、真面目に反撃すると相手が消し炭になりかねません」


 あまりに能力が高すぎて、微弱な魔法を撃つ方が高威力を出すより苦労するエステルの事だ。彼女が本当にわずらわしくて反撃した場合、割と危険なのだ。


 エステルの様子から怒っている風には見えないが、嫌という意思表示は見える。

 相手を物理的に傷付けたくないが故に反撃しないエステルを放っておく訳にもいかないだろう。

 グリットが止めに入っているものの、こっちまでセクハラされているのでバルドまでにこやかに不機嫌になりそうなのだ。


「やっぱり俺が出ます」

「お、おう……いってらっしゃい」


 包丁を置きさっと手を洗ってから、ヴィルフリートは厨房を出た。


 顔には穏やかな笑顔を浮かべて、エステルの元に向かう。

 エステルが接近に気付いたようで安堵の表情を見せたのだが、エステルも微妙にヴィルフリートを見て固まっている。エステルに向けるものとは全く別の、貼り付けた営業スマイルだからだろう。

 

「お客様、申し訳ないのですが当店では店員に対する直接的な接触行為は控えていただけますか」

「なんだよ兄ちゃん、堅い事言うなよ。兄ちゃんも羨ましいだけだろう?」


 何故そうなったのかさっぱり分からない言い分だったが、全く賛成出来ない。

 そもそも、羨ましい云々の前に、ヴィルフリートは唯一エステルに好きに触れていい立場なのだ。むしろ自制して触らないだけで、エステルとしてはぎゅうっとしたり触れたりして欲しそうだったりする。


「いえ、そのような事はございません。ここは食事処で食事を提供しているだけですので、そのようなサービスは提供しておりません。女性に触りたいだけなら別の店をあたってください」


 あくまでにこやかに、やんわりと退店を促すのだが、相手も相当酔っぱらっているらしく「一々うるさいあんちゃんだなあ」と口で反撃に出てくる。


「さっきから何なんだよ、こっちは客だぞ?」

「お客様だとしても、女性に勝手に触れていい事にはなりませんので。大切な店員に危害を加えられたとあれば黙っている訳にもまいりません」


 客だろうがなんだろうが、店員に触れてもよいルールなどない。


「これ以上触れるようでしたら、誠に申し訳ないのですがお引き取り願えないでしょうか。何ならいただいたお代はお返ししますので」


 これ以上言い争いをしたところで店舗内の空気が悪くなるだけであるし、客を一人逃したところで痛くも痒くもない。


 もし外で何かを言い触らしても味を求めて来店する常連客もたくさん居るし、そもそも多少客が減ったところで潰れるような経営をしていない。

 客を一人切り捨てようが、こうして健全な職場だと主張する方が余程益になる。


 有無を言わさない笑顔でお帰りはあちらですと言わんばかりに掌を出入り口に向けると、酔っていた客はあからさまな舌打ちをして言い募ろうとしたものの、周囲の客の冷えた眼差しに気付いたのか肩を縮めた。


 非は客側にあるし、可愛らしい店員が困りきった顔で身をすくめていれば、店員の味方をする者が多いのも当然だろう。


 アウェーだという事を肌で感じたのか、男は勢いよく立ち上がって「こんな店こっちから願い下げだ!」と言い放って出て行った。


 本来もっと穏便に帰した方がよかったのだろうが、今のところあれ以上に迅速で穏便な対処は出来そうになかったのでああするしかない。

 一度見逃せば図に乗るのは見えていたし、常態化されても困る。先んじて駄目だという事を主張しなければ、他の客まで便乗するのだから困ったものである。


「お騒がせして申し訳ありません。……さ、エステル、一度裏に」


 グリットとバルドに目配せをして了承を得てから、エステルを促して控え室に。

 少し落ち着かせた方がいいとの判断だったが、エステルは不快感より何故だか意気消沈といった方が強かった。


「ご、ごめんなさい」

「どうしてエステルが謝るのですか」

「私のせいでお客様を追い出してしまいました」


 どうやら結果的に客を追い出した事を気に病んでいるようだ。

 あれはエステルに責任がある訳でもなくヴィルフリートが勝手に追い出しただけだし、万が一損失があるならヴィルフリートが自費で補填するつもりなのでエステルは気にする必要もない。


 それよりは、エステルの安心と無事を得られた事の方が余程重要なのだ。


「いいんですよ、あんな客こちらから願い下げです。どちらにせよ、多分母さんが出て来て追い出したとは思いますが」

「うう」

「やはり、エステルは可愛いので目立つんですよね。こればかりはどうしようもないのですけど」


 可愛いのはよい事ではあるが目をつけられやすいとも同義なので、利点でも欠点でもある。

 天性の美貌はエステルが望んで手に入れたものではないため、このままの状態では人目を惹くというのは逃れようがない。


 エステルはヴィルフリートの微苦笑に「ぅー」と小さな唸りを一つ。


「エステル? 嫌になりましたか?」

「違います! ただ、役に立ててないなあって。邪魔ばっかりしてます……」

「そんな事ありませんよ。むしろ繁盛してますから」


 多少いざこざはあったものの、今日の売り上げを見れば普段よりも多いだろう。正確には分からないが、間違いなく売り上げは伸びている。

 エステルというある種の広告が功を奏したのと、ヴィルフリートとエステルが手伝いに来たので純粋に料理の提供速度が早まって客の回転率が上がったから、そんなところだろう。


「……ほんとです?」

「ええ。……まあ、不特定多数の男にエステルを見せるのは、ちょっと複雑ですけどね」


 実家の儲けが増えた事は喜ばしいものの、エステルの可愛らしい給仕服姿を見せびらかすのは、あまり喜べない。


「……ほんとは、ヴィルだけに見せたいのですよ?」

「ありがとうございます」


 内緒話をするように耳元で囁いたエステルに、本当に可愛い人だ、と呟いてお返しと言わんばかりにエステルの指先に軽く口づけた。




「今日はお疲れ様でした」


 エステルがフロアに戻ってからは特に何事もなく時間は過ぎ、閉店時間に。

 客が残らず退店したところで、一度全員で集まった。


「本当にお疲れ様。まあ、ハプニングはあったけどな」

「こちらこそ騒いでしまってすみません」


 まだちょっと気にしているらしく、バシリウスのハプニングという単語にエステルはしょんぼりと眉を下げている。

 ただ、あれはみんなエステルのせいではないと分かっているので、それぞれが「気にするな」と笑って流していた。


「いや、ごめんねーこっちこそ。まあ、息子が追い払ったみたいだけど」

「……仕方ないだろ、エステルはああいうのあしらえないんだから」


 母からにやにや笑いが飛んできたためにそっけなく返すものの、母に懲りた様子はない。

 ちなみにバシリウスは母の血を強く継いでいるのか、こうして人をからかったりする事が多いのだ。母はラインをわきまえてはいるものの、本気で怒らない程度にからかいを混ぜてくるからある意味たちが悪い。


「お付き合いしてる女の子が触られるのが嫌なだけだったんじゃない?」

「んなっ、……兄貴!」

「いやー、だってな? 女っ気なかった弟にこんな可愛い恋人が出来たら……なあ。母さんも心配してたんだぞ、いい年した息子に恋愛のれの字もなかったから」

「余計なお世話だ」

「あっはっは。……父さんにも言っといた」

「デリカシーの欠片もないな!?」


 今この場には居ないが寡黙な父にも言い触らしたバシリウスの脛を思い切り蹴ってやろうかと本気で悩んだヴィルフリートだが、母が「まあまあ」ととりなしてきたために未遂に終わってしまう。

 ささやかな報復はすると決めたが。


「いいじゃないか、こんな可愛いお嬢さん見付けて。フェイとアイクにも言っとかなきゃね」

「止めてくれ姉さんと兄さんに言うのは。……もう良いだろ、俺だって大人なんだから誰と交際しようが」


 ヴィルフリートにはまだ姉と兄が居るが、姉は嫁いでこの家には居ないし、もう一人の兄は他店で修行しているので今はこの店には居ない。

 その二人にまで言われてしまえばからかいにくるか生暖かい眼差しを送りに顔をだしに来るだろう。それをされるとしばらく羞恥で立ち直れそうになくなるため、断固阻止したいところだった。


「そうさね。少なくともバシリウスよりはずっとまっとうなお付き合いしてそうだしね」

「ひでえよ母さん。俺だって素敵な女性となあ」

「アンタは一人に絞りな。ふらふら二股するから女の子にぶたれて逃げられるんだよ」

「彼女と喧嘩した時に家の壁に穴開けるくらいにはこじれるからな」


 先ほど余計な暴露をされてしまったため、早速ヴィルフリートはささやかな報復を開始した。


「バシリウス! やっぱりあれはアンタが!」

「ヴィルフリートぉ……!」

「兄貴が悪い」


 内緒にしてやっていただけありがたく思え、とそっぽ向いて、ヴィルフリートはエステルを見る。


 立ち直ったらしいエステルは、ヴィルフリートやバシリウス、母とのやり取りを見ておかしそうに、楽しそうに笑っていた。


「……いい家族ですね」


 少し羨望混じりながら柔らかな笑みでしみじみと言われて、ヴィルフリートは気恥ずかしさを覚えつつも「そう見えたならよかった」と穏やかに微笑み返した。

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