58 上司様は社会見学がしたいです
エステルはどうやら慣れない人相手に緊張していたらしい。
道中で色々と話しかけられたらしく、一応の顔見知りとはいえ兄の距離感は慣れないようで部屋に入って安堵していた。
嫌ではないらしいが、やはりああいう距離感の人間は周囲に居ないので中々慣れないようだ。そもそも女好きという時点でエステルが無意識に敬遠してしまったのではないだろうか。
ヴィルフリートがお茶を出して一息ついたところで、エステルは眉を下げて困ったような笑みを形作る。
「休日に押しかけてすみません」
「いつもの事ですし……ああいえ、嫌とかではなくて慣れているというか、それが日常になってきたなという感慨があるといいますか」
誤解されないように言っておくが、決して嫌という訳ではない。
最早エステルが自宅に遊びに来る事なんて日常茶飯事であるし、そもそも夕食サービスがあるのでほぼ日課のようなものだ。
それがなくとも、恋人が訪ねてきてくれるというのは嬉しい。
エステルと過ごすのはある種の癒しでもあるので、来てくれるなら喜んで迎え入れるつもりだった。
「もうこれは一緒に住んでいるようなものですね! ですので一緒に」
「駄目ですからね」
しかし、同棲はまだ早いと思っているのでエステルの言葉を遮ると、恋人様は不服そうに唇を尖らせてしまう。
「……むぅー。お泊まりは?」
「基本的に駄目です。……どうして泊まりたいのですか」
「……理由って要るのですか?」
「そりゃあ」
こちらとしては、悪天候だったり偶々寝過ごしてもう深夜、でもない限りはなるべく泊まりは控えさせたい。
エステルに何かする隙を作りたくない、というのが一番の理由だ。
本心を言うなら、勿論側に居て触れたいしだっこして眠るのは至福だと思っているが、自発的に行動に移すと自分でも何をしでかすか分からないので避けたいだけである。
こちらとしても葛藤があるのだが、エステルはむぅ、と頬を膨らませた。それから、隣のヴィルフリートの二の腕に頭突きしてくる。
痛くはない。むしろエステル本人の方が痛みは強いのではないだろうか。
だがそんな事はお構いなしにぐりぐり小突いてくるエステルはご機嫌ななめのようで、ヴィルフリートの手の甲をぺちりと叩く。
「……理由がないと、一緒に居たいって思っちゃ駄目なのです……?」
「……駄目、とは言いませんけど」
「私は、ただヴィルと一緒に居たいから言ってるだけで……他意はないのです。……駄目ですか?」
最後は、おずおずと問いかけるように。
拗ねてはいたものの、本気ではない事も分かっている。拗ねた、というよりは不安だったのかもしれない。ヴィルフリートが頑なに頷こうとしない事に。
エステル本人としては、本当に純粋に側に居たかっただけなのだろう。何をするでもなく、そばに居るだけで幸せ。そう主張したかったらしい。
そんなに純真な思いを聞かされると、ヴィルフリートは自分があれこれ考えているのが何だか申し訳なくなってくる。
こちらとしては、何事もないようにするために断っているのだが、危険性を全く考慮に入れていない、というか認識していないエステル。
あくまでヴィルフリートは安心出来る存在で、共に過ごしたい人。だからこそ、なんの裏もなく願うのだ。
「……俺が他意だらけで申し訳ありません」
「えっ」
「いえ、こちらの話です。……分かりました、どうせ何度か泊まられてますし、今さらですよね、ええ」
こうなったらやけだった。
保護者からは許可が降りているし、交際している身で恥ずべき事はない。何もしなければいいのだ何も――、と自分に言い聞かせつつ承諾してみせると、エステルの瞳が一気に輝いた。
「じゃあ」
「今日は駄目ですよ」
「……むー」
エステルの狙いは分かっていたので、そこは阻止しておく。
ただ、今回断るのは、悶々するからとかそういう理由ではない。
「俺は明日朝から実家に行きますから」
エステルが泊まっても、翌日は構えない。実家の手伝いを受けてしまったし、約束は守るつもりだ。
なので夜まで家を空ける事になり、泊まっても翌日にはエステルに帰ってもらう事になる。合鍵を預けているから問題ないとはいえ、一人でお留守番していても楽しくはないだろう。
側に居ないのであれば別の日に、という意味でお断りすれば、エステルは「あ、そうでしたよね」と納得した後に、ひらめいた!と言わんばかりに笑顔を浮かべる。
「お手伝い、私も手伝えませんか?」
「……手伝うとは」
「その、人手が足りないなら、私もお手伝いしたら楽にならないかなって。日頃からヴィルにはお世話になっていますし」
おそらくヴィルフリートと一緒に居たいのと役に立ちたいのが半々で言い出したのだろう。
エステルが、実家の手伝いをする。
想像してみて、あまり素直にうなずけない提案だった。
「まあエステルは記憶力が良いので注文取るくらいは出来るでしょうが……出来ればさせたくありません」
「……邪魔ですか?」
「いえ、うちのお客はみんながみんな一定の礼節を弁えてる訳ではないので……何と言えば良いのか。俺としては、あまり近付いて欲しくないのですよ」
「……お客さんの中に悪い人が居るのですか?」
不思議そうなエステルには、縁のない話かもしれない。彼女は幼い頃孤児院に居たとはいえ、事件後からは立派な暮らしをしているしきっちり上品な所作を教え込まれている。
庶民の店にたまに顔を出していたとはいえ、お客様であるエステルが基本的に何かされるという事はないのだ。
「いえ、そういう訳でもないし大概は気のいい人なんですが……あー、率直に言いますが、女性店員への接触を図る方々も居るのです」
「接触……ですか?」
「まあ具体的に言えば、腰触ったりお尻とか撫でたりするんですよね」
ヴィルフリートはあくまで一般庶民であり、当然実家の店も大衆向けだ。店員と客の距離も近いし、店の雰囲気もにぎやか。決してお上品なそれではない。
客も洗練された所作をしている人間など居ないし、昼間から酒を浴びるように飲む人々が居る。
ここで厄介なのが、酔っ払いや女好きの一部が、店員にスキンシップ感覚でおさわりするのだ。分かりやすく言えばセクハラするのである。
「彼らも軽いスキンシップだと思っていますしある種のサービスだと思っているのでしょうが、あしらえそうにないエステルにはそういう事をさせられないな、と」
「……さ、触られないように頑張ります。触っていいのはヴィルだけです!」
「俺にも基本触らせないようにしてくれないと困りますからね」
余計な言葉まで口走っているエステルをたしなめつつ「それに」と付け足す。
「それに?」
「……いえ、これはかなり私情です」
「聞きたいです」
「言う必要はない、個人的な考えでも?」
「聞きます」
女々しくてあまり言いたくない事ではあるのだが、エステルはどうやら気になるらしい。
目を逸らそうとしても、エステルは二の腕に抱きついてきて「こっちを見るのです」と迫ってくる。
熱心にすみれ色がこちらを見つめるので、ヴィルフリートも黙っている訳にはいかず、頬をかいて小さくため息。
「……勿論、他人にあなたが触れられるのは、嫌ですし……何より、うちの給仕服、そこそこに可愛いんですよ」
個人的に問題なのが、服装の問題だった。
店員に支給している服は、母親の好みでエプロンドレスのような形状になっている。
流石にしっかり動くために装飾過多ではないものの、優雅さの見えるその服装は男性客の人気をつかんでいた。ヴィルフリートの実家で働いているグリットも、これを身に付けている。
「ええ、前見ましたが、可愛かったです。……それに何の問題が?」
別に可愛い事に損はないのでは、ときょとんとしているエステル。
「察して下さい」
「む、無理です。ヴィルが私の事散々鈍いって言ってきたでしょう」
分からないから教えて欲しい、とむぎゅむぎゅ抱きついてきてくるエステルに、ヴィルフリートはそっと頬を撫でる。
「……ですから。……エステルは元々可愛らしいのに、そういう可愛らしさを強調する服装をすると、人目を引くでしょう? あんまりエステルが可愛いと、余計な手出しされそうですし……可愛い姿を他人に見せたくないというか」
何故こんな恥ずかしい事を言わされているのか、と微妙に頬が熱くなるのを自覚しつつ、エステルに分かりやすいように話す。
別に直接可愛いと言うのならヴィルフリートも普通に言えるのだが、妬きそうな事を伝えるのは、気恥ずかしさを覚えるのだ。
ヴィルフリートは比較的自制心はある方だし独占欲もそこまで強くはないつもりなのだが、どうもエステルの愛らしい姿を人目にさらしてしまうのは惜しいし、嫌だと思ってしまう。
なので出来れば避けてほしいのだが、エステルはヴィルフリートの言葉に、ヴィルフリートが思ってもいなかったやる気を見せはじめた。
「じゃあ手伝います」
「話聞いてました?」
「ヴィルに可愛いって言ってほしいです」
やる気の源は可愛いという称賛のようだ。
「可愛いですよ」
「今じゃ駄目なんですー」
「……エステルは、所作は綺麗ですが、不特定多数の見知らぬ人に愛想振りまくなんて慣れてないでしょう? 基本人見知りですし」
「社会勉強のためにもしたいです」
「あのですね」
「……だめ?」
ヴィルフリートは、エステルの上目使いの懇願に弱かった。
どうも、エステルのお願いはあまり拒めない。なんというか、拒むとしょげて小さく体を縮めてしまうので、見ていてほっとけなくなって結果うなずいてしまう。
そんな姿を見るくらいなら最初から基本叶えてやるようになっていた。お泊まりはヴィルフリートもかなり渋ったが。
今回は期待に満ちた眼差しでうるうるとされて、ヴィルフリートは早々に折れる事を覚悟した。
「俺がその顔に弱いと分かってますよね。……本当に、気を付けてくださいよ?」
「はい!」
「……母さんに言っておきます。ここで却下が出たら諦めてもらいますが……多分大手を振って迎え入れるだろうな……」
承諾した途端に弾ける笑顔は、非常に眩しかった。
母親が従業員を新たに雇う事を渋っているのは、要領のよく明るくがんばり屋という条件以外に、服装に合う女性が居ないからなのではないかとヴィルフリートは踏んでいる。
なので、エステルのような可愛らしく且つ学習能力の高い娘は喜ばれるだろう。
親に恋人が気に入られるというのはよい事だとは思うのだが、どうしても複雑なヴィルフリートだった。
「あ、お母様にも改めてあいさつをした方がいいでしょうか」
「どうあいさつするのですか」
「ヴィルとお付き合いさせていただいてます、とか?」
お付き合い、のところでほんのりと頬を染めてはにかんだエステルに、ヴィルフリートは抱き締めたくなったのをこらえつつそっと首を振る。
おそらく、知られると大騒ぎになるので、もっと後に知らせたかった。出来れば、結婚辺りでも決まった辺りで。
「……家族がうるさいので、言うのはまた今度にしておいてください」
「ふふ、はぁい。……ヴィルは私のお義父様にあいさつします?」
でも今更ですよね、と笑ったエステルに、ヴィルフリートは動きを止める。
「……お義父様?」
「魔導院では言わないようにしてますけどね」
「……閣下の事で?」
「言ってませんでしたっけ、私はディートヘルムの養子です」
さらっと言われた言葉は、割とヴィルフリートに衝撃を与えていた。
確かに、ディートヘルムはエステルの保護者的立ち位置だとは思っていたが、改めて義父と言われると固まってしまう。
よくよく考えれば、有り得ない話ではなかったのだ。
幼少期から面倒を見てきて、あれだけ可愛がっていて、どうして他人だと思えたのか。本人も娘のように可愛いと言っていたが、実際関係上の娘なのだ。
むしろ自分はどうして養子にしないと思ったのだろうか。孤児だった兄妹の身元を保証出来るようにして尚且つうまく事件から隠せる人間など、方法など、限りがあるのだから。
「まあ養子縁組は保護のためのほぼ名義上のようなものですが、孤児だった私達に居場所をくれた人ですよ。事件関連で口止めしてるから、知っているのは魔導院の上層部くらいなんですけどね。ディートヘルムも娘というより弟子として扱ってきましたし」
「……あー」
「ヴィル?」
「……いえ、何でも」
今まで保護者に情けない事やのろけまがいの事を言っていたが、本当に父親だとは思っていなかったので、ヴィルフリートは絶賛後悔していた。
それから、よくよく考えてみればとんでもない人達に囲まれているのだと、今更気付いてしまったのだ。
「……将来的に筆頭魔導師が妻で前筆頭魔導師が義兄で魔導院牛耳る筆頭魔導師補佐官が義父になるとか洒落にならないぞ」
「ヴィル、さっきからどうかしました?」
「いえ、俺すごいところに飛び込もうとしてるんだなって実感しただけなのでお気になさらず」
エステルに言っても「そんなのただの名称ですし」とのほほんと言われてしまうので、ヴィルフリートは曖昧な笑みで誤魔化しておいた。
いつも感想や評価ありがとうございます。
感想は基本次回更新時に返信しているので、お返事をお待たせしてすみません。お返事は遅れますが返しますので、待っていただけたら幸いです。
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