53 すきということ
どのくらい待っていたのかは分からなかったが、少し頬が白くなっていたので、少なくとも来たばかりとかではないだろう。
扉の前で姿勢を正しつつそわそわきょろきょろしていた上司様の姿に、ヴィルフリートは慌てて近寄る。
向こうも声で気付いたらしくてびくりと体を震わせて、それからほんのりと頬を赤らめる。それでも袖から覗く手は白くなっているので、やはりそれなりに待ったのかもしれない。
「何か用事があったなら伝達魔法を飛ばせばよかったでしょうに……ほら、冷えてます」
「うひゃぅ」
白雪を思わせる頬を両掌で包むと、視線が泳いで裏返った声が出ている。
掌に染み込む温度は、いつもより冷たい。いつものふにふにもちもち具合も、やや硬いようにも感じる。硬いのはエステルの硬直のせいもあるだろうが。
「病み上がりなんですから、無理はしないでください。女の子なんですから、体を冷やしてはならないでしょう」
「……お母さんみたいです」
「誰がお母さんですか。全く……そもそも魔法で周囲をある程度温めておけばよかったでしょうに」
「……だって、頭を冷やそうと思って……」
「体が冷えてはならないでしょうに」
何か話があるのは分かったし、おそらく先日の告白云々で用件があったのだろう。
エステルの挙動不審具合から、かなり意識されている。わざわざこんな時間にヴィルフリートの家までやって来たのだから、それなりに期待しても良いのだろうか。
「何の用件かは分かりませんが……このままだとあなたはまた熱が出そうですし、立ち話もなんですので、どうぞ。温かいお茶くらい淹れますよ」
「は、はい」
別に他意はなく家に招くと、エステルは身を強張らせながらも素直にヴィルフリートの家に入る。
先に好意を示しているのだから、家に招く事に多少は疑ってほしくはあるのだが、意識しただけでも進歩だと言えよう。
普段なら喜んで寛ぐエステルも、今日はソファに座ってクッションを抱き締めている。
髪の色よりも濃く頬を染めたエステルは控え目に言っても可愛らしかったのだが、それを口にすると湯気が出て当分話してくれなくなりそうだったので自重しておいた。
「それで、どうしたのですか」
エステルお気に入りの茶葉で紅茶を淹れてしっかりと暖を取ってもらったところで、ヴィルフリートはゆっくりとエステルに切り出す。
これでも待った方なのだが、露骨に体を揺らしてしょげた、というよりは混乱たっぷりのおどおどとした様子でヴィルフリートを見上げてくる。
ぎゅう、とクッションを抱き締めてこちらを窺うので、ヴィルフリートとしてはうっかりいつものように頭を撫でてしまいそうになっていた。すれば十中八九エステルがフリーズするので、浮かしかけた手は膝の上に。
「……うう」
「唸っても分かりませんよ」
「だ、だって、ヴィルがあんな事言うから……。一杯考えて、ちゃんと、お話ししようって、思ったのです」
「そろそろ言わないと、俺も我慢出来るものではなかったので。随分とお悩みになったのですね」
「悩むに決まってます!」
ちょっぴりまなじりをつり上げたエステルだが、もともと柔和でおっとりとした印象を抱かせる顔立ちなので、全く迫力はない。
精一杯声を上げたらしいのだが、ヴィルフリートが見つめると意気込みが萎んでへにょへにょと眉を下げていた。クッションに顔を埋めて視線から逃げてしまう。
「ヴィルが、……好きとか、言うから。それなのに、ヴィルは平然としてるし」
「今までので通じなかったから、直接分かりやすく言ったんですよ」
「そ、それは、そうなんでしょうけど……っ」
「多分あなたは普通に好きだと言っても恋愛感情として受け取ってもらえなかったと思いますので、はっきりさせたのです。これで分かったでしょう?」
女として好きだと伝えて、抱き締めて、キスをして、それでようやく伝わったエステルの鈍さと天然さには脱帽するのだが、もし分かってもらえなかったら笑い話では済まない。
幸い伝わったのでこうして絶賛意識中なのだが、伝わってよかったと心から思う。
先日の事を思い出したのか顔を紅潮させているエステルは、ぎゅっと唇を噛んだ後伏し目がちにヴィルフリートの方を改めて見る。
「わ、分かりました、けども。い、いきなりそんな事言われたら」
「いきなりではないですよ。俺としては、割と分かりやすく好意を示していたつもりですが。本当に何も想っていない女性を抱き締めたりキスしたりする程、俺も軽くありませんから」
「ううう」
暗にこれでどうして気付かなかった、という事を言えば、エステルも心当たりはあったのか足をパタパタと揺らしてクッションを抱き抱え、体を丸めている。
悶絶しているエステルも可愛らしいと思うのは惚れた欲目なのだろうか、と大真面目に考えるヴィルフリートだったが、あんまりにエステルがこちらを意識しすぎているので、どうしたものかと悩んでいた。
ヴィルフリートとしては、別に今すぐどうこうしたいとか、そういうつもりではない。エステルの心の整理が追い付くまで待つつもりだし、いつも通り……いや少しだけ意識してもらって、男女の距離になっていけたらと思っていた。
「別に、返事はゆっくりで構いませんので」
「……でも、ヴィルはその間、ずっと待つのですよね……?」
「慣れてますよ。それに、うろたえるエステルを見るのも可愛らしいので良いかなと」
この一言は緊張しているエステルをほぐすための冗談混じりのものであったが、予想に反してエステルは否定したりムキになったり真っ赤になったりはしなかった。
静かにヴィルフリートの言葉を受け止めて、それからためらいが見える瞳で上目遣い。
「……あの、その……一つ聞いてもいいですか?」
「何ですか」
「……本当に、私の事……好きなのですか?」
「嘘つく必要はありませんよ。そこを疑われていたなら心外なのですが」
「そ、そうですよね」
エステルはぽふ、と自前のクッションに顎を乗せて、それからほんのりと困ったような表情を形作る。
「もしかして、嫌でしたか?」
「いっ、いえ、そんな事は。ただ……何というか、返事に困る、というか」
「それは拒絶の意味で?」
「違います!」
否定は、ヴィルフリートが想像したよりも強くされた。
ここだけはフーッと息を荒くして断言したので、まず嫌われていないし好かれている、というのはよく分かる。
頬が紅潮したのは、照れなのか、勘違いされかけた苛立ちなのか。
すぐに落ち着いてまた照れたように瞳を細めたエステルは、ヴィルフリートの視線にぷるぷると体を震わせた。
「……だ、だって、……こんなの、初めてです。ヴィルが、特別、なのに。こんな気持ち、ヴィルが初めて、ですもん。どうしたらいいのか、悩んでも、仕方ないでしょう。ヴィルだって、私がこういう事に縁がないの、知ってるくせに」
「そうですね。……あなたは、俺以外に男性を懐には入れていませんでしたからね」
身近に居たのは、イオニアスやディートヘルム、そしてエリクやマルコ。
孤児院に居た時代は知らないが、事件後からはイオニアスに交遊範囲を制限されていただろうし、ディートヘルムはあくまで師匠の立場。エリクやマルコは監視役という事で、本当に心を許す事はなかったのだろう。
だからこそ、心を許されているヴィルフリートは、特別なのだろう。エステルも、それは薄々分かっている筈なのだ。いや、特別という言葉を自覚しているのだ。
それが恋愛感情なのかどうか、答えに悩んでいたというだけで。
本当にそういう面では無垢なんだよな、とひっそりと笑うと、エステルはヴィルフリートの口許が緩んでいた事に気付いて拗ねたように眉をつり上げた。
そういうところが、あどけなくて可愛いのだと、本人は気付かないだろう。
「……では、俺にこんな気持ちとはどんな気持ちか、教えていただけますか?」
エステルは、自分で一つ、追求させる種を生み出してしまった。
エステルの特別に、一体どんな感情を向けているのか。他でもないヴィルフリートに向ける感情は、他人に向けるものとは一線を画するのだと自ら断言したのだから。
「そ、それはその……あの」
「言えませんか?」
「……は、恥ずかしい、のに」
恥ずかしい、の時点でほぼ答えが出ているような気がしなくもないが、ここでヴィルフリートは追求の手を緩める程甘くはない。
根気強くはあるが、攻める場所があるならきっちり攻めるのがヴィルフリートだ。
待つとは言ったが、答えが引き出せそうなら遠慮なく問いかける。
「俺も恥ずかしいけど言ったでしょう? それとも、もう一度言って欲しいですか?」
「だ、だめ、しんじゃう」
「それくらいでは死にませんよ。……エステル、どんな気持ちですか?」
エステルを落ち着かせるためにも部屋に入ってから触れないようにしていたが、その縛りももう投げ捨てる。
真っ赤に染まった頬を指の腹で撫でて、慈しむように微笑みかけると、エステルは日の暮れかけた空の色の瞳を雨でも降らせんばかりに潤ませた。
「……ヴィルの側に居ると、ふわふわします。あたたかくて、心地よくて、幸せです。でも、近付きすぎるとどきどきして、頭がぼーっとしてしまいます。キスされると、とけそうで、……ううう」
「それから?」
「い、いじわるです」
「これくらい許してください。散々焦らされてきているんですから」
半泣きになりかけているエステルにちょっとやり過ぎたかな、とは思ったものの、あんまりに可愛いので止めてあげられなかった。
続きを促すと、華奢な体を震わせて、それでも懸命にヴィルフリートを見上げて唇を動かす。
「……側に居ないと、さびしくて、苦しいです。ずっと、側に居て、ほしい。もっともっと触れて欲しい。キスだって、ヴィルになら、いいの。ヴィルで、私を満たして欲しい。あなたが居ないと、私は空っぽになってしまう、から」
そこまでエステルはか細い声で紡いで、ゆっくりとヴィルフリートの手に、自分の掌を重ねる。
微弱な震えが伝わる。冷えていた筈の指先は、これでもかというくらいに温もっていた。
すみれ色の瞳は、ヴィルフリートをただ見つめている。
羞恥と躊躇、それから期待に満ちた眼差しで。
「……私は、ヴィルの事が、好き、です」
たどたどしく、それだけ口にしたエステルは、そのままヴィルフリートの肩口に顔を埋めた。
限界だったらしく、ぷしゅうと湯気でも上がりそうな程に顔を赤くして居たエステルは、耳まで真っ赤に染まっている。
エステルの今までの『好き』とは明確に違う『好き』に、ヴィルフリートもエステルにばれないように瞳を揺らした。
もう、はばかる事はなく、エステルを抱き締めて良い。
そう思うと、否応なしに胸が高鳴って、込み上げる色々な思いが体を自然と動かした。
震える小さな背中を抱き締めて包み込み、その恥じらいや期待も何もかもまとめて、愛おしむように優しく撫でる。
もう、遠慮するつもりも、手放すつもりも、なかった。
ヴィルフリートの腕に収まったエステルは、最初こそ震えていたものの、やがて安堵したかのように体から力を抜いて、ヴィルフリートに身を任せていた。
「……すき」
すり、と無意識なのか肩に頬を埋めて甘えるようにすり寄ってくるので、ヴィルフリートもエステルの膝裏を抱えて足に乗せる。
隔てる空間もなくなったところでヴィルフリートが改めて抱き締めると、エステルは少しだけ体を強張らせたものの、結局はヴィルフリートにもたれて体を弛緩させた。
しばらく体を寄せ合っていると、ちら、とこちらを見上げてくるエステル。
相変わらずの真っ赤に熟れた頬と滴り落ちそうな程濡れたすみれ色の瞳だったが、今度は隠そうともせずにヴィルフリートの目の前にある。
「……いつもは恥ずかしがらないのに、今日は顔が真っ赤ですね」
「だ、だって……ヴィルが悪いんです」
「俺が悪いんですか?」
「ヴィルが、いじわるするんですもん」
「いじわるとは?」
「……わ、分かってて、言わせましたよね」
分かっていて言わせた、というのは、エステルの無意識の好意に気付いていた、という前提の事を指すのだろう。
「否定はしませんよ。あなたは分かりやすかったですから。でも、あなたの口から最後まで言ってもらわないと、意味がないでしょう?」
「……ヴィルの、ばか」
ばか、と言いつつ、その声は柔らかい。
ほんのりとすねたような響きには紛れもない甘えと好意が含まれていて、ヴィルフリートの口許は自然と緩んだ。
「すみません。どうしたら、許していただけますか?」
「罰として、私のして欲しい事、全部してください」
「それはご褒美なんですけどね」
エステルのして欲しい事は、先程の告白の返事に混じっていた。
そんな事を罰だというのなら、幾らでも受けるつもりだった。
随分と幸せな罰ですね、と囁いて、ヴィルフリートは顔にあったエステルとの距離を埋めた。
結果としてではあるが幾度となくエステルと唇を重ねてきたが、自らしたのはこれで三回目で、想いを確認してからはこれが初めてだ。
救命行為の時は感触を味わう暇なんてなかったし、告白の時はそんな事を考える前にどうエステルに伝えるかの方が優先だった。
初めて、互いに許し合って触れた唇は、とても柔らかい。
自身のものよりもずっとふにふにとして滑らかな感触のそれは、ヴィルフリートが感触を味わおうと少し擦り付けるとくすぐったそうに動く。
けれど逃げるとかではなく、あくまで応えるようにヴィルフリートの口付けには閉じた奥から甘い声を漏らし、受け入れてくれる。それだけで、たまらないほどに愛しさがこみ上げてきて、際限なく口付けをしてしまいそうになった。
柔らかく上唇を啄むと、エステルもとろんとした表情で同じようにまた返す。
キスをされると溶けそう、という本人の申告は間違ってはおらず、唇を離すととろんとふやけた表情と眼差しでヴィルを熱っぽく見ている。
もう一度噛みつきそうになりかけたのを堪えつつ今度は頬に唇を寄せると、はにかんだエステルもヴィルフリートの頬に唇を押し付けた。
「……すきです」
「知ってます」
「……どうしてそういう風に言うんですか。余裕があるの、ずるい」
「余裕なんてありませんよ」
「嘘です」
「嘘ではありませんよ。……こうすれば、分かりますか?」
ヴィルフリートとしては、割と一杯一杯であったのだが、エステルには伝わっていなかったらしい。
歳上だ、という事で余裕な風に振る舞いたかったヴィルフリートの努力は実っていたのだが、エステルのご機嫌を損ねたくもなかったので素直に取り繕うのは止めた。
そっと、エステルの耳を自身の胸元に誘うと、エステルは腕の中で「あ」と声を上げる。
自分でも脈がとんでもなく早い上に全身が燃えるように熱くなっていると分かるので、エステルからすればそれは顕著に窺えるだろう。
気恥ずかしさを押し殺していた事に気付いたエステルが、何だか楽しそうに笑ってヴィルフリートの胸に顔を埋めるので、暴露せざるを得なかったヴィルフリートも少しだけ照れ臭そうに笑ってエステルの背を軽く叩いた。
「ほら、笑うなって言ったあなただって笑ったでしょう」
「だって、お揃いだなあって」
きっと、お揃いなのは二人には見えないところで、だろう。
言われなくても、同じように胸がうるさい事くらい分かっていた。
顔を上げて幸せそうに笑うエステルが、ヴィルフリートの視線を受けて一層に頬をとろけさせる。
ヴィルフリートも、胸を満たす幸福感に相好を崩して、もう一度彼女から甘い声と笑顔をもっと引き出そうと、優しく唇を重ねた。
これで四章は終了で次から五章に入ります。一応最終章の予定です。最後まで応援していただけたら嬉しいです。




