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51 偽らぬ想い

 どうやらヴィルフリートが追いかけてくるのは分かっていたようで、ディートヘルムは少し先で待っていた。

 というのも、先ほどつけたのかほのかに足元を照らす光があり、ぼんやりとディートヘルムの姿を闇に浮き上がらせている。


「来たか。では行こうか。多少歩かねばなるまいが、何、君はそれくらいでは苦にもならまい」


 言いたい事だけ言って、ディートヘルムは指を鳴らす。

 背後で先ほど聞いた壁の動く音、そして次々と足元を照らし出すように、左右の床付近に光が灯る。


 そこで初めて気付いたのは、その光はどんどんと位置が下がっていて渦を巻くようにカーブしているのだ。


 そして、明かりをつけてようやく見えた、階段。

 緩やかな螺旋状になっているのか少し先の明かりは直接は見えなくなっているが、奥にもずっと光が宿っているのだろう。


 ディートヘルムから地下だとは聞いていたが、光が燃えるように灯った音がずっと奥から聞こえてきた事から、結構に長い道のりである事が分かる。


「どうした、怖じ気づいたか」

「いえ。……奥にエステルが居るのですよね?」

「そうだが」

「終わって疲弊した状態で登るのは辛くないかな、と」

「帰りは転移の陣があるから、一方通行で帰る事は出来る。上の魔力灯と奥にある儀式の間に魔力を注いでからでないと出来ないがな」


 転移の陣、とディートヘルムがあっさり言ってくれるが、転移自体非常に難易度の高い魔法となる。そういうものだと言われればそうなのだろうが、あまりにも軽々というので驚くタイミングを逃してしまった。


 ディートヘルムとしては特に気にする事でもなかったらしく、さっさと階段を降りていくので、慌ててヴィルフリートもその後を追った。




 二人で十分ほど降りただろうか。

 ずっと下り続けていた階段は普通の床になり、少し先に開けた場所が見える。


 おそらく、そこが儀式の間であり、国の最奥部……この国の根幹。


 自然とごくりと喉を慣らしてしまうが、ディートヘルムはお構いなしに先に進む。

 慣れた様子で進んでいく彼についていけば、やがて二人は狭い通路を抜けて広い空間に出た。


 それは、ヴィルフリートが何と口にしていいか分からずに声を上げる事すらためらうほど、美しい場所だった。

 形としては、部屋ではなく洞窟といった風だ。天井は岩をくりぬいたように不均一であるし、壁も同様に地層が露出している。


 ただ、青みの強い透き通った結晶が、壁や天井を彩るように生えていた。


 研磨した宝石にも劣らないような美しい石は内部から光を発しているのか、その石の色と同じ青色の光を放っている。

 澄んだ光が空間を照らしているため、薄暗くとも辺りが見回せるのだ。


 純粋な青ではなく、ほんのり緑混じりの碧い光が降り注ぐ様は、一瞬我を忘れるほどに神秘的な光景だった。


 その空間の中央部には、一つ大きな台座があり――壁や天井から生えたのと同じ、人の背丈ほどもある結晶と、その中心に大きな箱があった。


 この鉱石に守られているのではないか、という印象を抱かせるその中心部から、地面には複雑な軌跡を描く碧い光のラインが幾本も走っていた。

 淡く明滅する線は脈打つようにも見え、どこか有機的なものを感じさせる。


 この空間すべてが一つの装置である風に見えるが、実際、この空間そのものが国の根幹なのだから間違ってはいないだろう。


 ためらいつつも歩みを進め、中央の台座に進むと、巨大な結晶の中にあった箱の全貌が明らかになる。


 それは、棺桶、と表現してもよかったかもしれない。


 人が一人か二人寝られる程の大きさの直方体の箱に、ヴィルフリートの求める人は眠っていた。


 白い貫頭衣に身を包んだエステルは、腹部のあたりで指を組み、瞳を閉ざしている。


 棺桶だと思ってしまったのは、あまりにもエステルが静かに眠っているからだ。


 胸が上下しているから呼吸しているとは分かるものの、顔色が悪いせいで一瞬死んでいるのかと不安になってしまうほど。

 顔が青白く見えるのは、この空間の光もあるだろうが、何より魔力を捧げているせいでもあろう。


「ここは、筆頭魔導師が心血注いで保ってきた、国の心臓部。ここで、地脈の管理をしている」

「……今、エステルは、その役割を果たしているのですよね?」

「見ての通りな。役目が終わるまでは外の様子もエステルには伝わらないから、まだ私達が来た事には気付いていない。……ああ、死んではいないから安心してくれたまえ」


 一瞬宿した懸念を見抜いたディートヘルムはかすかに笑って、それからヴィルフリートの隣でエステルを見下ろす。


「……今日は、負担も大きい。目覚めてすぐは疲労と魔力枯渇で動けないだろう。その時はこれを飲ませてやってくれ」


 ディートヘルムは、懐から掌に収まるほどの大きさの小瓶を取り出す。中には薄緑の液体が八分目まで入っていて、ヴィルフリートの掌に落ちればちゃぷんと中で水音をたてた。


「これは」

「回復を促す薬だ。まずいだろうが、目覚めた時には役目も終わっているから、我慢させて飲ませてやって欲しい」

「……閣下が飲ませなくて良いので?」

「私より君が飲ませた方がエステルが喜ぶだろう。それに、私は先に上に戻る。君が居れば問題ないだろう」

「いいんですか、資格がない人間を残して」

「その判断を委ねる事を含めて、君を残す事にしたつもりだ」


 委ねる、というのは誰に委ねるのか。

 よく分からない事を言うディートヘルムであったが、説明する気はないようでそのままヴィルフリートの側を離れ、壁にあった大きな結晶の前に立つ。

 そこだけは床に碧のラインで幾何学的な模様を描いている。


 そっと石に手を触れた瞬間、ディートヘルムは結晶と同色の光に包まれ、消えた頃には姿を消していた。


「……置いていきやがった」


 思わず途方に暮れたような声が出てしまうのは仕方ないだろう。


 相変わらず説明をしようとしないディートヘルムにため息をつきつつ、棺桶のような場所で眠るエステルを眺める。


 やはりというか、場所が場所なのと顔色が悪いせいで、生きている気配が薄い。

 先ほどは死んでいるように見えたと言ったが、人形のように見える、が正しいのかもしれない。


 元々端整な顔立ちに均整とれた体つき、そして真っ白な肌をしていて、端正込めて作られた人形のように美しい少女のようだった。血の気が失せると、余計に作り物めいた美貌が目立つのだ。


 さすがに役目の邪魔をする訳にはいかないので手を伸ばす事はためらうが、本当に温かいのか、確かめたくなってしまう。呼吸をしているのは分かるが、どうしても不安になる。


『……――』


 思い直して少し距離をとったヴィルフリートだったが、ふと、何か音が聞こえて、顔を上げる。


 この場所は、ヴィルフリートのたてる呼吸音と足音以外の音は生まれない。エステルの呼吸も静かで、本当に耳を澄ませないと聞こえない程度のものだ。


 まだ、エステルは起きていない。

 聞こえたのは、何か声にも似た、音。


 そして、誰も居ない筈なのに、何かの気配がある気が、しなくはない。あると断言できないのは、はっきりとしたものでないのと、ここには他の誰も居る筈がないと分かっているからだ。


 一応あたりを見回しても、影すら見つからない。あるのは、結晶だけ。


(気のせいか?)


 早くエステルに起きて欲しい事からくる幻聴だったのか、と自分を納得させてエステルの様子を窺う事に戻る。


 すると、閉ざされていたエステルの口から、かすかに呻くような声がこぼれた。まぶたもわずかに動いている。

 目覚めたか、とすぐに小瓶を持ち直したヴィルフリートだったが、エステルの表情が苦しそうに歪みだしたのを見て、動きを止めた。


 おそらく、役目は終わっている。意識自体は浮上仕掛けているだろう。何となくではあるが、体外に流れていた魔力が収まった気がする。


 しかし、魔力を限界ギリギリまで流したのか、顔は先ほどよりも青いし、苦痛に表情は染められている。脂汗がうっすらと滲んでいるのは、魔力が枯渇しかけているせいだ。


 エステルを抱き起こしても、棺桶に反発や違和感はなかったが、エステルがヴィルフリートの名前を呼ぶ事はない。

 外に意識を向ける余裕はなく、ただ苦しそうに唸っている。


 ディートヘルムから渡された小瓶を唇に押し当て傾けるものの、口の端からこぼれてしまう。


(足りないのは、魔力。薬を飲ませるのが最善だとしても、他に方法は)


『――魔力を直接もらった日には満腹幸せなのですよ』


 あの時の彼女は、何をしたか。


 答えはとうの昔に出ている。

 薬を頼るよりもずっと早く、魔力そのものを手早く補給出来る手段はある。薬を流し込む手段としても使える事が出来る。


 しかし、それをするには、ヴィルフリート自らがしなければならないという条件がある。


「……ごめん、エステル」


 ためらいがなかったとは言わない。

 腕の中でぐったりしているエステルを見て、そんな事ためらうくらいならさっさと楽にしてやるために羞恥なんて投げ捨ててしまえ、と頭が叫んでいた。


 やり場の困った小瓶の中身を、ヴィルフリート自身の口に流し込む。

 ディートヘルムがまずいと言っていたのは過言ではなく、とんでもなく苦いし、えづきそうになるくらいには、まずい。


 けれど味を気にしている暇なんてある筈もなく、ヴィルフリートはそのままエステルの口に自身の魔力ごと薬を流し込んだ。


 多少こぼれても構いはしない。

 薬よりもずっと効きの良い、エステルにとっては甘美なそれも共に流し込んでいるのだから。


 幸い、ヴィルフリートの魔力が気付けになったのか、少し意識も明瞭になったらしく、流し込んだ薬をこくり、と嚥下した音と動きが見えた。

 そのまま、唇を重ねたまま、出来うる限り魔力を唇づたいに流し込んでいく。


 エステルの魔力は、常人とは比べ物にならない量がある。


 その殆どを費やしているのだから、そう簡単には元には戻らない。

 ヴィルフリートも自分のすべてを捧げようと回復しきるとは思っていなかったが、ヴィルフリートもかなり多い方ではあるので、こちらが枯渇しない程度に注げばまず危険範囲は脱する筈だ。


 ただ触れ合うだけの、キスというよりは救命行為。

 緊張するのは、エステルの顔色がすぐには戻らないからだろう。


 しばらく互いの呼吸の音だけを聞き続けていると、ゆっくりではあるがエステルの苦悶の表情は薄れていった。


 唇を離す時には顔色こそ普段よりよくないものの、表情は安らかなものになっていたし、唸るような声もなくなった。


 逆にヴィルフリートは多少体が重くなったような感覚がしたものの、これくらいは許容範囲だし、実戦でもっと酷い倦怠感を覚えるまで使い込んだ事もあったので、苦ではない。


 エステルを抱えて部屋に戻るくらいの体力は充分にあったので、ヴィルフリートはあまり揺らさないようにしつつ横抱きにして、足早にディートヘルムの消えた場所に向かった。




 光に包まれ、気付けば廊下の行き止まりにエステルを抱えたまま立っていた。


 初めての転移に感動を覚えている暇などなく、ヴィルフリートはエステルを抱えてエステルの部屋に移動してエステルを寝かせる。

 ちなみにディートヘルムの姿は見えなかったので、執務室に戻ったのかもしれない。


 儀式服らしい貫頭衣をどうこう出来る筈がなかったのでそのまま寝かせ、それからエステルの頬を撫でる。


 無理をしていた、というのはすぐ分かる。


 正しく言えば無理をさせられていた、と言うべきであろうが、エステルが拒める立場に居ないのも分かっているので、せめてもと優しくいたわるようにエステルに触れる。


 触れるだけでもエステルからすればほんのり魔力を感じて心地よいらしいので、回復の助けになるかと遠慮がちに触れた。


「ヴィル……」


 数分経ったあたりで、エステルも意識が覚醒したのか瞳を開き、ぼんやりとした表情でヴィルフリートを見上げた。


「おはようございます。お加減はいかがですか」

「……だるいです」

「でしょうね。枯渇寸前でしたから」


 覇気がないのは魔力消費の後だからだろう。

 全身の魔力回路をフル稼働させた疲労もすぐに抜ける訳ではないので、全身を苛む倦怠感も致し方ないものだ。


 どうやら起き上がろうとしていたのか体を浮かそうとするエステルに、無理はしないでと支えて上半身を起こしてやる。


 気を抜けばふらっとまたベッドに逆戻りしそうだったのでそのまま寄り添って背を支えると、何だかほんのり気恥ずかしさが今更ながらに襲ってきた。


 エステルがヴィルフリートの内心に気づいた様子がないのが幸いか。

 ただ、ヴィルフリートの言葉に考え込むような素振りを見せ、すみれ色の瞳を伏せている。


「……ぁー、そんなに吸われたのですか。……いつもより苦しんでいたと思ったのです。やはり前より悪くなっていたみたいですね」

「それは……」

「……多分、限界が迫ってきているのだと、思います。……だから」

「だから?」

「……早く、終わらせなきゃ」


 早く終わらせる、という言葉が指している事が分からない程、ヴィルフリートは鈍くない。


 しかし、エステルの口から出るにはいささか攻撃的なようにも思えるのだ。

 終わらせる、という事は、エステル自身が手を出すという事になるのだから。


「……イオニアス様は、退く気は見せてないのですね?」

「……ええ。イオニアス……兄様は、私の言葉なんて聞いてくれませんよ。ずっと、言ってるのに。私も、ディートヘルムも。……私の事、嫌いなのは、別に良いのです。私が苦労するのも、極論良いのです。ただ、私はこんな事で命を燃やし尽くさないで欲しいだけなんです」


 エステルにとって、ただ一人の血縁。

 互いにどこか疎んでいるようで、それぞれ相手を気にしているのは間違いないのだ。


「……ばかなんだから」


 小さく、エステルには珍しく罵倒を口にし、彼女はヴィルフリートの胸に顔を埋めた。


 エステルは、どれだけ普段ギクシャクしていようと、イオニアスを大切な肉親だと思っているのだ。


 死んで欲しくないからこそ、多少言い合いになっても役目を代わるし、心配そうに眉を下げて泣き笑いを浮かべる。

 自分が苦しい思いをしても、役目が嫌でも、結局その役割からイオニアスを遠ざけようとしている。


 ヴィルフリートの胸に寄りかかったエステルは、小さな体を更に小さくして、やり場のない悲しみともどかしさを身の内に押し込めているのだろう。


 兄妹間の事は、あまり口出しはできない。

 イオニアスも、何を考えて健康とは言えない体で筆頭魔導師であり続けるのか、分からない。

 一番彼の事を理解しているのは、ディートヘルムだろう。


 もう少し詳しく聞いてみた方がいいのかもしれない。

 たとえエステルが一度聞いたかもしれなくても、ヴィルフリートの視点からは別のものが見えてくるかもしれないのだから。


 疲れきったエステルを抱き締めて、ゆっくりいたわるように触れる。

 優しく包み込めば、エステルは体から力を抜いて、甘えるように体重を預けてきた。


「……ヴィル、今日はありがとうございます。ヴィルが、お薬飲ませてくれたんですよね」


 話題を意図的に変えようとしたのか、エステルは腕の中でかすかに微笑みながらお礼を口にする。

 ヴィルフリートとしては、あまり話題として触れて欲しくはなかったが。


「そ、そうです。その……どうやって、飲ませたとか」

「どうやって? あ、ヴィルの魔力も、すごく感じますけど……ヴィル、私に沢山魔力分けましたよね。もしかして」


 どうやらこういうところは鈍くないのか、朦朧として覚えていなかっただろうに、他の証拠から真実を拾い上げてくる。


「あー、その……俺が、口移しで飲ませましたので」

「……はい」

「……あなたの事ですから、普段を考えて嫌ではないとは分かっているのですが……何とも思わないので?」


 自意識過剰でも自信過剰でもなく、エステルはヴィルフリートとキスする事を嫌がりはしない。

 むしろ無邪気にしたがる側なので、された事自体は拒絶や叱責はされないだろうとは踏んでいた。


 ただ、あっさりとした態度が、男として複雑だった。


「何とも、というか……ヴィルにされるのは、嬉しいです。ヴィル、すきですもん」


 えへへ、と愛らしくはにかんでみせるエステルに、思わず唇を噛む。

 エステルを抱き締める腕に力がこもってしまうのも、仕方ないだろう。何せ、エステルはどこまでも無邪気でぽややんとしながら、ヴィルフリートを翻弄する小悪魔なのだから。


「……どういう意味で?」


 だから、気が付いたらそんな事を聞いてしまった。


「どういう?」

「一人の人間としての好意なのか、男としての好意なのか、そのどちらという事ですよ」


 ヴィルフリートも、ずっとお預けされて我慢出来る訳ではない。


 むしろ、この言葉を今の今まで聞かずに我慢した方なのだ。

 今の関係を崩したくないからと、恋のこの字を理解してなさそうなエステルの理解を待とうと、疑問をずっと抑えてきた。


 けれど、もう良いだろうと思ったのだ。


 踏み出さなければ変わらないのは、よく分かった。


 エステルは、自身を悪しからず思っている。

 何なら無意識に好かれている事は察していて、自分を懐に入れている事を確認して、そこまで条件が揃ってようやくこのように聞くのだから、ヴィルフリートは卑怯で奥手な人間なのかもしれない。

 そこまでしたのは、そうでもしないとエステルが気付かないだろうと踏んでの事なのだが。


 問いかけに、ヴィルフリートが慕う彼女はきょとんと美しい色合いの瞳を丸くする。

 そんな表情も可愛いと思う反面、もうこれ以上彼女の理解を見守るつもりもないぞ、と微笑ましく見守るつもりも愛でるつもりもない。


「……エステル」


 腕の中からこちらを見上げる少女に、ヴィルフリートは優しく、今度は救命行為でも何でもなく、自らの意思で口付けた。


 嫌がられる事は、なかった。


 突然の接触に瞬きを繰り返していたエステルも、すぐに瞳を細めて心地良さそうな表情を浮かべる。

 そういう所がヴィルフリートを急き立て全力で煽っているのだと、本人は露にも思っていないだろう。


 自分のものとは違うふにふにと柔らかい感触を短い時間だけ堪能したヴィルフリートは、ゆっくりと唇を離してからすみれ色を覗き込む。


 甘さを宿した瞳は、ヴィルフリートがじっと見つめるととろりと溶けたように揺らいでいる。

 ふわふわと高揚したような、満たされたような笑みすら浮かんでいるのだから、エステルとて満更でもないのだろう。


 ヴィルフリートがしたくなったらしてもいい、エステルはそう言ったのだから、エステルとしてはしたくなったからした、という認識なのかもしれない。

 ヴィルフリートからすれば、これは一つの決意の表れであり、もう後には引けないし引く気もなかった。


「俺は、好きでもない相手にここまで尽くしたりはしませんし、唇を許したりはしませんよ。全部、あなたにだけ。あなたが好きだから、こうして触れて口付けるのです」


 先日の告白が伝わっていなかったのなら、もっと直接的な言葉で言うのみだ。


「あなたが欲しくてたまらないし、許されるなら添い遂げたい。分かりやすく言うなら、あなたを一人の女性として、愛しています」


 勘違いや言い逃れはもう許すつもりもない。

 疲労している状態で頭を使わせるのも申し訳なかったが、今言わずにまたずるずると曖昧な関係を続けていくのは、ヴィルフリートとしてももどかしく辛かった。


 逃さない、という意味も込めて、エステルを改めて抱き締め真っ直ぐに彼女を見つめると、エステルは困惑していたが――しばらくすると、意味を噛み砕いたらしく、ぱち、ぱちり、とはっきり瞬きをする。


 それから、血の気の薄そうな頬が、一気に生気を取り戻したように赤らんだ。


 ぶわ、と頬に薔薇色が広がって、瞳が雫を纏ったように潤んでいく。あう、と呻くには可愛らしい声を上げて、おろおろと挙動不審気味にヴィルフリートの顔を見たり目を逸らしたり。


(あれだけ好き好き言ってたのに、言われるとこういう反応をするのか)


 腕の中でうろたえるエステルにかなり晴れやかな気持ちになってしまったのは、今までスルーされていたせいだろう。

 ここまで言わなければ分かってくれないエステルのぽけぽけ具合にはある意味脱帽するのだが、もう、彼女は理解してしまった。ヴィルフリートが理解させた。


 ここからは、エステル次第だ。


「……別に今すぐ返事しろとかそういう事は言いませんから。今日はゆっくり休んでください」

「……ま、まって、あの、ヴィル……っ」

「元気になればいつでも癒してさしあげますので、今日は大人しく寝てください。あと、俺は逃がすつもりはありませんので覚悟しておいて下さい」


 耳元で囁くと体を震わせて途端に大人しくなるエステルに、やっぱり耳は弱いんだなとヴィルフリート的には有益な事を覚えつつ、そっとベッドに寝かせてやる。

 熱が出ている訳でもないのに顔を火照らせた彼女が涙目で見上げてくるので、苦笑してそっと頬を指の腹でくすぐった。


「……また、ゆっくり考えてください」


 本気で熱が出てきたんじゃないかというくらいに顔を赤くしたエステルに優しく囁くと、エステルは口をぱくぱくと動かしたものの、言葉には出来なかったようでただ恥ずかしそうに瞳を伏せた。




 翌日、本当に熱が出て仕事を休んだとディートヘルムから聞いて、ヴィルフリートは「少し衝撃を与えすぎたかな」と苦笑いした。

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