46 夜闇の襲撃
ちょっと長めです。
窓から差し込む月明かりだけが薄暗い部屋を淡く照らす。
隣のベッドで静かな寝息を立てているエステルは、すっかり夢の中に居るのかヴィルフリートが立ち上がった際に軋んだ床の音にも起きる気配を見せていない。
無防備な姿を晒しているエステルは、実にご満悦そうな寝顔を浮かべている。寝る前にヴィルフリートが頭を撫でたりして寝かし付けたお陰だろう。
すっかり寝入っているのを確認してから、窓を見る。
タイミングを見計らったかのように、閉まっている筈の窓を透過するように飛んできた淡い光を纏う小鳥。小さな体が重さの一つも感じさせずに肩に止まった。
「すみません、少し待って下さい。側でエステル様が寝ていますので」
小鳥の向こうに居る存在に向けて小声で呟き、ヴィルフリートはなるべく音を立てないようにそっと部屋を出て鍵を閉める。
扉にあらかじめ用意していた模様を描いた紙を貼り付けて他にも少々細工を施し、そのまま宿の外に。
宿屋の外に出れば夜なのでほのかな肌寒さがあるが、軽装で特に問題はない。動く必要があるので着込むつもりもなかった。
「すみません、お待たせして」
『構わんよ。この時間までずれたのは私にも理由がある』
可愛らしい小鳥から聞こえるのは重厚感のある低い声で、そして聞きなれたものだ。
鳥越しに伝わってくる声にはやや疲労感があるので、仕事で忙しかったらしい。
本来はエステルも報告に参加する予定ではあったのだが、こうして時間がずれてしまった結果、というか早めに休ませたせいでヴィルフリート一人での通信となった。
「宿泊を予定していた町に到着したので、一泊の後に山に赴いて退治と調査に移ります」
予定されていた報告をしつつ、ついでに懸念事項として魔物狩りを目論む集団が居る等の情報を伝える。小鳥から呆れたような吐息が聞こえるので、ディートヘルムもいかに彼らの判断能力が欠如しているのか理解したようだ。
『ふむ、概ね事情は理解した。ところで』
「はい?」
『エステルとは同室なのか?』
言葉に詰まった。
最初にエステルが側で寝ている、と言った事から気付いたのだろう。
本来なら別室予定であったし、ディートヘルムもそのつもりで送り出した筈だ。それがよもや同室になっていたなんて思っても見なかっただろう。
「……その、例の彼らが宿の大部分を使っていまして、やむを得ず。誓って、やましい事は一切しておりませんし、考えてもおりません」
『別に君なのでそこは心配していないのだが。むしろエステルから添い寝でも迫られそうだと』
的確に当ててくるディートヘルムには戦慄を覚えつつ、エステルはそういう認識をされているんだ、とも実感。
あと自分をどう認識しているのかも問い詰めたくはあるが、流石に自重した。
「お断りしていますからね。ベッドも別ですし」
『そうか。まあ私がどうこう言う事はないのだが』
「とにかくそんな真似はしていませんので」
面白がられていそうなのできっぱりと否定するのだが、ディートヘルムはヴィルフリートの反応に喉を鳴らして笑っているだけ。
本人としては面白くはなかったが、文句を口にする訳にもいかず、唇を結んで眉を寄せるだけ。向こうは音声だけなので表情は見えていないだろうが、見えていたらまた笑った事だろう。
こほん、と咳払いをして、肩に乗った小さな小鳥を半眼で見やる。
「とにかく、何事もなく……いえ、今までは何事もないです」
『ほう』
「閣下、一つ質問良いですか?」
『どうかしたか?』
少しだけ愉快げな声。
ヴィルフリートが何を言いたいのか、そして何を考えているのか。今どうなっているのか。その辺り全て察していそうで、ヴィルフリートとしてはありがたくもあり恐ろしくもある。
「相手が襲ってきた場合、返り討ちにして怪我させても構いませんよね」
『ふむ。それは仕方ないな』
「了解しました。少しお待ち下さい」
それだけ聞ければ充分だ、と微笑んだヴィルフリートは、そのままくるりと振り返る。
先程宿屋から出てきたヴィルフリートを追うように、何人もの男達が姿を見せた。見た事のある顔なのは、数時間前に一悶着があったからだろう。
わざわざヴィルフリートが宿屋から出てくるのを待っていたらしい。宿屋内で騒ぎを起こせば女主人が飛んでくると分かっていたから、こうして一人になる隙を狙っていたのだろう。
女主人が「彼らが仕返しをするとか言っていた」とこっそり教えてもらったので警戒していたのだが、案の定過ぎて笑えない。
全部見透かしたように振り返ったヴィルフリートに、食堂でヴィルフリートを殴ったリーダー格の男が眉を寄せて一歩前に出る。
冷めた眼差しで見ている事が気に食わないのか、余計に顰めっ面になりつつあるのだが、ヴィルフリートとしては呆れずにはいられないのだ。
「俺に何か用でしょうか」
敢えて分かりきった事を口にして首を捻ると、リーダーの男は眉を吊り上げる。
「さっきはよくもやってくれたな」
「……何かしましたっけ」
「しらばっくれるなよ! てめえのせいで手首が折れるかと思ったんだぞ! その上恥かかせてくれやがって!」
勝手に絡んで突っかかってきて退いただけとヴィルフリートとしては思っているのだが、どうも人によって受け取り方は違うらしい。
元々顔付きも厳めしく眼光の鋭い人間のようであったが、怒りからか余計に人相が悪くなっており、薄暗い中だと余計に堅気の人間には見えない。そもそも堅気ではないだろうが。
「仕返しは不毛だと思うし、出来れば穏便に済ませたいので、互いになかった事にしませんか」
「出来る訳ないだろうが! 何一人ですました顔してるんだよ!」
すました顔も何もこれが平常なのだから仕方ないのだが、どうも燃料を注いでいるらしい。
若干ヴィルフリートも面倒くさくてわざとしれっとした顔をしているので、向こうを挑発した形になるのだろう。
「俺としてはあまり事を構えたくないのですけどね。町中ですからね、憲兵に見つかって事情聴取とか面倒ですし……止めにしません?」
面倒くさい、というのも自分のせいではあるので、相手はするつもりだが、やはり進んで面倒を増やしたいとは思わない。
外に出たとはいえ、町中である事は変わりないし、大騒ぎすれば何事かと憲兵も飛んでくる。ヴィルフリートとしては、彼らと違い別に探られても腹は痛くないが、時間が奪われるのは避けたかった。
「そう言って上手く逃げるつもりだろうがそうはいかねえからな。お前には落とし前を付けてもらわねえと」
「落とし前ですか、困りましたね」
身勝手な理論であるが、彼らにとっては筋が通っているのだろう。
全く焦らないヴィルフリートに彼らはやや苛立ちを見せたものの、自分達が有利にいると思っているらしく、にたりとどこか粘っこいような笑みを浮かべてヴィルフリートを見やる。
自分達が負けるとは露にも思っていないようだ。
「あの嬢ちゃんと同じ部屋のようだが、一人にしていいのか?」
「……一つ誤解をしてるんですけどね、彼女は俺より強いですよ」
宿屋の他の部屋に人の気配がしなかったのは確かめた。
ここに居る全員が、泊まっていた人間だろう。女主人から人数も確かめておいたので、その数とここに立つ人数を数えて数があっている事も確認している。
仕返しをするならリーダーはコケにしたヴィルフリートの方に来る、と踏んでいたので、想像通りこちらにやって来てくれた事はありがたい。男というのもあるので、最大戦力で叩くつもりなのだろう。
エステルの部屋には細工がしてあるので、もし見逃して無理に押し入ろうとしたら気絶する程度に電撃を流すように仕組んである。人質にとったり乱暴をしようとする事も想定しているので、そこに抜かりはない。
(まあ一人にしたところでエステルに危険はないだろう)
破ろうとすれば確実に大きな音を立てる事になるし、そうすればエステルは間違いなく目を覚ます。
エステルを心配はしているのだが、危険だとは思っていない。ただもし踏み入らせるような事がありでもしたら不快だろう。早めに片付けたい。
「そもそも、俺がエステルのところまで行かせる訳がないでしょう」
微笑みと共に、ヴィルフリートは宿の扉を凍り付かせた。
後で溶かすし壊れたら弁償はするので、と心の中で謝罪しておく。責められたら誠心誠意謝って弁償したらおそらく許してくれる筈だ。
「大体ですね、襲うって決めてるならわざわざ姿見せて会話する前に不意打ちくらいしないでどうするんですか。――俺が魔導師だって事、忘れてません?」
わざわざ急がなくても魔法を使う時間を与えた彼らは、迂闊だったとしか言いようがない。本物の魔導師を見た事がなかったのだろう。
ヴィルフリートは嘆くように目元を抑えて――そのまま、彼らの目の前に魔法で思い切り光を放った。
魔法の中でも単純な部類に入る、ただ光を生み出すだけの魔法。
ただ、ヴィルフリートが明確な意思で行使したならば、それは光源となるだけではなく眩く目を焼く程の光になる。
エステルの白い炎のような明るさをイメージしたので、相当の強さになっただろう。瞳を閉じ掌で覆っているというのに、指の隙間から光が漏れて瞼の上から突き刺さる。
さえざえとした光は、ヴィルフリート以外の目に焼き付いた。
失明する程ではないが、しばらく使い物にならない程度には、眩しいものだ。
流石にこの光ではヴィルフリートも見えはしないし町の外れとはいえ辺りの住民にも迷惑になるので(既に騒ぎになりそうで迷惑はかける前提だが)一瞬で魔法は消したものの、何の用意もなかった男達は目を覆って呻く。
当然その隙を見逃す訳もなく、ヴィルフリートはそのまま全員の足元を地面に縫い付けるように凍結させた。
瞬時に冷気が足元を漂いみるみる内に蒼氷となって彼らの足元を彩り、足を地面に根付かせるように固まる。膝下まで覆うように氷が生まれていた。
と、言っても中まで凍らせたらその部分を切り落とさざるを得ない程の凍傷になるので、あくまで表面だけであるが。
今のところそこまで彼らにお仕置きをする必要性はないし、壊死した場合恨みがひどくなるだろうから、そこまではしないつもりだ。今現在は軽い逆恨みで済んでいるが、足を奪われたら恨みどころの話ではないだろう。
自業自得、と言いたいところだが、彼らには通用しそうもない。
(最初っから仕掛けてこなければ良いんだが)
内心の呆れ返った嘆きが届く訳もなかった。
相手をしているのは、ヴィルフリートの親切心のつもりだった。
ヴィルフリートに手も足も出ない実力で魔物に立ち向かった場合、避けようもなく死が待っているのだから。
凍傷の一つや二つ、勉強代としては安いものではないか。
手加減している事にすら気が付かないのだから、これで接触禁止令の出された魔物を狩ろうとするなどちゃんちゃらおかしい。
本気で相手にするならそもそも目潰しなんて小細工をせずにそのまま消し炭にしてしまえば良いのだから。
「ってめぇ、卑怯な……!」
「人数揃えて襲撃する側が卑怯と言うのはどうかと思いますよ。あなた方のような人達は高潔な騎士様と違って何でもありのスタイルでしょうし、むしろ馴染み深いのでは?」
ここですかさず追い討ちしない辺り彼らより余程甘いと思うのだが、彼らはそれを考える余裕がないらしい。
視界を潰され身動きのとれない状態に落とされた彼らは、何とか脱出しようと見えないなりにもがく。
(さて、どうしたものかね)
足を封じられた彼らが出来る攻撃手段は、魔法か飛び道具。
しかし、視界を潰された状況で狙いなどつけられようがないだろう。下手をすれば仲間に当てる可能性がある。
魔法も国民の四人に一人程度は扱えるので彼らの中で魔法を使える人間も居るかもしれないが、視界なしにこちらを正確に狙えたりヴィルフリートを打ち破るような魔法を使えるのならば、こんなところでゴロツキとなっていないだろう。
一応考慮に入れておいた彼らの中で魔法を扱える人間が居る可能性だが、実際にあったらしく足下の氷を溶かそうと炎を生み出して温めていた。
だが――あまりにも威力が足りなかったので、思い切り風を吹かせて炎を灯していた魔力ごと雲散霧消させるように消し飛ばした。建物に当たらないように注意して飛ばしたので、何事もなかったかのように氷だけが残っている。
「魔法が使えるのは良い事ですが、町中で炎を使うのはいただけませんよ。完全にコントロール出来るならまた別ですが」
地面はただの土なので良いとして、周囲の建物の中には木造建築もある。もし火が移ったりでもしたら大騒ぎだ。
その場合はヴィルフリートが即座に消して問答無用で憲兵に突き出すが。
「そろそろ止めにしません?」
最初に視界を封じた時点で、もう勝敗など決していたのだ。
抵抗の余地を与えているのは、彼らの気が済む程度には好きにさせてやるという情けが入っていたし、実力差を思い知らせて魔物に手出しなどする気をなくさせるためであったのだが――どうも、失敗したようだ。
(町中で襲いかかるからこっちも気をつけてるのがまた面倒くさい)
どうせ襲うなら件の魔物が居る山中か町を出た後の方がタイミング的には良いだろうに、とは思ったものの、それはそれで面倒臭いしよけいな手間がかかるので好都合ではある。
彼らからすれば相手が一人の方が勝算があると思ったらしいが、全部想定していればさして恐れるものでもなかった。
はあ、とため息をついたヴィルフリートは、足元が凍って動けない男達を眺める。
このまま放って宿屋に戻りたかったが、また同じ事を繰り返されても困るので、ある程度脅しはかけておいた方が良い気がする。
勿論、一度痛い目を見たから退いてくれるというなら大歓迎ではあるのだが。
「退いてくれませんか。今なら何事もなかった事にしますし、エステルへの無礼も譲歩して見なかった事にしますので」
「てめぇ、舐めた口利きやがって……!」
「生殺与奪は俺が握ってるのによく言えますよね。おっと」
視界もようやく回復したらしい、わざと手を塞がなかったのでリーダー格の男が懐から刃物を取り出したのだが、利き腕を痛めているせいか動作がもたついていた。
故に投げる前にこちらが紫電を飛ばしてナイフを撃つ事も、容易かった。
相手からすれば不幸だった事に、握る部分まで刃と同じ金属で出来ているものだったので、握った掌が多少焼けたらしい。
あまり嗅ぎたくない肉の焦げる匂いに眉を寄せ、悲鳴には半眼を向ける。冷えた眼差しに、男達がやや身を強張らせたのが分かる。
「どうしましょうか、閣下」
『つくづく面倒に巻き込まれるな君は』
「これは俺のせいではないです。そもそも、この方々が魔導院の注意を無視しようとした挙げ句俺らに逆恨みして襲い掛かったのが悪いのでは」
確かにヴィルフリートもやり過ぎた感は否めないのだが、そもそも勝手に襲いかかってきたのは彼らであって、ヴィルフリートが何かしようとした訳ではないのだ。
リーダー格の手の火傷はともかくとして、他は凍傷程度に収めているので、正当防衛範囲内だろう。
「……もう少し平和な仕事がよかったんですけどねえ」
本当にエステルを一人で行かせなくてよかった。
エステルだとこういう事があった場合手加減出来ずに重傷を負わせる危険があった。
仮に何かあった場合、ディートヘルムも怖い。適度に加減が出来て周囲を警戒するヴィルフリートが随伴して正解だった。
「さて。……この件から手を引いて今すぐこの町から出ていき二度と俺達と関わらないと誓うなら、魔法は解除します」
「……しなければ?」
「そうですね、困りますね。まあ普通に憲兵の所につき出すか……一緒に山に行ってもらいましょう」
「は?」
今度こそ意味が分からないといった風に、リーダーの男は苦痛に歪みつつも理解しがたいという眼差しを向けてくる。
「あなた方の望み通り、存分に魔物と戦っていただきます。……それが目的でしょう? 手出しせず見守らせてください。勿論、魔物を殺せたならそれで別に構いませんし、その黄金の角とやらも持ち帰れば良いでしょう。俺達は倒せればそれで良いので」
ヴィルフリートは、別に彼らが欲する黄金の角に価値を見いだしていない。
討伐と浄化、それから大地の調査。仕事はこれだけであって、黄金の角というものはおまけであり必要ではない。
こちらを邪魔しないなら勝手に戦えば良い、そう思ったからこそ、同伴も選択肢に挙げた。
裏を返せば、彼らがどうなろうが知った事ではない、というものだが。
「ただ」
「ただ?」
「それを選ぶなら――特級魔導師がわざわざ派遣された、この意味を身をもって知っていただく事になりますね」
もしその道を選ぶなら、何があったとしても、彼らが選んだのだからヴィルフリートは手出しをするつもりはない。たとえ目の前で儚く散ろうが、それが選択だ。
勿論気分は悪くなるだろうが、最初から幾度となく魔物に近寄るなという警告をしているのにそれを無視して魔物を狩る選択をしたのだから、それはもうヴィルフリートが助けるものではない。
冷血と言われようが、責任はすべて選んだ人間にある。
にっこりと、ヴィルフリートが最大限に愛想を発揮した笑顔に、凍結により身動きを封じられた男達は全身を凍り付かせた。勿論比喩ではあるのだが、彼らの顔から血の気が失せている。
ただ微笑んだだけなのに、ヴィルフリートを見る幾多もの瞳は、何か恐ろしいものを見るような色を孕んでいた。
ヴィルフリートの瞳が笑っていない事に気付いたらしいリーダー格の男が、気丈にヴィルフリートを睨み付けるものの、意に介する事はない。
(これくらい脅しておけば、わざわざ行こうって事はないだろう)
彼らがどうなろうが知った事ではない、というのも本心であるが、ヴィルフリートも鬼ではないので命を散らす事を未然に防げるなら一応骨を折って説得くらいはする。聞かなかった場合は知らないぞ、というスタンスだ。
別に好んで死なせたい訳ではないので、聞き分けが良い事を祈っている。
ただ、彼らに判断を委ねる時間はなさそうだった。
「まあ、タイムオーバーですね」
「は?」
暗闇の向こうから光が近付いてきているのが見える。
それがランタンだというのは、すぐに分かった。
「閣下、こっそり別に伝達魔法使って憲兵呼びましたね」
『仕方なかろう。君もそろそろ面倒くさくなっていただろう。それに、この騒ぎだとエステルがそろそろ起き出しそうでな』
その言葉にふと二階の泊まっていた部屋を見ると――目を擦りながらエステルが窓から顔を出してこちらを見ていた。
(……どう言い訳しようかな)
目の前の男達はどうでもよくなった。とりあえずエステルにどう説明しようか、これが目下の課題として浮上してしまったのだ。
「閣下、エステル様の所に行ってください」
『誤魔化せないぞ』
「……後で俺から説明しますので」
返事はなく、ふわりと浮かんだ鳥はすぐに消えた。正しくは、エステルの元に飛んでいったのだが。
筆頭魔導師補佐官をいいように使っていいのか悩んだが、まあエステルの保護者のような人間なのでエステルの所に行かせるのはおかしい事ではないだろう。
「さて、もう面倒くさいので、俺達が仕事を終えるまで憲兵に繋がれていてください。終わったら釈放されるように手配しておきますから」
「なっ」
「二、三日頭を冷やしといて下さい。それと、俺だからまだ良かったですが、今後そういう事してたら戦闘職の魔導師って割と短気なので、不慮の事故が沢山起こるかもしれませんし」
特に貴族で戦闘職の魔導師は、こういった人間が大嫌いなので何をするか分からない。もしかしたら町の外で不慮の事故が多発してしまうかもしれない。
先に軽く痛い思いをしておくほうが長生きするだろう。
「あと」
忘れていたが、先程までは筆頭魔導師補佐官が居たのだ。
「さっきまで俺が話していた人、魔導師の中で二番目に偉い人間なので、彼を本気で怒らせるとあなた方お先真っ暗になりかねないのですよ。大人しくしておいた方が無難かと」
もしかしたら遠視で顔を覚えられたかもしれませんねえ、なんて嘘を交えた言葉を呟きわざとらしく嘆息をこぼすと、今度こそ彼らは大人しくなった。
「……ただいま帰りました」
駆け付けた憲兵に派遣された魔導師だと身分を明かした上で事情を軽く説明したりしていたら、いつの間にか空がほんのりと白み出していた。
こっそりと部屋に戻ったのだが、エステルがベッドで体を起こして不機嫌そうにこちらを見ていたので、どう言い訳をしたものかとヴィルフリートは苦笑。
既に通信は切っていたようで、ディートヘルムの鳥は居ない。
「何してるんですか」
「いや、定期報告してたら絡まれて」
「……わざとですよね? こっちを起こさないように、あと私に被害こないように引き付けたでしょう」
「閣下から聞いたのですか」
「予想です。ほら、当たってたじゃないですか」
むうう、と唇を尖らせているエステルはほんのりと顔色が悪い。エステルに被害はなかったが、変なのに絡まれる可能性があったとなれば気持ちがいいものではないだろう。
「心細い思いをさせてすみません」
「一人ぼっちにした罰としてぎゅーを希望します」
ん、と腕を広げたエステルに、ヴィルフリートは流石に躊躇った。
ブランケットを肩からかけているものの、着ているものは寝間着だ。長袖に足首まで丈のあるネグリジェではあるが、普段着ているブラウスよりも薄手。
抱き締めるには、いささか隔てるものが少なすぎるだろう。
そもそも一般論としてこの状態で抱き締めていいのか、と悩んだからこそ止まっているのだが、エステルはそれが不服だったらしい。
彼女にとって自分はどんな存在なのか、またしても大いに悩まされるのだが、彼女自体答えを持っていなさそうなので、余計に困る。
「……嫌なら良いですけど」
「嫌というか……ええと、……はい、抱き締めさせていただきます」
しょげだしたので、とりあえずブランケットでくるんでからそっと背中に手を回した。
「……私一人安全な場所に置いてかれるくらいなら、一緒に行かせてください」
「あんなに満足そうな寝顔されると、起こすのも気が引けますから」
流石に凝視してはならないと分かってはいたが、なんともあどけない寝顔だったので、寝入った直後は少しの間眺めてしまった。
すよすよ寝ていたので、睡眠の邪魔をしても悪いと思ったのだ。結果的に起こしてしまった事は申し訳なく思っているが、ヴィルフリートの責任だけではないので許して欲しい。
「……勝手に一人でどこか行っちゃう方が嫌です」
「次からは気を付けます」
「そうしてください。今度は私がヴィルを守るんですからね」
ぎゅー、とヴィルフリートにしがみついたエステルは、ふと手を離してヴィルフリートの目元に指先を沿わせる。
どうしたのかと思えば「隈が出来てますよ」との事。もう朝方と言っても差し支えない時間帯まで動き回っていたので、それも仕方のない事なのだが……痛ましげに見られると、困惑する。
中途半端な時間に起こされたエステルの方が眠そうなので、別にこれくらいどうも思わないのだが、エステル的には申し訳なかったらしい。
「……ヴィルの方が眠いですよね」
「そこまででもないですが……外も明るくなってますから、困りますね」
「……じゃあ、今日はとりあえず今から一旦寝て、明日改めて退治に行きましょう。ヴィル、魔法使ったでしょ。休まなきゃ」
「あれしきの事で消耗はしませんけど」
多少凍らせたり電撃を飛ばしたくらいで、消費は殆どないしすぐに自然回復する範囲だ。疲れてはいない。
多少眠気がある程度で、仮眠をすれば問題ない範囲だった。
「お仕事には万全を期するのですよ。……幸い、根城にしている山からは出てこないそうですから」
「……それはそうですが」
「私が仕事に就いたくらいですので、何が起こってもおかしくないですし、山に赴くのですからやはり体調は最高の状態で行くべきです」
至極まっとうな事を言って、エステルは全力でヴィルフリートを引っ張った。
多少寝不足感が出てきたのと、エステルが全体重(それでも軽いが)をかけ急に引っ張ったせいで、ヴィルフリートは体勢を崩して……そのままベッドにエステルごと倒れ込んだ。
突飛な行動のせいでそのままエステルに密着したままベッドに沈み込んでいる。体は、ベッドに。顔は――。
「さっきはヴィルに寝かし付けられましたので、今回は私が寝かし付けてあげます」
「い、いや、こ、この状態はですね」
具体的にどこに埋まっている、と言ってしまうとふわふわふかふかのそれなのだが、自覚すると一気に顔に血が集まる感覚がする。
流石に、何も考えず味わうのは、まずい。慌てて細い腰を掴んで顔を離したものの、むむぅと不満げに唇を尖らせているエステルが居た。
「……ヴィルフリートが喜ぶ、と聞いたのですが、違いましたか?」
「誰から聞きましたか」
「エリク」
「あんにゃろ、余計な事吹き込みやがったな」
あまり人と触れる事のなかった彼女に要らない知識を付けたエリクが今は憎い。
思わず先輩だろうが何だろうが苛立つのは止められず素で吐き捨ててしまい、エステルが紫の瞳を瞬かせている。
しまった、と眉を寄せてすぐに咳払いで「すみません、口が悪かったですね」とひきつった笑顔を浮かべると、何故だかエステルが瞳を輝かせていた。
「ヴィル、怒ると口調が崩れるのですね」
「わざと怒らせないでくださいね。後生ですから」
「そんな事しません、ヴィルに不快な思いはさせたくないです……あっ不快でしたかこれ」
「……その、……感触は心地よいですが、今後絶対にしないでください!」
とても嘘は言えなかったので最初は小声で感想を漏らしつつ、後半を強調する。
男なので嫌な訳がない。結果として徹夜となり判断力が若干落ちている今の状態でされて、うっかりそのまま頬擦りしそうになったくらいだ。
しかし、素直に甘受すると人として駄目になりそうな気がするので、全力で遠慮願いたい。
任務先の地で自分は何をしているのか、と呻きたくなるのを抑えつつエステルから体を離す。何のためにベッドが別なのか。
「とにかく、お言葉に甘えて眠らせていただきます。エステルも寝不足でしょうし、ゆっくりお休みください」
「はい。……ヴィル、ちゃんと寝てくださいね? 無理しちゃ駄目ですからね?」
「分かっていますから」
これ以上渋るとまたエステルの枕にダイブさせられそうになるだろう。それは止めておきたい。
エステルもヴィルフリートが寝たのを確認しないと寝ないであろうし、抵抗はやめてさっさと寝る事にする。もう危惧していた事は対処したし、安らかに休めるだろう。
隣のベッドに移って転がると、ふとエステルと視線が合う。
笑いかけてくるようにふにゃ、と頬が緩んだのがどうも気恥ずかしく背を向けると、くすくすと空気を押し出すような軽やかな笑い声が聞こえてきた。
「おやすみなさい、ヴィル」
そっと背中にかけられた声に、ヴィルフリートも「おやすみなさい、エステル」と小さく答えて、そのまま瞳を閉じた。




