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36 真面目な上司様には裏がある?

 ヴィルフリートの本職は、第二特務室の室長であるエステルの補佐である。エステル専属の料理人兼精神安定剤なのは否めないが、肩書きとしては補佐官だ。


 料理ばかりしてる、もしくはエステルと戯れてばかりいる、と思うなかれ。

 スケジュール管理は勿論ながら先んじて各種仕事に必要な手配等、エステルが仕事をしやすいように手を回している。


 ……閑職だからこそ、エステルのために料理をする時間があるのであって、普通に一部門のトップを補佐するならこうはいかないだろう。


 そんな訳で普段はゆるゆるとあまりやる気のないエステルをうまくコントロールしながら仕事を進めているのだが。


「エステル様、ここにあった書類は」

「先に終わらせておきました。それから朝ヴィルフリートが言っていた書類のチェックもヴィルフリートが料理を作っている間に終わらせてます。こっちが提出用のものですので後で持っていってください」


 本日は何故か、エステルが大真面目に仕事に取り組んでいた。

 出会った当初のエステルに見せられるものなら見せてあげたい。ヴィルフリートが昼食を作っている間に、あのエステルが全部終わらせているのだ。あのエステルが。


 自ら仕事を片付けているエステルに、ヴィルフリートは不覚にも目頭が熱くなった。


「……エステル様、真面目にすればすぐに終わりますね」

「ふふ、私だってやれば出来る子なのですよ」


 えへん、と胸を張ったエステルに、ヴィルフリートはゆるりと微笑んで頭を撫で……たら今日は出勤しているエリクとマルコに見られるのでやめておいた。

 割と無意識に遠慮なく触れるようになってしまっているので、せめて人の目があるところでは上司部下の清き関係を保ちたい。二人きりでも清い関係ではあるが。


「それを自分で言うのもどうかと思いますが……良いことには違いありませんね。お疲れ様です」

「ふふ、ありがとうございます。ヴィルフリートのおやつを美味しくいただくために頑張りました」

「良いことです。普段からこうしてくれたら俺も何も言わないんですがね」


 毎日業務をさくさく終わらせてくれたら、エステルがふらりと街に顔を出しても何も言う必要はないのだ。終業までぐうたらしていても咎めるつもりはないし、雑談でも何でもすればよい。

 まあ今日は仕事の量が少ないからこそこんなにも早く終わったのだが。普段の量ならもう少しかかるだろう。


 とにかく、今は珍しく真面目なエステルを労おうと用意していたデザートを出そうかな、なんて考えていたら……エステルは、少しだけ俯いて。


「……普段からこうしたら、疲れちゃうしヴィル構ってくれなさそうですもん」

「え?」

「いいえ、何でも。……さあ、頑張ったのでご褒美を!」


 本当に小さな声で呟かれたものだから、上手く聞き取れず聞き返すものの、エステルは二度は言おうとせず、ただ甘えるようにおねだりをしてくる。

 そこはエステルらしいので苦笑したヴィルフリートは、少し早めのおやつタイムを儲ける事にした。エステルが何か言った事など、すっかり忘れて。


「はいはい。今日は木苺とチョコレートのムースですよ」

「ほんとですか」

「エステル様が食べたいって仰っていたでしょう。今ご用意いたしますので」

「頑張った甲斐がありました!」


 余程嬉しかったのか、ふにゃりととろけた笑みを浮かべたエステル。彼女の笑顔にヴィルフリートは満足げな笑みを浮かべて、はらぺこ上司様に貢ぎ物をするべく厨房に向かった。




「……すっかり餌付けされてまあ」

「失礼な」


 エステルにムースを提供してその幸せそうな表情を遠目に眺めていると、マルコがぼそっと呟く。

 餌付けしているつもりは……ちょっとあったものの、打算が全てではない。単純に作ったものを美味しそうに食べてもらえるのは、料理人としては嬉しいだろう。料理人ではなく補佐官だが。


 本人は本日のおやつに夢中になっているのかこっちの声は聞こえていなさそうだ。時間も量もあるからゆっくり味わって欲しいと言ってあるので、お上品に食べ進めている。


「良いじゃねえか、あれくらいが健全だぜ。昔みたいに塞ぎ込んだり仕事ボイコットしてないんだから」


 嬉々としてムースを頬張っているエステルを、エリクはなんとも微笑ましそうに見守っている。


 思えばエリクはエステルを監視と言いつつ兄のように見ている節がある。マルコはかなり前から監視しているらしいが、エリクも同じようなものなのだろう。

 お役目とは別に、エステルを見守っているようだ。


「そんな時代があったのですね」

「お嬢が成人する前くらいにな。今では落ち着いているし、ヴィルフリートがきてからは仕事しだしたよ」

「……まあエステルも荒れてるというか、心を開かなかった時期があるから」

「そうなのですか?」

「俺らに心を許す訳がないだろ、見張りなんだから」


 それは、小さな声で、そしてひどく乾いた声だった。


 表情は苦笑を浮かべているのに、どこか悔恨を宿した眼差し。

 それはそうだろう、彼らとて好き好んでエステルの行動を見張っている訳がないのだ。止められるなら止めている、そんな表情だ。


 エステルもそれは承知の上で、彼らと接している。

 互いに役目があると理解しているから、踏み込めないし心を許さない。どちらもガラスの壁を隔てて接しているような、そんな印象を抱くのだ。


 だからこそ、時折ヴィルフリートに向けてくる彼らの声には羨望が宿っている。

 何もしがらみを持たないからこそ、その内側に入り込んでエステルの心に触れられる事に。自分の意志で彼女を慰められる事に。気兼ねなく彼女の側に居られる事に。


 おそらく、ヴィルフリートは役目柄二人がどうあがいても行く事の出来ない位置に立っているのだろう。


「何を話しているのですか?」


 三人でこそこそと話しているのに気付いたらしいエステルが、自分の席を離れひょっこりと現れる。テーブルの上には空になった皿がおいてあるので、食べ尽くしたらしい。

 ホールで用意したというのに胃の中に全て収めたエステルは、相変わらずほっそりとした柳腰。やはり異次元に繋がっているのではないだろうか。


「ん? ああ、お嬢もすっかりヴィルフリートと打ち解けたな、と。昔はディートヘルムにしかなつかなかっただろ」

「そうですね。ヴィルフリートは私の大切な部下で生命線で癒しですから!」


 癒し、という単語に先日のやわらかい感触を思い出して、思わず唇を押さえる。

 おそらく三回ほどエステルに唇を奪われている計算になる。唇ごときで女々しいとは自分も理解していたが、好意を抱く相手に無邪気にされれば動揺するのも仕方ない事だろう。


 純粋な親愛をこれでもかと振る舞うエステルは、色々と心臓に悪い。一番好かれている自信はあるが、恋情とはまた別だろうという事も分かっているのでちょっぴりやるせなさがあった。


「ヴィルフリート? どうかしましたか?」

「いえ、何でも。……あなたの生活を支えている自覚はありますので、今後とも精進します」

「……最早一緒に住んだ方が早いんじゃないのか」

「は!?」


 小声で呟いたエリクの言葉は、ヴィルフリートにとっては最も言って欲しくない言葉だろう。

 何故なら、エステルの性格を考えてそれに賛同しかねないのだ。


 毎日ヴィルフリートの側に居られてご飯が出てくる、エステルにとってメリットだらけだ。一般女性が思い浮かべる貞操的な身の危険やプライバシーの問題は、彼女には些事というか思い付かないだろう。

 信頼されていると言えばそうだし、虚しいが男として見られていないとも言える。


 引きつった表情を浮かべてしまい、恐る恐るエステルを窺うと……エステルは、ヴィルフリートが想像していたような無邪気に喜ぶ姿は見せていなかった。


「いえ、流石にヴィルフリートに悪いというか……その、もしあれが何かしてヴィルフリートにもしもの事があれば、嫌なので」


 あれ、が指す存在を、この場に居る人間は誰もが正確に把握した。


 どうしても、十年前の事件による憂いは晴れても、イオニアスの間に出来た確執は消えない。エステル自体イオニアスとは必要以上に接触したくないらしく、関係は冷戦に近いものがある。


 遠ざけてはいるものの度々ちょっかいを出しているイオニアスの存在が、エステルを留まらせているらしい。

 ヴィルフリートの家でご飯を食べるのはぎりぎり彼の許容範囲のようだ。ヴィルフリートとしてもそこが許容範囲なので、そこだけはイオニアスの判断は正しいと思っている。


(……流石に、寝泊まりをされると俺も何もしない自信がない)


 幾ら紳士的(奥手)なヴィルフリートとはいえ、一緒に住んでいて間違いをおかさないとは断言出来なかった。

 風呂上がりにタオル一枚でうろつくような無防備さを毎日見せつけられれば、健全な男子であるヴィルフリートはうっかり手を出してしまうかもしれないのだ。

 しかもエステルも拒まずふわふわと流されそうな辺り、余計にたがが外れそうで恐い。


 ここだけは、エステルを遠慮させるイオニアスに感謝を覚えていた。


 しゅん、としょげたように眉を下げたエステルに、ヴィルフリートはどうしていいのやら分からずに肩を縮める。


「……なあお嬢」

「はい」

「イオニアスの件がなければ、お嬢はヴィルフリートの家に住んでも良いと思ってるのか?」

「ヴィルフリートさえよければ。でもどちらかと言えば私のおうちの方が広くて良いと思うんですけどね。区画ごともらってるしお部屋も沢山ありますし厨房も中々大きくて……ヴィルフリート?」


 余計な事を聞いてくれたエリクに、ヴィルフリートはその場にしゃがみこみたくなるのを必死に耐えていた。

 なんというか、天然は怖かった。一緒に住んでもいいレベルで親愛の情を抱かれているのだ、と思えば嬉しいが、もう少し抵抗を持って欲しかった。


「あ、無理強いはしませんよ! 流石にヴィルフリートも自分の生活がありますし、これ以上侵食するのも申し訳ないですから。今みたいに、夕ご飯一緒に食べて暫く側に居てくれるだけで、私は満たされますから。たまにぎゅってしてくれるし、幸せ一杯ですよ!」


 あわあわ、と慌てて遠慮しているエステルに、エリクとマルコはこちらに視線を向ける。お前そんな事まで、と言いたげなそれに、ヴィルフリートの頬はまた引きつった。


 基本的に隠し事は苦手なエステルは、このまま放置してたらキスの下りまで言いかねない。それだけはまずい。言ったらどこに伝わるか知れたものではない。

 あの時の事だけは漏れるのは避けたいので、ヴィルフリートはエステルの頭にぽんと手を乗せて「分かっていますよ」とだけ先に言って、ひょいと耳元に顔を近付ける。


「それ以上は言ってはなりませんからね。俺とあなただけの秘密です。――いいですね、エステル」


 そっと小さな声で囁くと、エステルは固まった。

 どうやら分かってくれたらしい、そっと安堵の吐息をこぼしてエステルの表情を見て……後悔した。


 うっすらと薔薇色に色付いた頬。朝露をまとったようなすみれ色は、何だか恥ずかしそうに、瞳を伏せつつこちらを上目遣いに窺ってきている。

 照れたような、はにかんだような、そんな表情。


 普段は見せる事のない、恥じらいと甘えを含んだその表情に、エリクもマルコも固まっている。


 呻き声が漏れるのは、何とかこらえた。

 しかし、ヴィルフリートの頬まで赤くなるのは、どうにも抑えきれなかった。


(なんて顔をしてるんだよ)


 あんな顔をさせたのは、己の失策であるのは分かる。


 しかし、まさか囁くだけであんな顔をするとは思わなかった。


 いや、分かってはいるのだ、以前耳元で名前を呼んだ時に恥ずかしそうにしていたから、名前を呼ばれるのはなんだか慣れなさそうなのは。どうしてかはさっぱり分からないが。


 エステルと視線が合えば、今度は気恥ずかしそうに瞳を伏せられる。

 いかにも恥じらう乙女みたいな態度をとられて、ヴィルフリートも徐々に恥ずかしくなってきて慌ててかぶりを振った。


「とにかく、あー、……俺は、仕事に戻りますので」

「誤魔化した」

「お前さんお嬢が仕事終わってるから殆どないだろ」

「やかましいです。明日のおやつの仕込みがあります」


 顔を合わせるのが気恥ずかしく、追及したそうな二人から逃げるようにして厨房に素早く入るヴィルフリートであった。

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